帰還の先
バハムートは、どうにか説得を終えたレッドラインへ向けて、アルクシスを押していく。
巨体と巨体が向かい合うその光景は、常識から見ればあまりにも異様だった。だが、当の本人はそんなことを気にする様子もなく推し進めていく。
やがてレッドラインにぶつかると、その巨体はまるでスライムのようにアルクシスを徐々に覆い、包み込むように内部へ取り込んでいく。
巨大な中継基地が少しずつ呑み込まれていくその光景は、どこか異様で、それでいて妙に自然だった。無理やり引き裂くのではなく、あくまで受け入れるように、静かに、確実に取り込んでいく。
やがてアルクシスの全体が完全にレッドラインへ飲み込まれるのを確認すると、バハムートはようやく小さく頷いた。
「後はよろしく」
そう一言残し、その場を転移で後にした。
次に姿を現したのは、トゥキョウ基地に留まっているブラックガーディアンのすぐそばだった。
突如として現れた黒い巨体に、周囲の人々がどよめく。作業員たちが足を止め、整備兵や傍にいた兵たちが一斉に顔を上げ、言葉を失う。その反応を眼下に置いたまま、バハムートはふうと一息吐いた。
「戦闘より、説得の方が疲れたな」
そう呟くと、クロへと完全に意識を移す。
風に髪を揺らしながら空を見上げ、思わず苦笑が漏れる。神もどきや本物の神の相手より、眷属のゴーレムを説得する方が精神的に疲れるとは我ながらどうかしている。
だが、まだ終わったわけではない。
頭の中には、次に対処すべき名が二つ浮かんでいた。非戦のサンデーン・レイクと、インセクトのファムスだ。
「マルティラ政府については、勝手に瓦解するだろう。後は二人だけ」
静かに呟いた、その時だった。
腰のポーチに入れた端末が震え、ポンセから通信が入る。
「もしもし。どうしました?」
映し出されたホロディスプレイには、安堵の表情を見せるポンセの姿があった。だが、その表情は長くは続かなかった。
「おかえりなさい、社長。お疲れのところ申し訳ないのですが、至急ランドセルのリビングに来てください」
先ほどの安堵の表情から一変し、何故か背後を気にしつつ焦る様子を見せる。
言葉は丁寧だが、明らかに余裕がない。早く来てほしい切迫感が滲んでいた。
クロはその変化に、ただ事ではない空気を感じ取る。
「何かありました?」
問いかける声も、自然と少し低くなる。
だが、ポンセは口ごもるように一瞬視線を揺らし、それでも結局はっきりとは答えなかった。
「その……とにかくお願いします」
それだけ言い切ると、通信は切られた。
残されたホロディスプレイが消え、静寂が戻る。
バハムートは端末を見下ろしたまま、わずかに眉をひそめた。
「……何だ?」
不審に思いながらも、クロはすぐさま転移し、ランドセルのリビングへ姿を現す。
「どうしま――」
何があったのか確認しようと、リビングの中央に現れたクロは口を開く。だが、その言葉は最後まで続かなかった。
現れた瞬間、待ち構えていた相手にがっしりと肩を掴まれたからだ。
「ク~ロ~?」
腹の底から響くようなアヤコの声が、クロの背後から聞こえる。
その瞬間、嫌な予感が確信に変わった。
クロの目の前には、気まずそうにソファーへ座るタサル一家の姿があった。隣ではシゲルがニヤニヤと笑いながら缶ビールを飲んでいる。
ウェンは「仕方ない」とでも言いたげに肩をすくめ、スミスは完全に巻き込まれる気がないらしく、知らぬ存ぜぬとばかりにグラスの酒を静かに傾けていた。
唯一、クロの味方になってくれそうなアンポンタンたちの姿はその場になく、見渡しても味方は皆無だった。
つまり、逃げ場はない。
クロは一瞬だけ目を閉じる。
そこでようやく、ポンセがあれほど切羽詰まった様子だった理由を悟った。
諦めたように小さく息を吐く。
そして、肩に置かれた手をそっと外し、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、笑顔のアヤコだった。
だが、その背後には怒りのオーラを纏ったもう一人のアヤコが立っているような、そんな錯覚を覚えるほどの圧があった。
にこにこと微笑んでいるはずなのに、空気だけがまるで笑っていない。
むしろ、笑顔であること自体が恐ろしい。
「おかえり、クロ」
「……ただいま、ですが……」
返事をした瞬間、自分の声がほんのわずかに引きつっていることを、クロは自覚した。
戦場で大部隊を相手にしている時にはなかった緊張が、今になって背筋を這い上がってくる。
「説明して。でも……その前に、ちょっと私の部屋に行こうか」
笑顔のまま、圧だけが増す。
その声音は明るい。明るいのに、拒否権が存在しないことだけは、はっきりと伝わってきた。
そして改めて掴まれた両肩に、ぐっと力がこもる。
「あの……痛いんですが」
クロは思わず眉を寄せる。
(なぜ、ユウタたちの攻撃は痛くないのに、アヤコのは痛いんだ!?)
内心でそんな理不尽な叫びを上げるが、当然、誰も助けてはくれない。
「そう? でも仕方ないよね。何も説明がないんだもの」
アヤコはにっこりと笑ったまま言う。
笑顔は崩れない。だが、その言葉の端には、しっかりと怒りが乗っていた。
「どんだけ驚いたか……わかる?」
「……」
クロは返す言葉を失う。
背後を振り向いて助けを求めようとするも、肩を掴まれているせいでそれもできない。無理に動けば、さらに締め上げられる未来しか見えなかった。
沈黙が、かえって答えになってしまう。
アヤコはその無言すら受け取ったうえで、逃がす気のない笑顔のまま、静かに告げた。
「いこうか」
「……はい」
もはや従うしかなかった。
クロは観念し、アヤコに肩を掴まれたまま、共にリビングを後にする。
背後からは、シゲルの楽しそうな笑い声が響いてきた。まるでこれから始まる何かを心の底から愉快がっているような笑い方だった。
ウェンもスミスも助ける気配はない。タサル一家も、ただ見送ることしかできない。
そうして一歩、また一歩と廊下を進んでいく。
ランドセルの中のはずなのに、その廊下は何故かやけに暗く見えた。
照明は点いている。いつもと同じはずなのに、今のクロには先へ続く道が果てしなく遠く感じられた。
その隣では、アヤコが相変わらずにこにこと笑っている。
それが余計に怖かった。




