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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第108話 王妃、辺境の議事録を読む

 王妃宮へ、北方旧所領からの定期報告が届いたのは、朝の祈りが終わった後だった。


 王妃エレオノーラは、その日、珍しく朝の茶に手をつけなかった。


 体調が悪いわけではない。

 機嫌が悪いわけでもない。


 ただ、待っていた。


 王太子府へ届く定期報告。

 王立書庫へ届く照合用写し。

 監査局で保管される改善進捗表。


 北方旧所領は、また三本の道を使った。


 ひとつの紙を、ひとつの場所へだけ送らない。

 王都のどこかで止まっても、別の道から同じ内容が届くようにしている。


 そのやり方を、エレオノーラは少し面白いと思っていた。


 疑り深いとも言える。

 慎重すぎるとも言える。

 けれど、王都という場所では、それくらいでちょうどいい。


 王妃宮の書斎へ、側近のセラフィナが入ってきた。


「陛下。王立書庫経由の写しが届きました」


「王太子府宛てより先に?」


「はい。王太子府では、補佐官室で仕分け中とのことです」


 エレオノーラは、ほんの少しだけ目を細めた。


「そう。では先に読みましょう」


 セラフィナが差し出した紙束は、思ったより厚かった。


 表紙には、几帳面な文字でこう書かれている。


 町代表者意見記録および改善対応状況


 その表題を見た瞬間、エレオノーラは小さく頷いた。


 反論文ではない。


 弁明書でもない。


 町代表者の意見と、その後の改善対応。


 王都で噂が広がっていることに対して、北方旧所領は感情で返さず、また一枚、鏡のような紙を送ってきたのだ。


 最初の項目は、豆売りの女主人の発言だった。


 町内優先分が多すぎると、露店の商いが苦しくなる。外から来る者にも売らなければ、銭が入らない。銭が入らなければ、次の豆を仕入れられない。


 その横に、改善対応がある。


 町内優先分と外売り分を週ごとに再計算。飢え対策の最低確保量を維持した上で、露店販売分を固定ではなく変動枠とする。次回公開記録日に再確認。


 エレオノーラは、指先で紙を軽く押さえた。


「なるほど」


 セラフィナが問う。


「いかがですか」


「不満が具体的です」


「はい」


「そして対応も具体的。誰かを褒める言葉より、よほど信用できます」


 次の項目は、荷車屋ヨハンの発言。


 荷車代の計算が見えにくい。荷が増えた日は仕事も増えるが、危険も増える。銀狐商会の荷と町内の荷を同じ扱いにされると不満が出る。


 改善対応。


 荷の種類別に危険手当の有無を検討。銀狐商会関連荷については、取引費用内に荷車負担分を明記する。町内通常荷とは別枠で記録。


 エレオノーラは、ふっと息を漏らした。


「このヨハンという者、たぶん口が軽いわね」


 セラフィナが少し驚いた顔をする。


「そこまでおわかりになりますか」


「発言の端に、軽さがあります。でも、見ているところは見ている」


 次は、ガレス。


 役はない方が楽です。けれど、誰が油を動かしたかわからないと、また火事の時に困る。もっと上手いやつがいたら代わってほしいです。


 エレオノーラは、そこで初めて小さく笑った。


 王妃の書斎に、やわらかな笑いが落ちる。


 セラフィナも、思わず口元を緩めた。


「随分、正直な方ですね」


「ええ。こういう発言を消さずに載せるところが面白い」


 改善対応は、こう続いていた。


 ガレス一名に負担が偏らないよう、油壺・薪置き場・重要荷受け渡しについて補助役を二名置く。字が不慣れな者用に、荷札写し欄を簡略化。時刻は正確な鐘時刻が不明な場合、朝・昼・夕・夜の区分で仮記録可。


