黒き剣の前
「どうすれば……」
ダメージはない。
相手からの攻撃はすべてストームアーマーで防がれている。だが、傷を負わない事と楽である事は別だった。精神だけがじりじりと追い詰められていく。
「いつもの戦い方が出来たら……」
爪を振るい、フレアを広範囲へ吐く。だが、思うように数を削れない。潰したと思ったところで、別の敵が横を抜ける。戻ろうとすれば、今度はその動きに引かれて敵をさらに後方へ流してしまう気がした。下がっても駄目、前へ出ても駄目。その板挟みの中で、体には傷ひとつないまま、精神だけに負荷が蓄積していく。
そんな時、エルデから通信が入った。
『クレアねぇ! 聞こえるっすか? 後ろは大丈夫っす。アレクさんが防いでるっす! さすが秘密兵器っすね』
今のヨルハの心情とはあまりにもかけ離れた、明るく興奮した声だった。
『暴れるっすよ。いつも通りで大丈夫っす。危なくなったら助けてって言うっす。だから好きに暴れるっすよ!』
その一言。
それだけで、ヨルハは気づいた。
いつの間にか、自分の視野が狭まっていた事に。
バハムートに託された使命を、自分の中で勝手に膨らませ、自分ひとりでやらなければならないのだと勘違いしていた事に。
そして、後ろには頼もしい味方がいるのだという、当たり前の事実に。
「私は……なんと愚かな……」
自嘲にも似た呟きが漏れる。だが、その声音には先ほどまでの追い詰められた硬さは、もうなかった。
抱え込んでいたものが、ほんの少し軽くなる。
護るべきものはある。だが、それは自分ひとりで背負うという意味ではない。任せられる者がいて、託していい者がいる。だからこそ、自分は自分の役目に集中すればいい。
「バハムート様は、アレクに任せると言っていたのに。私は、自分の役割を完全に間違えていた」
その瞬間、黒い風が戦場を嵐のように巻き込んでいく。
従来の戦い方を取り戻したヨルハは、包囲網を真正面から噛み砕くと、そのまま縦横無尽に暴れ始めた。黒い巨体が駆けるたびに空気が裂け、爪が振るわれるたびに装甲が断ち切られていく。先ほどまで自分を縛っていた迷いは、もうどこにもなかった。
もちろん、抜けていくRFや戦艦もある。だが、もはやヨルハはそれを気にしない。
「アレクが守っている。エルデもジュンも動いてる。私の速度であれば、優に援護へ行ける」
そう割り切った瞬間、戦場の見え方そのものが変わった。
フレアを纏わせた爪で戦艦を引き裂き、RFを噛み砕き、黒い嵐を巻き起こしながら暴れていく。その一撃一撃は重く、速く、そして容赦がない。包囲し、足を止め、じわじわと削ろうとしていた敵の連携など、吹っ切れたヨルハの前では薄紙のように破れていった。
迷いを捨て、自分の本来の速度と破壊力を取り戻してしまえば、戦場はあまりにも簡単に自分のペースへ塗り替わっていく。
その事実が、かえってヨルハには恥ずかしかった。
先ほどまでの自分は、守るという言葉に囚われ、自らを狭め、勝手に苦しんでいただけだったのだと、今なら痛いほど分かる。
だが、その恥すらも今は前へ進む力に変える。
黒き獣は、もう迷わない。戦場を裂き、敵陣を食い破り、その圧倒的な暴力で空を支配していった。
「ヨルハは、ようやく本来の戦い方に戻りましたね」
バハムートは、ミカリエスとセフィレイムの攻撃を受けながらも、なお余裕を崩さずヨルハの姿を見ていた。
「気づけて良かった」
そう呟くと、今度は後方のエクスフラックとスケイリスターへ視線を向ける。その間も、ミカリエスとセフィレイムの攻撃は止むことがない。だが、バハムートはまるで意に介していなかった。
「スケイリスターも想像以上だな。機体だけでなく、アレクの腕もいいようですね」
その余裕に、ミカリエスから困惑を滲ませた声が響く。
「余裕ですね」
続く声音には、明らかな動揺が混じっていた。
「これだけの攻撃を受けて、なぜ無傷なんです。一応、私たちは席持ちです。このRF一機で、一部隊とも対等以上に戦えるというのに」
自負があるのだろう。その言葉には誇りがあった。だが同時に、その誇りが揺らぐほどの現実を前にした困惑も隠せていなかった。
バハムートは、そんな問いにあっさりと答える。
「簡単な事です。所詮、その程度という事ですよ」
声音は穏やかだった。見下しているというより、本当にそれ以上の意味を持たない事実として告げているような響きだった。だからこそ、その言葉は余計に重い。戦場の中で交わされるには静か過ぎる一言が、かえって両者の隔絶した差をはっきりと示していた。
「そろそろ、けりを付けましょうか」
バハムートがそう宣告した瞬間、戦場一帯に今まで以上の圧力が生まれる。
何もない空間から、闇が滲み出るように現れた。揺らめく黒はただの影ではない。空間そのものに穴が開いたかのような異様さを伴っていた。バハムートは迷いなくそこへ手を差し入れ、一振りの剣を取り出す。
その異常な光景に、ミカリエスもセフィレイムも動きを止めてしまう。
「奇跡……クロさん。やはり、あなたは神ですね」
ミカリエスから絞り出すような声が響く。驚愕と確信、その両方が混じった声だった。
「ジャッジ。私は決めた」
今度は、セフィレイムから声が漏れる。
それは覚悟を決めた声だった。迷いを捨て、この先へ進むと決めた者の声だった。
「そうですか……ありがとうございます」
ミカリエスから感謝の声が返る。
そのやり取りを聞きながらも、バハムートは静かに構えを整える。
「準備はいいですか?」
手にあるのは、バハムートに匹敵する巨剣フレアソード。
闇を凝縮して形にしたようなその剣は、ただ握られているだけで周囲の空気を重く染めていた。剣身から滲む漆黒は光すら呑み込み、存在そのものが凶器であると示している。
バハムートはその切っ先を、まっすぐミカリエスへ突きつけた。
「この一撃をもって締めにする」
「望むところです」
恐れはあっても、退く気はない。そう告げるような返答だった。戦場の空気が、次の瞬間を待つように張り詰める。




