黒き背中
「やっちまった……」
誰のものとも知れないその呟きが、凍りついた戦場に落ちた。
歪んだ空間が、形を整えるようにゆっくりと渦を巻いていく。黒く濁った光の縁が幾重にも重なり、中心は底の見えない穴のように沈み込んでいた。周囲の残骸や微細な破片が、その異常な重力に引かれて吸い寄せられていくたび、事態の深刻さだけが嫌でも増していく。
対処しようにも、彼らにはその術がない。
止め方も、閉じ方も、逃れ方もわからない。
ただ目の前で最悪が形になっていくのを見せつけられ、行き場を失った怒りだけが膨らんでいく。そして、その矛先は自然とユウタへ向いた。
「貴様! 取り返しのつかないことを!」
悲鳴にも怒号にも似た声が飛ぶ。今さら責めたところでどうにもならない。そんなことは叫んだ本人も理解していた。だが、それでも言わずにはいられなかった。この場にいる全員が、投降できる術を失い、死地が一気に現実味を帯びたことを悟ってしまったからだ。
「なら、なぜここに禁止兵器を積んできた? 使うためだろ。小惑星を墜とすのにも賛同していた。今さら何を言ってるんだよ」
ユウタは笑いながら言う。
その笑みは、勝者の余裕ではなかった。追い詰められた果てに、もう壊れることすら恐れなくなった者の乾いた笑いだった。理性も良識も、自分を守るための建前も、もはや何も残っていない。ただ、最後まで自分だけは正しいと思い込みたい執着だけが、そこに醜く残っていた。
その言葉に、誰も言い返せなかった。
怒りに顔を歪めながらも、沈黙するしかない。禁止兵器を運び込み、使う前提でここまで来た以上、自分たちもまた同罪だと誰もがわかっていたからだ。
「言い訳できないだろ。じゃあな。精々足掻いて死ね。俺は、こんなところで終わる人間じゃない……神なんだよ」
ユウタはけらけらと笑いながら言うと、セイクリッドラゴンを退路へ向けて進路変更しようと操作する。
自分だけは生き残る。その意図はあまりにも露骨だった。頭部を失った機体を動かし、混乱する味方も、広がるワームホールも、崩れた戦場も、帰る場所すら失ったというのに、それでもなお逃げるつもりなのだと。
だが――。
「いやいや、責任取らないと」
突如、クロの声がコックピットに広がった。
軽い口調だった。あまりにも軽く、あまりにも呆れた声音だった。まるで、ここまで散々好き放題に暴れた相手が、最後の最後であまりに稚拙な逃げ方を選んだことに、本気で拍子抜けしたかのように。
いつの間にか、バハムートはセイクリッドラゴンの背後へ回り込んでいた。頭部を失った機体では、その接近を捉えることすらできない。気づいた時には、すでに背後を取られていた。
「最後の最後まで……神ですか」
次の瞬間、バハムートは容赦なく翼をもぎ取った。
輝いていたはずの翼は、根元から乱暴に引き剥がされ、ひしゃげた金属音とともに宇宙へ放り捨てられた。さらにスラスターも砕かれる。ただ握り潰すような力任せの破壊で、機体の機能が次々と奪われていく。その手際には怒りよりも冷たさがあった。逃がさないための破壊であり、情けの欠片もない処理だった。
「神というなら……この状況、どうにかできますよね?」
そして、その問いを残し――
すでに完成されつつあるワームホールへ向け、バハムートはセイクリッドラゴンを蹴り飛ばす。
蹴撃を受けた巨体は、壊れた玩具のように吹き飛んだ。制御を失ったまま回転し、蹴り飛ばされた余波で腕は肘からもげ、足も壊れた人形のように、ただ形を留めるだけのものとなる。
それでも止まらない。
砕け、壊れ、ばらばらになりながら、セイクリッドラゴンは黒く歪む穴へ一直線に叩き込まれていく。
「クロ! お前はぁぁぁーーーーーー!」
ユウタの叫びが、空しく響く。
その絶叫には憎悪も怒りも、恐怖も悔恨も、何もかもが混ざっていた。だが、それすらもう届かない。砕けた機体にしがみつくように放たれる声は、広がる異常の前ではあまりにも小さかった。
バハムートは、そんなユウタへ、彼だけに聞こえるよう静かに告げる。
「神はいますよ。ただ、お前じゃない。様々な思惑を持ち、少しだけこの世界に干渉する存在だ」
その声は、嘲りではなかった。
冷たく、淡々としていて、だからこそ残酷だった。神を騙り、神の器を演じ、最後までそこへしがみつこうとした男へ突きつけられる、救いのない事実だった。
そして、バハムートは指をワームホールへ向ける。
「良かったですね。自ら神に構ってもらえるんだ。神同士、せいぜい話し合うといい。出来るものならな」
