言葉を失う
ランウェイの奥、中央に設けられた扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
それまで暗く沈んでいた舞台の奥から、柔らかな光が差し込んだ。
その光に呼応するように、舞っていた桜の花弁がさらに数を増していく。
一枚、また一枚。
淡い光を受けながら、花弁はゆっくりと宙を漂い、その中からオンリーが一歩を踏み出した。
そして、もう一歩。
急ぐことはない。
観客を焦らすようでもなく、自らを誇示しようとする様子もない。ただ当然のように、自分の歩幅でゆっくりと進んでいく。
その動きは、しなやかでありながら、どこまでも艶やかだった。
身体の軸は一切ぶれない。
足を進めるたび、結い上げられたブラウンの髪を飾る簪から垂れた、色とりどりの宝石が揺れる。
互いに触れ合うたび、澄んだ小さな音が響き、その音さえもオンリーの歩みに合わせて奏でられる音楽の一部に思えた。
黒と深紅の長い裾が、床を撫でるように流れていく。
大きな袖がわずかに揺れる。
片手に提げた黒地のバッグも、オンリーの歩みに合わせて静かに揺れていた。
そのたびに金の装飾や紅白の花々が照明を受けて表情を変え、舞台そのものまで塗り替えていくようだった。
その一歩ごとに、会場の空気は静かにオンリーのものへと変わり、観客の視線もその姿へ引き寄せられていく。
オンリーがほんの少し身体を傾け、長い睫毛の奥から視線を流した。
その瞬間、それまでの力強い印象が一変する。
そこに生まれたのは、見る者に女性的な美を錯覚させるほどの、危うい色香だった。
男性としての強さ。
女性的な美しさを思わせる艶。
二つは互いにぶつかることなく、むしろ一方がもう一方を引き立てている。
強さがあるからこそ、艶やかさが際立つ。
艶やかさがあるからこそ、その身体に宿る力強さが、より鮮明になる。
どちらか一方ではない。
オンリーという一人の存在の中で、二つの美が完全に調和していた。
やがてオンリーが、観客たちの前をゆっくりと通り過ぎる。
その歩みに合わせて、細く引き締まった腰から流れるドレスが静かに揺れた。そこには、深いスリットが入っている。
けれど、立ち止まっている時には、ほとんど目立たない。
一歩を踏み出す。
その瞬間だけ、布の間から長く伸びた脚が覗く。
すぐに隠れ、次の一歩でまた現れる。
見せ続けるのではない。
隠しながら、必要な瞬間だけ見せる。
その一つ一つの動きまで、すべてが計算されているようだった。
そして、その足元を支えるのは、陶器を思わせる艶を持つ黒い高下駄。
一歩。
また一歩。
高下駄がランウェイを捉えるたび、硬質な音が響く。
その音は決して大きくない。
だが、静まり返った会場では、不思議なほど鮮明に聞こえた。
歩みの間隔。
裾が揺れる瞬間。
宝石が触れ合う音。
そして、高下駄が舞台を踏む音。
すべてが重なり、まるで最初から一つの演出として組み上げられていたかのようだった。
桜の花弁が舞う。
宝石が光を散らす。
黒と深紅の衣装が流れ、その奥から金の装飾が一瞬だけ輝く。
オンリーは、ただ前へ進んでいく。
それだけだった。
大きく手を振ることもない。
派手な動きを見せることもない。
観客へ媚びるような笑顔を向けることもない。
ただ、自分が最も美しく見える歩き方を知っている。
自分の身体がどの角度で最も輝くのかを知っている。
どの瞬間に視線を向け、どの瞬間に外せば、見る者の心を奪えるのかさえ理解しているようだった。
だからこそ、誰も目を逸らせない。
歓声すら忘れ、会場全体が、その一歩一歩を見つめていた。
先ほどまでクレアやエルデ、アヤコへ向けられていた熱気とは違う。
喜びを声にすることさえ忘れたような静寂。
数多くの人が集まっているはずなのに、聞こえるのはオンリーの足音と、衣装や宝石が奏でるわずかな音だけだった。
その光景を、コントロールルームから見守るクロたち。
そして、周囲で作業を続けるはずだったスタッフたちもまた、いつの間にか手を止めていた。
誰ひとりとして言葉を発することができず、ただホロディスプレイの中を進むオンリーを見つめている。
「クロ様」
そんな静寂の中、ルビーがそっと声をかけた。
クロが振り向く。
すると、そこにいたルビーの表情は、普段とはまるで違っていた。
いつもの落ち着いた微笑みではない。
頬はわずかに緩み、視線はホロディスプレイから離れようとしない。
オンリーの姿に完全に心を奪われ、うっとりと見惚れていた。
「これが、クロ様への答えでございます。人は本当に魅了された時、何も言えなくなるものなのです」
「私の時は、ざわめきがありましたが? オンリーさんには、それすらありません」
クロは自分がランウェイへ出た時のことを思い返す。
歓声こそ聞こえなかった。
だが、静寂の中にざわめきがあった。
小さな声。
何かを囁き合う気配。
今のような、すべてを忘れた静寂とは違う。