 エレオノーラは、紙を置いた。


「これは、統治です」


 セラフィナは静かに頷く。


「不満を押さえつけていませんね」


「押さえつけていない。けれど、放置もしていない」


「はい」


「王都の噂では、“民に不満を言わせている”という話でした」


「ええ」


「これは違うわ。不満を言わせているのではなく、不満の行き先を作っている」


 エレオノーラは次の紙をめくった。


 夜番負担。

 井戸番の兵の発言。

 証拠棚警備で夜番が増え、休息が偏っている。

 改善対応として、夜番表に休息欄を追加し、証拠棚警備と井戸番の兼務を減らす。


 炊事場の負担。

 取引日や監査日に人が増えるため、豆と根菜の量が足りなくなる。

 改善対応として、取引費用の中に炊事場追加負担を記録し、臨時手伝いを二名配置。


 鍛冶屋の発言。

 紙が多い。

 しかし油と薪の記録がなければ、火災時に困る。

 改善対応として、鍛冶場用の記録は共通欄と用途欄に分け、一枚に統合。


 エレオノーラは、その一つ一つを丁寧に読んだ。


 華やかではない。


 英雄譚でもない。

 美しい忠誠でもない。

 民が領主を慕って涙する話でもない。


 豆が足りない。

 紙が多い。

 夜番がきつい。

 役はない方が楽。

 荷車代が見えにくい。


 そういう、あまりに生活に近い言葉が並んでいる。


 だからこそ、偽物に見えなかった。


「セラフィナ」


「はい」


「王太子府の下働きや女官たちの不満記録はありますか」


 セラフィナは少し黙った。


「正式なものは、ございません」


「補佐官室の業務負担表は?」


「部署単位のものはありますが、個人の負担や不満までは」


「王太子妃教育関連の残務は?」


「レティシア様が王都を離れられて以降、複数部署に分散されています。ただ、分散後の再集計はまだ」


「つまり、誰がどれだけ余分に背負っているか、見えていないのね」


「……はい」


 エレオノーラは、目を伏せた。


 北方旧所領の帳場は、未熟だ。


 しかし、自分たちが何を見ていないかを見ようとしている。


 一方、王太子府は整っているようで、見えていないものが多い。


 レティシアが王太子妃候補だった頃、その見えないものの多くを彼女が受け止めていた。


 今、その人がいない。


 だから軋みが出ている。


 アルベルトは、それをまだ「面倒が増えた」としか感じていないのかもしれない。


「この定期報告を、アルベルトへ」


「すべてですか」


「抜粋ではなく、全文」


「かなり量がありますが」


「読ませなさい」


 セラフィナは一礼した。


「付箋をお付けになりますか」


「ええ」


 エレオノーラは、少し考えた。


 前回は短く問うた。


 民の不満を聞く者を、民を煽る者と呼ぶ前に、あなたは自分の府の不満を聞いていますか。


 その問いで、アルベルトは動いた。

 ただし、動いたからといって、理解したとは限らない。


 今度は、もう少し逃げ道の少ない言葉にする必要がある。


 エレオノーラは筆を取った。


 この議事録には、美しい忠誠の言葉はありません。だからこそ読みなさい。豆が足りない、紙が多い、夜番がきつい、役はない方が楽――こうした言葉を拾うことを、統治の恥と見るか、統治の始まりと見るかで、王太子府の次が決まります。


 書き終えると、セラフィナが静かに目を伏せた。


「厳しいお言葉です」


「まだ足りないくらいです」


「殿下は反発なさるかもしれません」


「するでしょう」


「それでも?」


 エレオノーラは、紙束の上に手を置いた。


「反発できるうちは、まだ聞こえているということです」


 セラフィナは、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その頃、王太子府では、まさに不満調査の準備が混乱していた。


