薄暗い密約
「もう一度、聞かせてもらおう。ウォーガイ大将」
フロティアン軍最高司令部の一室で、ディクは必死に怒りを押し殺しながら、送られてきた報告を確認していた。
目の前のホロディスプレイには、ウォーガイの姿が映っている。
その部屋の隅では、逃げ延びてきた女が声もなく控えていた。今の彼女には口を挟む余地などない。
そこにいるのは、いつもの冷静な大将ではなかった。
「バッ、バハムートが出現し……以前の……オンリーワン奪取作戦の代償を払えと、フロティアン国へ要求してきました。それを回避するため……」
言いよどむウォーガイの顔には、大量の汗が流れていた。
きっちりと整えられていたはずの髪は乱れ、目は泳ぎ、口元は震えている。もはや、そこに大将としての風格は残っていなかった。
「続けろ」
ディクは冷たく言い放つ。
その短い一言に、ウォーガイの肩が小さく跳ねた。
「ドリーム星系を……明け渡しました。詳細は、先ほど送った報告書と……調印文書に記載されています」
最後の声は、かすれるほど小さかった。
だが、その言葉を否定するものは何もない。
ホロディスプレイには、すでに送られてきた報告書と調印文書が映し出されている。署名、承認印、調印時刻、関係者の記録。そのすべてが、これが正式に結ばれた文書であることを証明していた。
「なぜだ……」
ディクは低く呟いた。
次の瞬間、硬く握られた拳が振り上げられる。
その拳は、ウォーガイの顔を映すホロディスプレイへ向かって、何度も、何度も振り下ろされた。画面越しの相手に届くはずもない。それでも、怒りの行き場を失った拳は止まらなかった。
「なぜだ! あの国に、いくらつぎ込んだと思っている!」
ディクの怒号が、部屋の空気を震わせる。
ホロディスプレイの中で、ウォーガイは顔を青ざめさせたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
「すべては、あの星系の技術も資金も利権も、まとめて手に入れるためだった! 我々が費やしたものなど、いくらでも回収できるはずだった!」
ディクの拳が、さらに強く叩きつけられる。
映像が一瞬だけ乱れ、光が不安定に揺れた。
「それが……また……何もかも失われただと!」
声には、怒りだけではない。
積み上げた計画が崩れ落ちる音を聞いた者の、焦りと絶望が混じっていた。
「ふざけるなっ! 資金も技術も、リターンがまるで足りん! なぜお前を辺境の田舎まで行かせたと思っている! その意味が、貴様にはわからないのか!」
怒鳴り声と共に、拳が何度も叩きつけられる。
硬い音が室内に響くたび、ホロディスプレイの光がわずかに揺れた。だが、ディクは止まらない。拳の皮膚が裂け、血が滲んでも、怒りの熱に呑まれたその手はなおも振り下ろされ続けた。
ウォーガイは、その姿を前にして息を呑む。
画面越しだというのに、逃げ場を塞がれたような恐怖が背筋を這い上がっていた。言い訳を探そうとしても、喉は強張り、唇は震えるばかりで、まともな声にならない。
「全てを手に入れるためだ!」
ディクは血の滲む拳を握り締め、ホロディスプレイの向こうにいるウォーガイを睨みつける。
「あの星系も、技術も、資金も、将来の利権も、すべて我々のものにするためだった! それを……それを、貴様は……!」
言葉が怒りに潰れる。
ディクは歯を食いしばり、再び拳を振り上げた。
「なぜ! なぜっ! 何故ッ!!」
叩きつけられる拳の音が、最高司令部の一室に重く響き渡る。
その時、控えていた女性が、恐る恐る声をかけた。
「ディク大大将。そのあたりで……」
怒りに呑まれた空気を少しでも鎮めようとしたのだろう。
だが、その声は逆効果だった。
「すべては貴様のせいだろうが!」
ディクは振り返ると同時に、腰のビームガンを引き抜いた。
ためらいはなかった。
放たれた光が、女性の身体を貫く。
悲鳴を上げる暇すらなかった。撃ち抜かれた女性は、驚愕に目を見開いたまま、その場に崩れ落ちる。
ホロディスプレイの向こうで、ウォーガイが息を呑んだ。
倒れた女性の名は、マルギッテ。
かつてドリーム星系でフロティアン国の思惑を受け、マルティラを支配していた者だった。
「すべては貴様が! マルギッテ! 貴様さえしくじらなければ、こんなことにはならなかった!」
ディクはなおも叫び、すでに動かなくなったマルギッテへ向けて、何度もビームガンを撃ち放つ。
光が室内を走るたび、焼けた匂いが広がった。
そこには、軍人としての冷静さも、司令官としての判断もない。ただ、失った利権と計画への怒りを、目の前の死体へ叩きつけるだけの男がいた。
「大大将……」
ウォーガイが、かすれた声で呟く。
だが、ディクはその声にすら苛立ったように顔を上げた。
「ウォーガイ大将。貴様はすぐに帰ってこい」
その声は、先ほどまでの怒号とは違って低かった。
だが、低いからこそ、さらに恐ろしい。
「そして、この馬鹿の死体も記録も、貴様が戻り次第、すべて始末しろ」
ディクは足元に転がるマルギッテを一瞥し、吐き捨てるように続けた。
「貴様の処分は……現在の状況を考えれば、これ以上駒を失うわけにはいかん。マルギッテの死をもって、ひとまず帳消しにしてやる」
「ハッ!」
ウォーガイは蒼白な顔のまま、それでも反射的に敬礼した。
次の瞬間、ホロディスプレイの映像が途切れる。
通信が切れた室内には、焦げた匂いと重い沈黙だけが残った。
