国という代金
クロは久しぶりに分身体を解き、バハムートと一体となり宇宙を進んでいた。
広がるのは、果ての見えない漆黒の海。
音も風もないはずの空間を、巨大な存在が滑るように進んでいく。
「さてさて。サプライズになればいいんだがな」
バハムートはそう呟きながら、少しずつ姿を変えていった。
人々に機体と誤認させるための擬態が、外側から剥がれていく。整えられていた輪郭が崩れ、装甲のように見えていた外殻が本来の鱗へと戻り、体の構造そのものが見る見るうちに変化していく。
相貌は鋭くなり、口は裂けるように広がった。その奥には、刃を思わせる牙が幾重にも並ぶ。四肢は太くなり、獣のごとき力を宿し、翼は宇宙の闇を覆うほどに広がっていった。
そこに姿を現したのは、擬態を解いた本来のバハムートだった。
「この姿も、久しぶりだな」
漆黒の鱗には、ところどころ血のように濁った深紅が走っている。両翼の膜には未知の文様が淡く脈動し、長く鋭い尾は、ただ揺れるだけで空間を裂くような迫力を帯びていた。
そして、双眸。
金色に輝くその瞳は、抑え込んでいたものを解き放ったような開放感に満ちている。
「解放感が半端ないな!」
バハムートは嬉しそうに言うと、さらに速度を上げた。
翼を大きく広げ、身体をひねり、まるで水の中を泳ぐように宇宙を駆ける。直線ではなく、弧を描き、時に宙返りのように身を翻し、大海を泳ぐ鯨のごとく進んでいく。
やがて、バハムートは大きく顎を開いた。
「ギュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!」
音のないはずの宇宙に、その声は本来なら響かない。
だが、それはただの咆哮ではなかった。
放たれた圧が周囲の空間をびりつかせ、見えない衝撃となって闇へ広がっていく。遠くの星光さえ、一瞬だけ揺らいだように見えた。
バハムートは満足そうに目を細める。
久しぶりに、本来の姿で叫んだ。
星の守護者として過ごしていた時とも、クロとして大人しく過ごしている時とも違う。
今は何も押さえ込む必要がない。
翼を広げれば宇宙が開け、尾を振れば虚空が流れ、ただ進むだけで全身に圧倒的な高揚感が満ちていく。
「……ああ、気持ちいい。クロとして大人しく過ごしているのも悪くないが、こういう開放感も捨てがたいな」
そう呟くと、バハムートはさらに深い宇宙へ向けて、目的地を目指しながら楽しげに加速していった。
一方その頃、マルティラでは別の意味で空気が凍りついていた。
停戦合意と新政府樹立へ向けた調印式の調整中、旧マルティラ政府の後ろ盾であるフロティアン国から、横やりが入ったのだ。
その場に現れたのは、フロティアン国のウォーガイ大将だった。
「ですから、返せと言っているんです。今まで支援してきた物資、すべてを」
ウォーガイはそう言うと、眼鏡を軽く押し上げた。垂れてきた髪を指先で整える仕草は落ち着いているが、その声には一切の譲歩がない。
「何を根拠にそんなことを? もはやマルティラは、フロティアン国とは関係ない!」
アリが怒気を込めて反論した。だが、ウォーガイは表情一つ変えなかった。むしろ、その反応を予想していたかのように、端末を操作する。
次の瞬間、一つの文書がホロディスプレイ上に浮かび上がった。
「関係がないとは……話になりませんね。これが証拠ですよ。前国家元首マルギッテとの合意文書にも、きちんと記されています」
ウォーガイは文書の一部を拡大し、淡々と読み上げる。
「支援の見返りとして、相応の対価を支払うこと。もしそれが叶わぬ場合は、すべての支援物資の返却を求める。実に明確な内容です」
「だから、それは……!」
マルティラ側の高官が反論しようとする。
だが、その言葉を遮るように、ウォーガイの冷たい声が浴びせられた。
「それに、まだ新政府は樹立されていません」
その一言に、アリの表情がわずかに歪む。
痛いところを突かれた。
停戦合意と新政府樹立へ向けた調整は進んでいる。だが、正式な調印はまだ終わっていない。つまり、ウォーガイにとっては、そこを突く余地が残っているということだった。
その反応を見逃さず、ウォーガイはさらに追い込む。
「そもそも、これは無償支援ではありません。有償支援および貸与物資です」
ウォーガイはホロディスプレイ上の文書を指先でなぞり、別項目を拡大する。
「艦艇、兵器、弾薬、補給物資、整備部品、通信機器。そのすべてに価格が設定され、返却不能なものについては、相当額を弁済する。そう記されています」
淡々とした声だった。
だが、その内容は重い。
内戦の最中に消耗した弾薬。破壊された艦艇。失われた補給物資。各地へ散った整備部品や通信機器。その一つ一つに値段がつけられているのだとすれば、マルティラ側が背負う額は想像を絶する。
ウォーガイは、さらに言葉を続ける。
「返して頂ければ、こちらは何も言いません。ただし、すべて揃っていればの話ですが」
ウォーガイはそこで一度言葉を切り、マルティラ側の反応を待つように視線を巡らせた。
その沈黙だけで、場の空気がさらに重く沈む。
支援物資は武器や弾薬だけではない。艦艇、補給物資、整備部品、通信機器、軍事支援に関わるあらゆるものが含まれる。
内戦の中で消耗し、失われ、あるいは各地に散ったものまで含めて返せと言われれば、事実上不可能に近い。
ウォーガイは、それを理解したうえで、この要求を突きつけていた。
「無理でしょうね。ですから、それ相応の代金を頂くと言っているのです」
穏やかな口調のまま、ウォーガイはホロディスプレイに表示された文書の別項目を指し示した。
「この国という代金を」
会議室に、重い沈黙が落ちる。
アリだけでなく、マルティラ側の高官たちも言葉を失った。
ウォーガイはその沈黙を楽しむように、眼鏡の位置を直す。
「支払いが困難な場合は、代替履行に移る。そういう取り決めです」
淡々とした声が、さらに場の空気を凍らせていく。
「つまり、代金は支払われるのです。金でも物でもなく、この国そのものによって」
「そんなものが、通ると思っているのか……!」
アリが低く唸るように言う。
だが、ウォーガイはわずかに首を傾げるだけだった。
「通るかどうかではありません。署名された合意文書が存在し、そこに条件が明記されている。こちらは、それを新政府樹立の前に履行していただきたいだけです」
その言い方には、国一つを奪おうとしているという自覚すら感じられなかった。
いや、あるのだろう。
そのうえで、あえて事務処理のように語っている。
「何か問題でも?」
ウォーガイの問いに、会議室の空気はさらに重く沈んだ。




