空を覆う影
重々しい空気の中、警備に当たっていたジュンは、悔しさに拳を握り締めていた。
(せっかく終わった内戦が、こんな奴らに……!)
胸の奥で怒りが燃え、今にもウォーガイを殴りつけたい衝動に駆られる。
だが、ジュンは堪えた。ここで自分が動けば、相手にさらに有利な口実を与えるだけだ。それがわかっているからこそ、握り締めた拳にさらに力がこもっていく。
「署名、するしかないでしょう」
ウォーガイは、沈黙に包まれた会議室を見渡しながら、穏やかな声で続けた。
「なに、フロティアン国は悪い国ではありませんよ。属国的な扱いから、我が国の一部として搾取……もとい、仲間となるのですから」
まるで隠そうともしない悪意の言葉に、ジュンの中で何かが切れかけた。
だが、その瞬間だった。
突如、けたたましい警報が鳴り響く。
それは、この一室だけに留まらなかった。危機を知らせる鋭い音が建物全体へ、都市全体へと広がっていく。さらに主要通信網を通じて、その異常は各施設へ一気に伝播していった。
「何事だ……?」
瞬時に緊張が走る。
困惑を滲ませた誰かの呟きが落ちた直後、会議室の扉が勢いよく開かれた。
ジュンは反射的にビームガンを抜き、侵入してきた人物へ照準を合わせる。
だが、そこにいたのがタイソンだと気づいた瞬間、驚きと共にすぐ照準を外した。
「緊急事態です!」
そう言って駆け込んできたタイソンは、恐怖に駆られ、滝のような汗を流していた。顔面は蒼白で、いつもの冷静さはどこにもない。
それは、ジュンが今まで見たことのない父の姿だった。
先ほどまで胸の奥で燃えていた怒りよりも、目の前の異常に対する驚きの方が勝ってしまうほどに。
「この星系に……いえ、それより、今すぐ避難を……いや、避難しても無駄かもしれません……」
支離滅裂な報告に、アリは眉をひそめた。
ウォーガイは苛立ちを隠しきれないまま舌打ちをする。
「どういうことです?」
ウォーガイはタイソンを睨みつけ、表面上だけは落ち着きを保ちながら尋ねた。
しかし、タイソンから答えが返ってくることはなかった。
タイソンはただ、震える手で窓の外を指さす。
もう、答えそのものが現れていたからだ。
苛立ちと共にウォーガイが口を開こうとした、その瞬間。
凄まじい衝撃波が建物を揺らした。
巨大な窓ガラスが一斉に砕け散り、細かな破片が室内へ降り注ぐ。遅れて、空気そのものを押し潰すような轟きが響いた。
それは、咆哮だった。
ただの音ではない。
巨大な存在が放った圧そのものが、空を震わせ、大地を軋ませる。衝撃は惑星を包み込むように広がり、そこにいる者たちの本能を直接叩いた。
そして、誰もが見上げる。
太陽が隠れ、青く広がっていた空が、漆黒一色に染まっていく。
その巨大な姿。
その巨躯が、都市を、建物を、人々を覆っていた。
圧倒的な威圧感に、その場にいた者たちは、誰一人として動けなくなる。
「クロ……」
ジュンの口から、かすれた声が漏れた。
その直前、タイソンは砕け散ったガラスの破片からジュンを守ろうと、庇うように抱き寄せていた。
だが、その呟きを聞いた瞬間、タイソンの目が見開かれる。
彼はバハムートを見上げ、次に腕の中のジュンを見る。
そして、もう一度バハムートへ視線を向けた。
そこで、タイソンは気づく。ジュンが漏らした名の意味に。
あれは、ただ恐怖に紛れて出た言葉ではない。目の前に現れた存在を、ジュンは知っている。それどころか、その正体に、自分自身も心当たりがある。
だが、それを確かめる余裕はなかった。
室内に、濃い黒い影が落ちる。
その影に押し潰されるように、ウォーガイは腰を抜かし、窓から離れようと必死に床を這った。
先ほどまで理路整然と国を奪おうとしていた男の姿は、もうそこにはない。
あるのは、圧倒的な存在を前にした、ただの小さな生き物としての怯えだけだった。
「バハムート……」
誰かが、恐怖に震える声でその名を呟いた。
その名が落ちた瞬間、室内の空気はさらに重く沈む。
アリですら、その威圧感に耐えるだけで精一杯だった。膝が震え、喉が乾き、背中に冷たい汗が流れる。それでも、かろうじて意識だけは保っていた。
一方で、フロティアン国とマルティラ側の高官たちは、次々に限界を迎えていた。
椅子から崩れ落ちる者。机に突っ伏す者。声も出せずに意識を手放す者。
バハムートは、ただそこにいるだけだった。
それだけで、この場にいる者たちの心を圧し潰していく。
「なぜ……ここに……バハムートが……」
ウォーガイの震える声が漏れる。
先ほどまで国家の譲渡を当然のように迫っていた男は、今や床にへたり込み、まともに立ち上がることすらできないでいた。
その声に反応したのか、バハムートの口元が、わずかに吊り上がったように見えた。
にっと笑ったような、その表情。
それを見た瞬間、アリの中に小さな違和感が生まれる。
(……まさか)
圧倒的な恐怖の中で、アリは必死に目を凝らした。
破壊の象徴。
怪物の頂点に立つ存在。
そう呼ぶしかない姿でありながら、その仕草の奥に、どこか見覚えのある軽さがある。
バハムートは、その場にいる者たちの反応を眺めながら、会議室の一角へ視線を向けていた。
タイソンに守られ、驚きに目を見開いているジュンがいる。
その姿を確認できたことに、バハムートは内心で軽く安堵した。
(サプライズだ。関わった責任は、俺なりに取るとしよう)