だが、ルビーは迷うことなく答えた。
「そこは、格の違いでございます」
「格の違い?」
「はい。ですが、オンリーワン様は別格でございます。さすがのクロ様でも、あの方には一歩及びません」
あまりにもはっきりとした言葉だった。
普通なら、少しくらい言葉を選びそうなものだ。
だが、ルビーには遠慮がない。
自らが仕える主人への絶対的な信頼と敬意が、その言葉の中にはあった。
しかし、クロは腹を立てることもなく、素直に受け止めた。
(格が違う、か。確かに)
今、目の前に広がる光景を見ていれば、それを否定する気にはなれなかった。
自分が歩いた時とは、明らかに違う。
服の違いだけではない。
演出が豪華だからというだけでもない。
何より、オンリー自身が舞台に立った瞬間から、その場の空気を自分のものにしている。
歩く。
視線を送る。
わずかに袖を揺らす。
その何気ない動作一つ一つが、すべて美として完成されていた。
それほどまでに、オンリーのランウェイは圧巻だった。
やがて、オンリーがランウェイの先端へ到達する。
そこで足を止めた。
ほんの一瞬。
何もしない。
ただ立っているだけで、観客たちの意識が一点へ集まっていく。
そして、オンリーはゆっくりと身体を傾けた。
腰から上を緩やかにくねらせ、艶やかな曲線を描くように姿勢を変える。
肩から胸元にかけての白い肌が照明を受け、黒と深紅の衣装との対比を鮮明にした。
そのまま顔を少しだけ傾ける。
視線を流す。
そして、ただ微笑んだ。
その瞬間、会場全体が一斉に息を呑む。
大きな音ではない。
だが、無数の人間が同時に息を止めた気配が、ホロディスプレイ越しにさえ伝わってくるようだった。
「……凄すぎる」
アヤコが、ぽつりと呟いた。
その声は、普段の明るさを忘れてしまったように小さい。
ホロディスプレイを見つめるその表情も、すっかり緩んでいた。
先ほど、自分が歩いた舞台。
緊張しながら一歩を踏み出し、観客の声に背中を押されながら進んだランウェイ。
同じ場所だ。
同じ距離を歩いている。
それなのに、まるで別の世界だった。
アヤコには、自分とオンリーを比べる気すら起きなかった。
比べるものではない。
そう思わせるほど、オンリーの姿は完成されていた。
その場に立っているだけで、一枚の絵画のように美しい。
けれど、静止した絵ではない。
呼吸をし、微笑み、視線を動かすたびに、その完成された絵が新しい表情を見せ続けている。
視線を外したくても、外せない。
次に何をするのか。
次にどんな表情を見せるのか。
そんな期待すら抱かせる力が、画面越しでさえ伝わってきた。
「……」
エルデは口を開けたまま、完全に固まっていた。
驚きすぎて、いつもの元気な声すら出てこない。
先ほどまで自分がランウェイを歩き、飛び跳ね、くるくると回って観客を沸かせたことも、今は頭から消えているようだった。
何かを言おうとしているのか、口がわずかに動く。
しかし、言葉は出ない。
ただ、ホロディスプレイを見つめ続けるだけ。
それが今のエルデにできるすべてだった。
クレアも同じだった。
最初は、負けるものかと言わんばかりにクロの肩の上で小さな胸を張っていた。
尻尾をぴんと立て、背中の小さな翼も広げるように動かし、自分だって負けていないと全身で主張していた。
だが、オンリーが歩みを進めるほど、その姿勢から少しずつ力が抜けていく。
身体を傾ける。
首を伸ばす。
ホロディスプレイの中のオンリーを、もっとよく見ようとする。
そして今では、すっかり魅了されたようにクロの肩の上で固まっていた。
尻尾も動かない。
翼も止まっている。
ただ丸い瞳を大きく開き、画面を見つめていた。
クロはそんな三人の様子を横目で確認する。
だが、何も言わなかった。
自分も同じだったからだ。
やがてオンリーは、ゆっくりと身体の向きを変える。
その動きに合わせて長い裾が流れ、深紅の裏地が一瞬だけ大きく広がった。
簪から垂れた宝石が揺れる。
高下駄が舞台を捉える。
そして、再び歩き始めた。
一歩。
また一歩。
来た時と変わらぬ、ゆったりとした歩み。
それなのに、今度は後ろ姿から目を離せない。
開かれた背中。
そこから細く伸びる首筋と、結い上げられた髪の下に覗くうなじ。
細く引き締まった腰。
その下から広がる黒と深紅の衣装。
正面で見せた男性としての力強さとは、また違う。
背を向けた今は、見る者に女性的な美しさを錯覚させるほどの、静かな艶が際立っていた。
見る角度が変われば、美しさの形も変わる。
それでいて、どの姿も間違いなくオンリー自身のもの。
最後の一歩まで、その唯一の美しさが崩れることはなかった。
観客たちは、まだ声を上げない。
誰かが拍手を始めることもない。
ただ静かに。
まるで、この時間が終わってしまうことを惜しむように。
息をすることさえ忘れたかのように、その後ろ姿を見守り続けていた。




