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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
日常と暗い影

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見知らぬ景色

 クロたちの姿が空間の揺らぎに包まれ、次の瞬間には、ジャンクショップのリビングへと移っていた。


 つい先ほどまで目の前に広がっていた、洗練されたオンリーの部屋は跡形もない。代わりに現れたのは、使い込まれたソファーやテーブルが置かれた、見慣れた生活空間だった。


「どういう……ことだ?」


 クロの足元に横たわっていたハルトは、突然変わった景色に目を見開いた。


 投げられた直後の混乱すら、一瞬忘れてしまったらしい。周囲を見回すものの、先ほどまでいた場所との共通点は何一つ見つからず、続く言葉が喉の奥で途切れていた。


「ちょっと、三人とも靴を履いたままじゃない!」


 アヤコの声に、クロは自分の足元へ視線を落とした。


「あっ」


「忘れてたっす!」


「後で掃除してよ」


「すみません。うっかりしていました」


 クロは頭を掻きながら謝ると、話題を変えるように軽く手を叩いた。


「そうそう。頂いた服はあとで分けて、それぞれに渡しますね」


 ハルトの混乱を気にする様子もなく、クロは何事もなかったかのように告げた。


「もう。話をそらして。掃除してくれるなら、まあいいけど」


 アヤコは壁の時計をちらりと確認すると、小さく肩をすくめた。


「まあいいや。ちょうど夕食の時間だし、今日はもう店を閉めようか」


 アヤコは軽く身体を伸ばすと、店を閉めるため、リビングと店舗を隔てる扉へ向かう。


「なら、僕は帰ります」


 ダリも作業用端末を大切そうに抱え直し、玄関へ視線を向けた。


「それなら、自分が送ってくっすよ。まだこの辺りの道は、よく分からないと思うっすから」


「ありがとうございます」


 エルデが快活に笑う。


「ダリ。靴がありませんよね」


 クロは別空間から、自分が以前使っていた予備の靴を取り出し、ダリへ差し出した。


「これを使ってください」


「お借りします」


 ダリは靴を受け取ると、エルデと一緒に玄関へ向かった。そこで借りた靴を履き、二人で外へ出ていく。


 やがて二人の足音が遠ざかり、扉が閉じた。


 アヤコも閉店作業のため店舗側へ姿を消し、リビングにはクロとクレア、そして床に横たわったままのハルトだけが残された。


「さて、ハルト。いつまでその格好でいるつもりですか?」


 クロに声をかけられ、ハルトは我に返ったように身体を起こした。


 そして、自分が床へ伏せたままだったことに気づくと、羞恥と怒りを押し隠すことなく、勢いよく立ち上がる。そのままクロへ詰め寄り、声を荒らげた。


「なんだ、今のは! ここはどこなんだ!」


 混乱のまま伸ばされた両手が、クロの胸倉を掴もうとする。


 その動きに、クロの肩にいるクレアの喉から低い唸りが漏れた。今にも飛びかかろうと、小さな身体を沈めた。


「クレア。そのままで」


 クロが視線だけで制すると、クレアは牙を覗かせたまま、その場に踏みとどまった。


 その直後、ハルトの指が衣服へ触れるより早く、クロは両手首を容易く受け止めた。


 ハルトが驚く間もなく、その両腕を頭上へ持ち上げる。


「ここは、フロティアン国のF18コロニーです」


 クロは特に力を込めているようには見えない。


 それにもかかわらず、ハルトがどれほど腕を引こうとしても、手首は微動だにしなかった。


「……は?」


 告げられた場所をすぐには理解できなかったのか、ハルトの顔から怒りがわずかに抜け落ちる。


 しかし、すぐに言葉の意味を理解すると、再び眉をつり上げた。


「ふざけるな! さっきまで私たちは、オンリーワン様がおられる小惑星にいたんだぞ!」


「ふざけていませんよ」


 クロは淡々と答える。


「口で説明しても信じないでしょうから、自分の目で確かめてください」


 クロはハルトの二本の手首を片手でまとめて掴み直すと、そのまま玄関へ向かって歩き始めた。


「ま、待て! 放せ!」


 ハルトは足を踏ん張り、どうにかクロの手を振りほどこうとする。


 だが、まるで動かない巨大な何かに引かれているように、抵抗は何の意味もなさなかった。床へ靴底を擦りつけても勢いを弱めることすらできず、半ば引きずられるようにリビングを横切っていく。


「抵抗しても無駄ですよ」


「何なんだ、お前は……!」


「それを知るのは、もう少し先です」


 クロは空いている手で玄関の扉を開き、ハルトを連れたまま外へ出た。


 そして、戸惑う少年が景色を見渡せるように手を放す。


「これで、分かりましたか?」


 怒りに任せて何かを言い返そうとしていたハルトは、顔を上げた瞬間、その場で動きを止めた。


 目の前には、夕刻を迎えつつあるF18コロニーの街並みが広がっている。


 道の両側には住居や店舗が並び、灯り始めた照明が人々の暮らしを静かに照らしていた。それだけならば、どこにでもある居住区に見えただろう。


 だが、視線を上げれば、その常識は容易く崩れ去る。


 空の上に、もう一つの街がある。


 遥か頭上では、逆さまになった建物や道路が、湾曲した内壁に沿ってどこまでも続いていた。小さく見えるエアカーが遠い空を滑り、人々が暮らす区画の灯りが、曲面の彼方まで連なっている。


 ミラーから届く光は赤みを帯び、巨大なコロニー全体を緩やかな夕暮れへ染めていた。


 少なくとも、ハルトがこれまで暮らしてきたオンリーワンの区画では、目にしたことのない景色だった。


 ハルトの口がわずかに開く。


 先ほどまで浮かんでいた怒りも侮りも消え失せ、ただ目の前にある現実を受け止めきれずに立ち尽くしていた。


「……嘘だ……」


 ようやく絞り出された声は、ひどく掠れていた。


 クロはそんなハルトの横顔を見つめながら、静かに答える。


「嘘ではありません。貴方は今、小惑星オンリーワンから遠く離れたF18コロニーにいます」


 その言葉を証明するように、遥か頭上の道路を一台のエアカーが滑っていく。


 ハルトは目でその軌跡を追ったあと、湾曲した内壁の彼方へ視線を向けた。


 自分が知っていた世界から、ほんの一瞬で引き離された。


 その事実が、遅れて実感として胸に落ちてきたのだろう。


 ハルトの顔から血の気が引いていく。


 対するクロは、驚きに染まった横顔を眺めながら、小さく息を吐いた。


「オンリーさんは、貴方に世界を見てくるよう言いました」


 クロは頭上に広がる、もう一つの街へ視線を向ける。


「その最初が、ここです」

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