いつもの調子
そして、調印は静かに進められた。
バハムートが空から見下ろす中、割れた窓から吹き込む風と、遠くで鳴り続ける警報だけが、会議室に残された音だった。
誰も大きな声を出さない。
いや、出せなかった。
ウォーガイは気絶しているフロティアン国の高官たちを叩き起こすと、ホロディスプレイに映し出された調印書へ、次々と修正を加えていく。
支援物資への対価を支払う代わりに、ドリーム星系をフロティアン国の属国とすること。
そのうえで、属国化によってフロティアン国が得るはずだった統治権、支配権、軍事介入権、代替履行権を、バハムートへの賠償として無償で譲渡すること。
ただし、その譲渡と同時にフロティアン国による属国扱いは解除され、フロティアン政府との政治的・軍事的関係は断たれること。
物流や民間企業同士の取引など、民間での往来については継続を認めること。
ひとつひとつの条項が形になっていくたびに、ウォーガイの顔からさらに色が失われていった。
彼らがマルティラを縛るために用意した理屈は、今やフロティアン国を巻き込まないための逃げ道へと書き換えられている。
だが、その逃げ道を選ばせたのは他でもない。
フロティアン国自身だった。
そんな必死な姿を、アリは最後まで表情を崩さず見つめていた。
怒りも勝利の笑みも見せず、ただ淡々と調印を見届ける。その静けさが、かえってウォーガイの惨めさを際立たせていた。
すべての手続きが終わると、ウォーガイとフロティアン国の高官たちは、逃げるように席を立った。
誰もアリを見ようとしない。
誰もバハムートの方を見ようとしない。
ただ、崩れかけた威厳を抱えたまま、足をもつれさせるように会議室を出ていく。
その背中を、バハムートは黙って見下ろしていた。
やがて、フロティアン国の一団は、逃げるようにドリーム星系から去っていった。
そうしてこの場に残ったのは、バハムートとアリ、ジュン、タイソン、そしてマルティラ側の高官たちだった。
「君たちは、その調印書を新政府へ持って行きなさい。ここは、私とジュン少佐、タイソン大佐だけで対応する」
「しかし……いえ、わかりました」
高官たちは一瞬ためらった。
だが、割れた窓の向こうにいるバハムートの姿を見た瞬間、迷いは消えたらしい。彼らは調印書のデータを確認すると、そそくさと逃げるように会議室を出ていった。
扉が閉まる。
その音を確認してから、アリはすぐに動いた。
今回の会議を記録していたカメラをすべて止め、室内の通信状態を確認する。さらに防音と外部監視の遮断を再確認したのち、静かにバハムートの前へ進んだ。
「窓はどうしようもないが、一応、室内のカメラと通信はすべて止めた。室内を監視できる者は、これでいない」
アリはそう言うと、割れた窓から少し離れる。
「そうか」
バハムートは短く答えた。
次の瞬間、アリたちの前に小さな光が集まり始める。
光は粒となり、輪郭を持ち、やがて少女の姿を形作っていった。
見慣れた黒く長い髪。
赤いジャケット。
そこに立っていたのは、いつものクロだった。
ただ動くことはなく、声と視線だけをこちらへ向けていた。
「あ、身体は今動かせませんので。そうしないと本体が落ちますから。とりあえず、声と目線だけこっちに移しています」
あまりにも軽い口調だった。
つい先ほどまで、恐怖で黙らせていた存在と同じものとは思えないほどに。
「サプライズで来ましたが、ちょうど良かったですね」
クロは何でもないことのように言う。
「かっるいのう」
アリは屈託なく笑った。
その笑いにつられるように、タイソンも苦笑する。
だが、一人だけ反応が違った。
「クロ! 貴方には常識がないんですか!」
ジュンは真面目な顔で、クロへ思い切りツッコんだ。
その声には怒りもあったが、それ以上に安堵が滲んでいた。目の前の少女が、確かに自分の知るクロなのだと、ようやく実感できたからだ。
クロはそんなジュンを見て、どこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ないですよ。でも、結果的には助かりましたよね。偶然でしたが」
悪びれない返答に、ジュンは額を押さえた。
アリはさらに笑い、タイソンは困ったようにクロとジュンを見比べる。
窓の外、都市の空では、いまだ巨大なバハムートが空を覆っている。
それなのに、この部屋の中だけは、ほんの少しだけいつもの調子を取り戻していた。
「偶然って……」
ジュンが呆れたように呟く。
クロは軽く背後のバハムートへ視線をやると、改めてジュンを見つめた。
「そのままですよ。フロティアン国から高官たちが来ると、ジュンが言っていましたので、ちょっと脅そうと思って来たんです」
そう言うと、クロの視線がほんの一瞬、窓の外のバハムートへ移る。
「久しぶりに五感を本気で解放してたら、なにやら国を寄こせだの、胸糞の悪い話が聞こえたので。思わず咆哮しちゃいましたよ」
軽い調子で説明するクロに、アリの額へじわりと冷や汗が浮かんだ。
(一応、最新の防音システムだから外に漏れるはずはないんだが……おっそろし~なぁ。クロ君)
声には出さない。
だが、アリの中でクロへの認識が改めて跳ね上がった。
「せっかく内戦を終わらせたのに、横から茶々を入れてくるなんて。本当に馬鹿な国ですよね。正直嫌いです」
クロは呆れたように言う。
その言い方には怒りもあるのだろうが、それ以上に、面倒なものを見つけてしまった時のような気安さがあった。
「クロ。貴方、なんでその国にいるの?」
嫌っているはずの国に今もいることへ、ジュンはもっともな疑問を投げかけた。
クロは少しも迷わなかった。
「家族がいるからです」
あまりにもシンプルな答えだった。
ジュンは一瞬、あっけに取られる。
だが、すぐに納得もした。
クロにとって、国の好き嫌いなど大きな問題ではないのだろう。そこにシゲルやアヤコたちがいる。帰る場所がある。だから、そこにいる。
それだけの話なのだ。
ジュンは呆れたように息を吐きながらも、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「その、一つ確認していいか」
そこへ、タイソンが口を挟んだ。
表情にはまだ戸惑いが残っている。無理もない。目の前にいる少女と、窓の外で都市を覆うバハムート。その二つが同じ存在だと理解できても、すぐに飲み込める話ではなかった。
「一応、確認なのだが……クロ君は、バハムートの子供ではなく、バハムートそのものということでいいんだな?」
「ええ。この場の皆さんに、今さら隠す必要はないでしょう」
クロはそこで一度、声を整えた。
そして、至極真面目な顔で言い放つ。
「そうです。私がバハムート本人です」
真面目な確認に対する、真面目な返答。
そのはずだった。
だが、星系を震え上がらせた存在が、あまりにも堂々と、まるで自己紹介の定型文のように名乗ったせいで、空気が妙な方向へずれた。
アリはとうとう堪えきれずに爆笑した。
「はっはっはっ! いや、そう来るか!」
タイソンも最初は必死に表情を保とうとしていたが、やがて耐えきれなくなったように、肩を震わせて笑い声を漏らす。
ただ一人、ジュンだけは違った。
彼女は二人とは逆に、黙ったまま深く呆れていた。
(これで本物だから……でたらめ過ぎるわ)
そう思いながら、ジュンは小さく息を吐く。
けれど、その呆れの奥には、確かな安堵があった。
バハムートであっても、クロであっても、目の前の存在は変わらない。
それだけは、はっきりしたからだった。




