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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第110話 未確定の紙

 王太子府の聞き取り記録は、翌朝には三つの紙束に分けられていた。


 一つ目は、書記官たちから出た業務上の支障。

 二つ目は、侍従や女官たちから出た伝達経路の問題。

 三つ目は、補佐官室が作った改善案。


 ただし、三つ目だけが妙に美しかった。


 書記官の紙には、まだためらいが残っている。

 侍従の紙には、遠回しな言葉が多い。

 女官の紙には、誰かを傷つけないよう削った跡が見える。


 だが、補佐官室の改善案だけは違った。


 整っている。

 読みやすい。

 無駄がない。


 そして、不都合な温度が消えていた。


 エドガル・ヴァイスナーは、その改善案を机の上で揃えながら、若い文官レムスに言った。


「言葉が強すぎる箇所は直せ」


「はい」


「“返礼が滞っている”ではなく、“返礼確認に時間を要している”」


「はい」


「“予定変更が多い”ではなく、“予定変更時の共有手順に改善余地あり”」


「承知しました」


「“エミリア様へ未確定文書が渡っている”は……」


 そこで、エドガルは少しだけ考えた。


 消してしまいたい。


 だが、完全に消せば、後で王妃宮から全文との照合を求められた時に弱い。


「“王太子妃候補関連文書の確定状態表示が不十分”とする」


「はい」


 レムスは淡々と書き換えていく。


 これが王太子府の書類だ。


 角を落とし、感情を抜き、責任の線を柔らかくする。


 必要な作業ではある。

 だが、やりすぎれば、何が痛かったのか見えなくなる。


 エドガルはそのことを理解していた。


 理解した上で、整える。


 王太子府は、北方旧所領の帳場とは違う。


 豆が足りない、紙が多い、夜番がきつい、役はない方が楽。


 そんな言葉を、そのまま王太子の机に置くわけにはいかない。


 少なくとも、今のアルベルトには。


「補佐官」


 レムスが、筆を止めた。


「王妃宮から、原記録の写しも求められる可能性があります」


「あるだろうな」


「その場合、整えた改善案との差が出ます」


「差が出ること自体は構わない」


「よろしいのですか」


「改善案とは、原記録を整えて実行可能な形にするものだ。問題は、差が“整理”に見えるか、“隠蔽”に見えるかだ」


 レムスは少し息を呑んだ。


「では、原記録との対応表を作りますか」


 エドガルの指が止まった。


 対応表。


 また紙だ。


 だが、今それを作らない方が危うい。


「作れ」


「はい」


「ただし、表題は“原意見対応表”では硬すぎる。“業務改善案作成根拠一覧”にする」


「承知しました」


 レムスはすぐに別紙を用意した。


 その動きに、エドガルは内心で小さく息を吐いた。


 王太子府が、北方旧所領の真似をしている。


 誰もそうは言わない。

 言えば、アルベルトが不機嫌になる。


 だが実際には、そうだった。


 原記録。

 改善案。

 対応表。

 最新版管理。

 差し戻し理由。


 辺境の帳場が始めたものが、王太子府の机へ忍び込んできている。


 そのことが、エドガルにはひどく不快だった。


 昼前、アルベルトは改善案を読んだ。


 最初の数枚は、黙って目を通した。


 だが、三枚目で手が止まる。


「王太子妃候補関連文書の確定状態表示が不十分……これは何だ」


 エドガルは頭を下げる。


「エミリア様へお渡しする文書の中に、確定済みか検討中かが明確でないものがある、という現場からの指摘です」


「つまり、エミリアが混乱していると?」


「エミリア様ご本人ではなく、周囲の補助体制の問題です」


 アルベルトは不機嫌そうに紙を置いた。


「最近、皆がそれを言うな。本人ではなく周囲の問題だ、と」


「実際、王太子妃候補としての実務は複雑です。エミリア様にすべてを背負わせる段階ではありません」


「では、レティシアはどうしていた」


 言った瞬間、アルベルト自身が表情を歪めた。


 まただ。


 また、その名が出た。


 誰かに言われたのではない。

 自分の口から出た。


 エドガルは、少しだけ間を置いて答える。


「レティシア様は、十年近く王妃教育と王太子府の実務補助を並行しておられました。比較対象としては、あまりに経験差がございます」


「つまり、エミリアには無理だと?」


「今すぐ同じことを求めるのは酷だと申し上げています」


 アルベルトは黙った。


 酷。