バハムートは、ゆっくりと両腕を空へ掲げた。
その動きだけで、会議室の空気がさらに重く沈む。
次の瞬間、掲げられた両腕の上に、漆黒のエネルギーが集まり始めた。光を吸い込むような闇が渦を巻き、周囲の空間を歪ませながら、巨大なフレアを形作っていく。
ただの威嚇ではない。
その気になれば、この場どころか、都市一つ、星一つすら消し飛ばしかねない力。
ウォーガイの顔から、さらに血の気が引いた。
バハムートは、その漆黒のフレアを掲げたまま、低く問いかける。
「聞くが、この場に、以前俺の偽物を造った奴……たしか、クリフィスとかいう奴だったか? その仲間はいるのか?」
バハムートは漆黒のフレアを掲げたまま、ゆっくりと視線を巡らせる。
「この星系から、あの時と似た不快な気配を感じたのでな。確認しに来た」
低く、空全体を震わせるようなバハムートの声に、誰もが息を呑んだ。
化け物が、喋った。
その事実だけで、場の恐怖はさらに深まった。
だが、問いに答えられる者はいない。
声はその場だけに留まらず、都市中へと響き渡っていた。
一般の人々は、なぜその化け物が喋るのか、なぜそんなことを聞くのか、そもそも目の前に現れた存在が何なのかも理解できず、ただ恐怖に染まっていく。
混乱した人々が、次々とハンターギルドへ避難してきた。
中には、職員に対応を求めて声を荒げる者もいる。
だが、誰もがわかっていた。
あれに対して、ハンターギルドができることなど、ほとんどない。
そんな混乱の中、レンは緊急回線を使い、本部へ状況を報告していた。
「はい。バハムートが現れました……え? 放置でいい? それって……対処のしようがないのは事実ですが……大丈夫って、どうしてそう言えるんです! ……はい……納得はしかねますが、わかりました。監視と民間対応のみに徹します」
レンは通信を切ると、苛立ちを隠せない様子で拳を握った。
「どうして放置なんだ! バハムートだぞ! 最高額の賞金が懸けられている相手なんだぞ!」
真実を知らないレンにとって、ギルド本部の対応は理解しがたいものだった。
目の前に、あのバハムートが現れている。
それなのに本部は、放置しておけと言う。
対処できないのはわかる。だからといって、本部の判断に納得できるわけではなかった。ぶつけどころのない怒りと恐怖が、レンの中で渦を巻いた。
「……以前、お父ちゃんたちの方にもバハムートが現れたって聞いたな。連絡を取ってみるか」
レンは迷いながらも、すぐに別の通信回線を開いた。
ホロディスプレイに、グレゴの姿が映し出される。
「こちら、F18コロニー、ハンターギルド。グレゴだ」
久しぶりに見るその姿に、レンは一瞬だけ懐かしさを覚えた。
グレゴもまた、画面越しにレンを見て、少し嬉しそうに目元を緩める。
「お前から連絡が来るとは、久しぶりだな」
「ええ。内戦はほぼ終わったから、もう監視されることはなくなったの。……って、今はそうじゃない! 緊急事態なの!」
レンは早口で、今起きていることを報告した。
バハムートが現れたこと。本部に緊急連絡したところ、放置しろ、監視と民間対応だけに徹しろと指示されたこと。そして、その判断に納得できないこと。
怒りと恐怖が混じった声で、レンは一気にまくし立てる。
「お父ちゃん! なんでなの?」
「それはだな……」
グレゴはそこで口ごもった。
(クロの奴、何やってやがんだ! クソッ! どう説明してやればいい)
クロの正体を知るグレゴは、娘であるレンの怒りを理解していた。
目の前にバハムートが現れたと聞けば、普通なら恐怖する。警戒する。ギルドとして対処しようとするのは当然だ。
だが、正体を話すわけにはいかない。
(だが、喋るわけにはいかない。なら、納得できる理由だけを渡すしかない)
グレゴは短く息を吐くと、低い声で言った。
「いいか、よく聞け。以前、ハンターの精鋭たちがバハムートに挑んだことは、そっちにも情報が来ているだろ」
「来てるよ」
「ならわかるな。今、そこのギルドにハンターたちは戻ってきているのか?」
グレゴの指摘に、レンは言葉を失った。
戻ってきていない。
この星系の状況は、まだ完全には落ち着いていない。動ける戦力も、即座に対応できる人員も限られている。
「まだ戻ってきてないだろ。どのみち、対応策はない。ギルドとしてできることも、ほとんどないに等しい。だから本部は、監視と民間対応に徹しろと判断したんだ」
グレゴの言葉には説得力があった。
感情では納得できない。
だが、現実としては理解できる。
レンは歯を食いしばりながら、少しずつ呼吸を整えた。
「……わかった。でも、何かあったら、子供たちは……」
「そこは大丈夫だ」
グレゴは即座に言い切った。
「あいつは、無差別に襲うような存在じゃない」
あまりにも迷いのない断言だった。
レンはそう断定するグレゴの言葉に、わずかな違和感を覚える。
「……どうして、そう言い切れるの?」
「理由は言えない。だが、俺を信じろ。刺激するな。攻撃だけは絶対にするな」
グレゴの声は重かった。
レンは納得しきれないまま、それでも頷くしかなかった。
「……監視だけ。絶対に刺激しない。わかったよ」
レンは通信を切ると、職員たちへ改めて指示を飛ばした。
「数人は監視に徹して! バハムートへの接触は禁止! 残りは混乱している人たちへの対応を優先して!」
恐怖は消えない。
だが、今やるべきことは決まった。