セイクリッドラゴンが飲み込まれる、その瞬間だった。
ワームホールは、ついに完全に完成する。
歪みきっていた空間が、逆に不気味なほど安定した形を取り始める。黒い穴の縁は脈打つように広がり、その奥にある“向こう側”が、底知れない闇とともに口を開いた。
そして――吸い込まれる寸前で、セイクリッドラゴンは不自然に静止した。
「……止まった?」
それがユウタから漏れた声だったのか、それともこの場の誰かが無意識に零した声だったのかはわからない。だが、そんなことを確かめる暇は、次の瞬間には消え失せていた。
ワームホールの奥から、デストロイヤーが溢れ出す。
まるで堰を切った濁流のように、黒く蠢く異形。それらが一斉に吐き出される。無数の異形が群れとなって押し寄せ、停止したセイクリッドラゴンへまとわりつくように群がっていく。
そして機体は、侵食されるように包み込まれていった。
黒く蠢く群れは、装甲を削ぎ、機体の継ぎ目へ潜り込み、存在そのものを食い潰すように広がっていく。ただ破壊されているのではない。機体そのものが、この宇宙にあってはならない異物へ塗り替えられていくような光景だった。
「~~~~~~」
声にもならぬ声が響く。
それは機体越しの絶叫なのか、通信に乗り損ねた断末魔なのか、それとも最後の最後でようやく恐怖を理解した男の叫びなのか、判然としない。だが、その意味だけは誰にも理解できた。
終わりだった。
「話し合いは、無理だったみたいだな」
バハムートはそう呟くと、ユウタとの通信を切る。
もはや確かめる必要すらない。あれはもう、この場でどうにかできる段階を過ぎていた。
そして次の瞬間には、この場に残る者たちへ向けて一斉に通信を飛ばす。
「今すぐ、このバハムートの背後に退避しなさい。そうすれば命だけは助かります」
短く、だが有無を言わせぬ声音だった。
そこには敵も味方もない。ただ、生き残りたければ従えという絶対の指示だけがあった。先ほどまで自分たちを叩き潰していた存在からの命令だというのに、逆らおうとする者はいない。むしろ、その言葉だけが唯一の救いに見えた。
そう告げると、バハムートは湧き出すデストロイヤーへ向け、即座に攻撃を開始し、数々の必殺技が叩き込まれる。
バハムートは両手両足に、嵐ではなく、光速で回転するフレアを纏った。
「フレア・ドリルパンチッ! アンド、キックッ!」
舞うように繰り出される格闘技が、迫るデストロイヤーを次々と打ち砕く。
拳が触れた瞬間に穿たれ、蹴りが掠めた瞬間に削り飛ばされ、黒く蠢く群れは面白いように塵となって散っていった。暴風の中に投げ込まれた紙片のように、抵抗する間もなく消し飛んでいく。
だが、それでも数は尽きない。
数の力にものを言わせ、デストロイヤーたちは全方位から一斉に押し寄せ、ついには全身へ組み付き始める。
腕に、脚に、翼に、胴に、黒い群れが幾重にもまとわりつき、巨体そのものを押し潰そうとするかのように蠢いた。
「フレア・バーーストォ!」
叫びとともに、全身から漆黒の閃光が一気に迸る。
セイクリッドラゴンを喰らった時と同じように、バハムートにまとわりつき、黒く蠢くデストロイヤーたちは、その閃光に触れた瞬間から焼き尽くされていった。まとわりついていた群れは悲鳴を上げる暇すらなく崩れ、黒い光に呑まれて跡形もなく消滅していく。
さらに、一部のデストロイヤーの群れは、バハムートの背後へ避難する戦艦たちに向かおうとする。
だが、それすら許さない。
「ダブル・シュツルムッ・ナックルッ!」
その声とともに両腕から放たれた二つの嵐の塊が、群れを側面から呑み込んだ。
圧縮された暴風は、逃げ場すら与えずデストロイヤーを巻き込み、引き裂き、砕きながら突き進む。そして、呑み込まれた群れは木っ端微塵の塵へと変わり、宇宙へ散っていった。
「……我々は……」
敗走する味方をまとめ、必死に指揮を執っていた艦長は、デストロイヤーの群れを相手に、たった一機で、それもなお圧倒していくバハムートの姿を見て、言葉を失うしかなかった。
常識では測れない。
戦力差も、数の理屈も、戦術も、何もかもが意味を失っていく。ただそこに在るだけで戦場の法則そのものを書き換えてしまうような黒い巨躯に、もはや畏怖すら追いつかない。
「ユウタが神とするなら、あれはなんだ?」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
問いであり、悲鳴であり、そして――目の前にある存在を理解することを諦めた者の、かすかな震えでもあった。