 その言葉は、彼の胸に少しだけ引っかかった。


 自分は、エミリアに酷なことを求めているのか。


 明るく、柔らかく、自分の隣で笑うことを求めた。

 それなのに、今は返礼、席次、夫人たちへの応対、王妃宮との連絡、慰問書簡まで求めている。


 いや、違う。


 求めているのは自分だけではない。

 王太子府が求めている。

 周囲が求めている。


 では、その王太子府を動かしているのは誰か。


 アルベルトは、考えかけてやめた。


「改善案は」


 声を少し低くして問う。


 エドガルは別紙を差し出した。


「まず、文書に三つの札をつけます。確定、検討中、要確認」


「札?」


「はい。エミリア様へ渡す前に、どの状態の文書かを明示します。未確定のものを確定済みとして扱わないためです」


 アルベルトは紙を見た。


 確定。

 検討中。

 要確認。


 馬鹿馬鹿しいほど単純だ。


 だが、その単純な札がなかったために、王太子府では混乱が起きていた。


「そんなことで変わるのか」


「変わります」


 エドガルは答えた。


「少なくとも、何を判断すべきで、何を待つべきかが見えます」


「……やれ」


「はい」


「ただし、これを辺境の真似だと言わせるな」


「もちろんです」


 エドガルは頭を下げた。


 しかし、アルベルトもわかっていた。


 これは、辺境の真似だ。


 ただし、認めるわけにはいかない。


 午後、エミリアの部屋に三枚の札が届けられた。


 赤い細札には「要確認」。

 青い細札には「検討中」。

 白い細札には「確定」。


 侍女がそれを机に並べる。


「今後、王太子府から届く文書には、こちらの札が付くそうです」


 エミリアは、札を見下ろした。


 確定。

 検討中。

 要確認。


 まるで子ども扱いされているようで、最初は少し恥ずかしかった。


 だが、次に届けられた返礼文の束を見た時、その恥ずかしさは少し変わった。


 白札の文は、もう写してよい。

 青札の文は、内容を見るだけでよい。

 赤札の文は、アルベルトか補佐官へ確認が必要。


 わかる。


 何をすればいいのか、わかる。


 それだけで、胸の奥の息苦しさが少し薄くなった。


 侍女のリーナが、遠慮がちに言った。


「エミリア様、こちらの白札のものからご確認なさいますか」


「ええ」


 エミリアは頷いた。


 白札の文を手に取る。


 夫人への返礼。

 挨拶の文。

 定型に近いものだ。


 これならできる。


 次に青札。


 茶会の席次案。

 まだ検討中とある。


 以前なら、これを渡された時点で「私が判断しなければ」と思い込んでいた。

 だが、今は検討中と書かれている。


 決めなくていい。

 見て、気づいたことがあれば言えばいい。


 エミリアは、少し迷ってから言った。


「この席、ローゼン侯爵夫人とミュラー伯爵夫人が近すぎるかもしれないわ」


 リーナが驚いた顔をした。


「お気づきでしたか」


「前に、お茶会で少し気まずそうだったから」


「では、検討意見として記録いたします」


 記録。


 その言葉に、エミリアは少し身構えた。


 だがリーナは、責めるような顔ではなかった。


「検討中の紙ですので、意見を残せばよいそうです。決定ではありません」


「そう……」


 決定ではない。


 それなら言える。


 エミリアは、はじめて少しだけ自分の意見を紙に乗せた。


 ローゼン侯爵夫人とミュラー伯爵夫人は、前回茶会にて会話が途切れがち。席を一つ離す案を検討。エミリア確認。


 自分の名前が入った。


 失敗の記録ではない。

 迷いの記録でもない。


 検討意見として。


 エミリアは、その小さな一文を見て、不思議な気持ちになった。


 姉は、こういう世界にいたのだろうか。


 すべてを決めるのではなく、気づいたことを紙に残し、誰かへ渡して、次の判断につなげる。


 自分ができないことを隠すのではなく、どの段階なのかを見せる。


 それは少し怖い。


 けれど、全部を抱えるよりは楽だった。


 夕方、アルベルトはエミリアの部屋を訪れた。


 珍しいことだった。


 彼は机の上の札を見て、微妙な顔をした。


「こんなものまで使っているのか」


 エミリアは少し緊張した。


「はい。でも、わかりやすいです」


「わかりやすい?」


「どれを私が見ればいいのか、どれはまだ待てばいいのか、わかります」


 アルベルトは黙った。


 エミリアは、少し勇気を出して青札の席次案を見せた。


「これ、検討中の席次表です。ローゼン侯爵夫人とミュラー伯爵夫人の席を少し離した方がよいかもしれないと、意見を出しました」