ディクは血の滲む拳を握り締めたまま、しばらく動かなかった。足元には、もはや何も答えないマルギッテが倒れている。
だが、怒りはまだ収まっていない。
それどころか、失った利権の大きさを思い出すたび、胸の奥で黒い炎のように燃え上がっていた。
ディクは荒い息を一つ吐き、血の付いた拳を見下ろしてから、怒りを押し込めるように次の通信を開いた。
やがて、新たなホロディスプレイが浮かび上がる。
そこに映し出されたのは、赤い髪をした男。
そして、薄い赤髪を持つ女性だった。
二人とも、ディクの惨状を見ても驚いた様子はなかった。まるで、こうなることも想定していたかのように、静かに画面の向こうからこちらを見ている。
「またもや失敗か。こちらもやられたよ。協力者が死んだ」
赤い髪の男が、感情を抑えた声で言った。
続いて、薄い赤髪の女性が冷ややかに目を細める。
「ディク。貴方の身内に、裏切り者がいるんじゃないの?」
その問いに、ディクのこめかみがぴくりと震えた。
ただでさえ怒りの行き場を失っているところへ、疑いの言葉を向けられたのだ。
「こちらが聞きたい!」
ディクは血の滲む拳を握り締めたまま、ホロディスプレイへ向かって怒鳴り返した。
「お前たちの方にもいるかもしれないだろうが!」
怒号が室内に響く。
だが、画面の向こうの二人は動じなかった。
ただ、失敗した計画の残骸を前に、互いに疑いの目を向け合う。
その沈黙を破ったのは、赤い髪の男だった。
「いや、よそう。もう計画は、引き返せるところにはない」
男は静かに首を横に振ると、ディクへ向けて頭を下げた。
「申し訳ない、ディク。さすがにイレギュラーが起こりすぎた。疑ってしまったことは詫びよう。我々は一蓮托生だというのに」
「あなた……」
薄い赤髪の女性が、隣に立つ男へ一瞬だけ視線を向ける。
そして、すぐにディクへ向き直った。
「私からも謝罪します。こちらも、事態を冷静に見られていませんでした」
二人の謝罪を受けても、ディクの表情から怒りは消えなかった。
だが、荒れ狂っていた感情の奥で、かろうじて理性が戻り始める。
互いに責任を押しつけ合っている余裕などない。
すでに計画は、途中で降りられる段階をとうに過ぎていた。
「……いや、私も怒りに支配されすぎていた」
ディクは血の滲む拳をゆっくりと開き、荒く息を吐いた。
足元には、動かなくなったマルギッテが転がっている。消えた利権、失われた駒、露見しかけた計画。そのすべてが、室内の空気を重く濁らせていた。
「我々は、もう失敗できない」
低く絞り出されたその声に、画面の向こうの二人も黙って頷いた。
「こちらは失敗続きだ。だが、戦力は回復しつつある」
ディクは血の滲む拳をゆっくりと握り直し、荒く息を吐く。
怒りはまだ消えていない。だが、その奥で、次の手を探す冷たい計算が戻り始めていた。
「エビルギルドに頼み、アウトローどもを引き入れた」
そこで、ディクは口元に歪んだ笑みを浮かべる。
「サモンズ旅団。そして、タイタニア戦団。二つのSランク級アウトロー集団だ。その他にも、金と血の匂いに釣られた猛者どもが大量に集まっている」
その名を口にするたび、ディクの声にわずかな熱が戻っていく。
正規軍では扱いにくい者たち。
だが、目的のためなら禁じ手にも手を伸ばす今のディクにとって、彼らは十分に価値のある駒だった。
「それは結構」
赤い髪の男もまた、静かに頷いた。
その表情には、先ほどまでの疑念とは違う、薄い笑みが浮かんでいる。
「こちらも、帝国の一部貴族たちを引き込めました。加えて、同じくSランク級のアウトロー集団を数組、迎え入れることに成功しています」
男はそこで、わずかに声を落とした。
「それに、禁忌兵器も手に入れることができました。そちらにも、順次お送りいたします」
その言葉に、ディクの目が細くなる。
禁忌兵器。
その名を聞いただけで、室内の空気がさらに暗く沈んだ。
倫理も法も、すでにこの場では意味を失っている。必要なのは勝つための力。ただそれだけだった。
赤い髪の男は、ディクと同じように口元を歪める。
「これで、たとえまたバハムートが現れたとしても――」
そこで言葉を切ると、ディクがその続きを言い切った。
「今度こそ、対応してみせる。サトシ・レッドライン伯爵」
その名を呼ばれた瞬間、赤い髪の男の目が細くなる。
不快感ではない。
過去の名を切り捨てる者の、冷たい決意だった。
「その名は、今回で終わりです。これからは、カーマイン・ゲイツ伯爵とお呼びください」
男――カーマインは、静かにそう告げた。
その横で、薄い赤髪の女性もまた、迷いのない声で続ける。
「私は、スカーレット・ゲイツになります。ディク大大将。我々も準備を進めます」
スカーレットの声音は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥には、かつての名も、過去の繋がりも、すべて捨てる覚悟が滲んでいる。
二人の表情に迷いはない。
すでに引き返せない場所まで足を踏み入れていることを、理解していた。
「すべては、私たちのために」
その言葉に、ディクもまた笑みを深めた。
足元には、まだマルギッテの亡骸が転がっている。
失敗の代償。切り捨てられた駒。そして、次に進むための踏み台。
密約が交わされる室内に、冷たい沈黙が降りていく。
そこにあるのは結束ではない。
利害と欲望と、互いに相手を利用しようとする薄暗い思惑だけだった。




