苦悩する者、満喫する者
大きな鏡の前に、クロは立たされていた。
「では、クロ様。ご洋服をお脱ぎください」
「……」
突然の指示に、クロは黙り込んだ。
そして、ルビー率いるメイドたちをくるりと見回す。
誰もが笑顔だった。
そして、誰もが黙ってクロを見守っている。
その圧が、怖い。
(バハムートである私を、ここまで恐怖に陥れるとは……)
「それとも、こちらでお手伝いさせていただきましょうか?」
笑顔のままルビーに尋ねられ、クロは小さくため息を吐いた。
「脱ぎます」
そう答えると、クロはゆっくりとジャケットを脱ぎ始める。
「お預かりいたします」
クロが脱いだジャケットを、控えていたメイドが静かに受け取る。そして、皺一つ残さぬよう丁寧に畳んでいった。
やがて下着だけの姿になったクロを前に、ルビーは視線をわずかに細めた。
その目にあるのは、羞恥や好奇心ではない。
装いを整える者としての、冷静な確認だった。
上下でブランドも色も揃っていない。機能だけを見れば問題はないのだろう。だが、装いの土台として見れば、あまりにも無頓着な組み合わせだった。
その事実に、ルビーは少し残念そうに、そっと息を吐く。
「クロ様。差し出がましいようですが、下着のブランドとお色は合わせられた方がよろしいかと」
「ああ、最初はそうしていたんですが、あまり変わりないとわかったので」
「そうではございません」
ルビーの声は穏やかだった。
だが、その笑顔の奥に、譲る気のなさが見える。
「少し言葉を強くさせていただきますと――品がございません」
「そこまで言いますか」
クロが眉を寄せる間にも、ルビーは迷いなく指示を出した。
控えていたメイドたちが音もなく動き、脱いだ衣服を回収し、入浴前の準備を淡々と整えていく。逃げ道はない。気づけばクロは柔らかなタオルに包まれ、鏡の前から自然な流れで誘導されていた。
「まずは徹底的に、お身体を磨かせていただきます。こちらへどうぞ」
ルビーがそう告げると、別のメイドが横の壁を軽く押した。
すると、壁の一部が静かに開き、その奥にバスルームが現れる。
さらに、その中で待機していたメイドたちは、いつの間にか着替えを済ませていた。
水着姿。
しかも、ただの水着ではない。どこかメイド服を思わせる意匠が施された、徹底してこの場のためだけに用意されたような装いだった。
「お任せください。すべて、磨かせていただきます」
その一糸乱れぬ所作に、クロは戦慄した。
こうした場に放り込まれるのは二回目とはいえ、今回は明らかに前回とは違う。
これは、ただの奉仕ではない。
クロという存在を、前回以上に一つの作品へと昇華させるための工程。
その覚悟と熱量が、メイドたちの笑顔から静かに伝わってくる。
「あの……そこまでする必要、ないですよね?」
無駄だとわかりつつも、クロは最後の抵抗を試みた。
もちろん、返ってきたのは静かな首振りだった。
「ございます。以前、クロ様を担当した者から伺っております。クロ様は美に、そして衣服に、あまりにも無頓着であられると」
その瞬間、ルビーの目が光ったように、クロには見えた。
「勿体ないことでございます。これほどまでの素材……もとい、ポテンシャルを生かさぬなど」
「今、素材とか言いましたよね」
「クロ様は、将来必ずお美しくなられます。そのお手伝いをし、その道へとお導きすることこそ、私たちの役目です」
ルビーはクロの言葉を聞かなかったように、優雅に微笑む。
だが、その笑顔には、逃走を許さない強い意志が宿っていた。
「……逃がしません」
クロはその一言に、思わず口を閉じた。
戦場でも味わったことのない種類の敗北感が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
どうやら今日の敵は、武器を持たない。
けれど、今まで出会った相手の中で、間違いなく厄介な強敵だった。
そのころ、別の室内では、クレアが至福の時間を味わおうとしていた。
クロと同じ造りの室内へ通されると、そこにはクレア用に高さを調整された椅子が置かれていた。
サファイアは抱きかかえていたクレアを、そっとその椅子へ座らせる。
クレアが落ち着いた様子で腰を下ろすと、サファイアは静かに一礼した。
「よろしくお願いいたします。オンリーワン様から、クレア様は人の言葉がわかると伺っております。ご不満の際や、お断りになりたい際には、前足やお顔の向きなどでお示しいただければ留意いたします」
その言葉に、クレアは静かに頷いた。
それを微笑ましく確認したサファイアは、控えていたメイドの一人を近くへ呼ぶ。
「まずは、身につけておられるスカーフをお預かりいたします。その他にも何かございましたら、お示しいただけますと幸いです」
その言葉に、クレアは前足で耳元を示した。
「失礼いたします」
メイドが優しく撫でるように耳元へ触れる。
そこには、ヘアピン型の小さなスピーカーが挟まっていた。
メイドはクレアが痛がらないよう、ゆっくりと慎重にそれを外していく。
「以上でしょうか?」
クレアが頷くと、メイドはスカーフとヘアピン型スピーカーを大切そうに預かった。
そこでサファイアが合図を送る。
すると壁の一部が静かに開き、バスルームが姿を現した。
その中には、クレアの体格に合わせた、クッション付きの施術台が用意されていた。さらに、クロの部屋と同じように、水着姿のメイドたちが控えている。
「これより、クレア様の毛並みと艶を整えさせていただきます。その際、マッサージも並行して行ってまいります。お湯の温度に問題がございましたら、すぐにお示しくださいませ」
クレアはこくんと頷いた。
それを見たサファイアは、にこりと笑みを浮かべ、クレアを優しく抱きかかえる。
クレアは気づいていなかった。
その時のサファイアの表情が、獲物を見つけた狩人の目になっていたことに。
(まさか、クレア様の担当になれるとは。まさに至福。この手で必ず、美しく輝かせてみせます。……私の美意識にかけて)
サファイアの胸の内を知らぬまま、クレアはバスルームへ運ばれていく。
そして、その後に待っていたシャンプーとマッサージによって、全身から力が抜けるほどの心地よさを味わうことになった。
クロとは違い、クレアは完全に至福の時間を満喫していた。