 エドガルは、補佐官室で部署別聞き取り案を作らせていた。


 しかし、これが思った以上に難しい。


 無記名にすれば、具体的な改善に結びつきにくい。

 記名にすれば、誰も本音を言わない。

 部署長を通せば、部署長への不満が消える。

 外部の監査官を入れれば、王太子府の面子が傷つく。


 レムスが紙を持って立っている。


「補佐官、女官、侍従、書記官、儀典係、商務係。それぞれ別紙にしました」


 エドガルはそれを見て、眉をひそめた。


「細かすぎる」


「では統合しますか」


「統合すると、どこで詰まっているかわからなくなる」


 レムスは黙った。


 エドガル自身も、今の言葉に皮肉を感じた。


 どこで詰まっているかわからなくなる。


 北方旧所領が何度も言っていることと同じだ。


 流れを見失えば、問題は見えない。


 エドガルは舌打ちをこらえた。


「聞き取りの目的を“業務改善”にする。王妃陛下の問いに応じる形ではなく、王太子府内の効率化として」


「はい」


「不満という言葉は使うな」


「では」


「業務上の支障、改善希望、負担偏り」


「承知しました」


 言葉を変える。


 不満ではなく、支障。

 文句ではなく、改善希望。


 王太子府らしい。


 だが、どれほど言葉を整えても、下から上がるものの本質は変わらない。


 それは、不満だ。


 その時、アルベルトが入ってきた。


 顔には苛立ちが残っている。


「準備は」


 エドガルは頭を下げた。


「進めております。部署別に、業務上の支障と改善希望を集約する形で」


「不満ではなく?」


「不満という言葉は、感情的に響きますので」


 アルベルトは少し考え、頷いた。


「よい」


 そこへ、王妃宮からの使者が来た。


 紙束が届けられる。


 エレオノーラからの付箋つき。


 アルベルトは、その文を読んだ瞬間、顔をこわばらせた。


 この議事録には、美しい忠誠の言葉はありません。だからこそ読みなさい。豆が足りない、紙が多い、夜番がきつい、役はない方が楽――こうした言葉を拾うことを、統治の恥と見るか、統治の始まりと見るかで、王太子府の次が決まります。


 アルベルトは、長い沈黙のあと、低く言った。


「母上は、俺に辺境の真似をしろと言うのか」


 エドガルは、すぐには答えなかった。


 下手に否定すれば、王妃への反発を煽る。

 肯定すれば、アルベルトの面子を傷つける。


「王妃陛下は、王太子府独自の形で改善を進めることを望まれているのだと思われます」


「独自の形」


「はい。北方旧所領の方法をそのまま真似る必要はございません」


 アルベルトは紙束を見下ろす。


 豆が足りない。

 紙が多い。

 夜番がきつい。

 役はない方が楽。


 そんな言葉が、王妃の付箋に引用されている。


 王太子府の美しい書類には出てこない言葉だ。


「読めと言うなら読む」


 アルベルトは、苛立った声で言った。


「だが、俺はレティシアの帳場を認めたわけではない」


「もちろんです」


 エドガルは頭を下げた。


「王太子府には王太子府のやり方がございます」


 アルベルトは紙束を持って、自分の机へ向かった。


 その背を見ながら、エドガルは内心で冷たく息を吐く。


 王妃の手が入った。


 これは厄介だ。


 王都社交界に流した噂は、確かに広がった。

 だが、王妃はそれをただ信じなかった。


 所見を取り寄せ、議事録を読み、逆に王太子府の内側へ問いを向けた。


 紙の外で火をつけたつもりが、その火が王妃の手で別の炉へ移されたようなものだ。


 燃える場所が変わった。


 そして今、王太子府の中でくすぶっている。


 一方、王妃宮では、エレオノーラが静かに茶を口にしていた。


 セラフィナが報告する。


「アルベルト殿下へ、全文をお届けいたしました」


「そう」


「殿下は反発されるでしょう」


「構いません」


 エレオノーラは窓の外を見た。


 王都の空は、まだ曇っている。


「反発したあとで、読むかどうかです」


「読まれなかった場合は」


「その時は、別の手を考えます」


 王妃の声は穏やかだった。


「レティシアは、辺境で不満を紙に乗せました。ならば王都も、自分の足元の声を聞くべきです」


「王太子府が、でしょうか」


「ええ」


 エレオノーラは茶器を置いた。


「王太子府が民の不満を聞けないなら、いずれ王国の不満も聞けなくなります」


 その言葉は静かだった。


 だが、王妃宮の奥で確かに重く落ちた。


 遠い辺境の議事録は、王都の机に届いた。


 豆と油と夜番の不満が、王太子府の扉を叩き始めている。


 それは、レティシアが意図した以上に大きな反響だった。


 ただの報告書が、王都の鏡になったのだ。

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