「お前が?」


「はい」


「なぜ」


「前回のお茶会で、少し気まずそうでした。お姉様なら、もっと前から気づいていたかもしれません。でも……私も、見ていなかったわけではないので」


 言ってから、エミリアは自分で驚いた。


 お姉様なら。


 その言葉を、自分から口にした。


 だが、今回は以前ほど痛くなかった。


 姉と同じでなくてもいい。


 今は、そう思いたかった。


 アルベルトは紙を受け取り、短い意見欄を読んだ。


「悪くない」


 その一言だけだった。


 けれど、エミリアの顔が少し明るくなった。


「本当ですか」


「ああ」


 アルベルトは、少し照れたように視線を逸らした。


「そういうことに気づくなら、もっと言えばいい」


「言っても、よろしいのですか」


「検討中なら、言えばいいのだろう」


 自分で言いながら、アルベルトは少し嫌そうな顔をした。


 また紙に導かれている。


 そんな気がしたのだ。


 だが、エミリアが少し安心した顔をしているのを見ると、その嫌悪は声にならなかった。


 王太子府の小さな札は、その日のうちにいくつかの部署へ広がった。


 確定。

 検討中。

 要確認。


 単純な札だ。


 だが、これまで曖昧に流れていた紙の状態が見えるようになると、差し戻しは少し減った。


 もちろん、問題が解決したわけではない。


 補佐官室は忙しい。

 女官たちはまだ疲れている。

 書記官たちの机には、未処理の束が積まれている。

 アルベルトは相変わらず不機嫌になりやすい。

 エドガルは、何をどこまで見せるか計算し続けている。


 それでも、一つだけ変わった。


 未確定の紙が、未確定として置かれるようになった。


 夜、フェルナー監査官はその報告を受け、監査官室で短く頷いた。


 ハンスが少し嬉しそうに言う。


「王太子府内で、確定・検討中・要確認の札が使われ始めたそうです」


「そうか」


「北方旧所領の仮登録札に似ていますね」


「似ているな」


「よろしいのでしょうか」


 フェルナーは、紙から目を上げた。


「よい悪いではない。役に立つなら使えばいい」


「殿下は、辺境の真似と言われるのを嫌がるのでは」


「名前を変えればいい」


「名前?」


「王太子府式進行札、とでも呼べ」


 ハンスは思わず笑った。


「それは少し大げさです」


「王都は大げさな名を好む」


 フェルナーは淡々と言った。


 ハンスは、笑いをこらえながら記録した。


 王太子府内にて文書状態札の試験運用開始。確定・検討中・要確認。差し戻し減少の可能性あり。


 フェルナーはそれを見て、少しだけ考えた。


「追記しておけ」


「はい」


「未確定のものを未確定と呼ぶだけで、防げる混乱がある」


 ハンスは、その言葉を書いた。


「北方旧所領の食い違い記録と同じですね」


「そうだ」


 フェルナーは窓の外を見た。


 王都の夜は、灯りが多い。


 だが、灯りが多い場所ほど、影も多い。


 未確定のものを確定のように扱えば、人はその影で転ぶ。


 北方旧所領は、穴に名をつけた。

 王太子府は、ようやく未確定の紙に札をつけ始めた。


 それは小さなことだ。


 だが、王都にとっては大きな一歩かもしれなかった。


 一方その頃、エドガルは補佐官室で、文書状態札の報告を聞いていた。


「差し戻しが少し減っています」


 レムスが言う。


「エミリア様からも、検討意見が一件出ました」


「席次か」


「はい。悪くありません」


 エドガルは頷いた。


「それはよい」


「ですが……」


「何だ」


「この運用が広がれば、誰の段階で止まっているかも見えやすくなります」


 エドガルの指が止まった。


 その通りだった。


 確定、検討中、要確認。


 状態が見えるということは、停滞している場所も見えるということだ。


 どの部署で止まっているか。

 誰の確認待ちか。

 誰が未確定のまま回したか。


 便利な札は、同時に責任の札にもなる。


 エドガルは、少しだけ口元を歪めた。


「やはり紙は厄介だな」


 レムスは何も言わなかった。


 エドガルは、窓の外に広がる王都の灯りを見た。


 辺境の帳場から始まったやり方が、王太子府の中へ入り込んでいる。


 まだ小さい。

 まだ名を変えれば誤魔化せる。

 だが、確かに入り込んでいる。


 そして、入り込んだものは、必ず何かを見えるようにする。


 それがエドガルには、不快であり、危険であり、少しだけ恐ろしくもあった。

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