帰る場所の温度
クロはジャッジに伴われ、荘厳なパイプオルガンの音が響く室内から、夜風が鳴る静かな外へ出ると、二人でバハムートのもとへと歩いていく。
テンダーのいる場とは違い、この場には人の輪もざわめきもなかった。あるのは、巨大なバハムートを中心に張りつめた空気と、そこへ不用意に近づくこともできず、遠巻きに様子を窺っている人々の視線だけ。
その沈黙の中で、ジャッジがふと足を止める。
「クロさん。今回はありがとうございました」
真っ直ぐな声だった。
そのままジャッジは、クロへ向かって深く頭を下げる。立場や体面ではなく、心からの礼だと分かる下げ方だった。クロはその様子を見て、きょとんとしたようにわずかに目を細める。
「何がです? 私は何もしてませんよ」
そう言って、クロはほんの少しだけ微笑んだ。
大仰でもなく、突き放すでもなく、ただ当たり前のように返された言葉だった。それがかえってクロらしかった。自分が何かをしたという自覚も誇る気もなく、必要な場で必要なように動いただけ。そんな淡泊さが、却ってジャッジの胸に残る。
クロはそれ以上その話を引き延ばすこともなく、自然な足取りでバハムートの足元へ向かう。
見上げれば、漆黒の巨躯は闇夜と地上のライトに照らされ、その凶悪な輪郭をいっそう際立たせていた。神に挑む悪魔――そんな言葉さえ生ぬるく感じるほどの威容を前に、クロはしばしそれを眺め、わずかに口元を緩める。
(うん。やっぱり俺はカッコいいな)
内心でそう自画自賛しながら、クロは迷いなくバハムートの足元へと歩いていく。巨大な存在へ向かう小柄な少女の背は、この場の誰が見ても場違いなはずなのに、当の本人にはためらいがなく、だからこそ異様なほど自然に見えた。
ジャッジはそんな背中を見送りながら、ほんのわずかに目を細める。戦場でも人前でも崩れない彼の表情が、この時ばかりは少しだけ柔らかかった。
「ジャッジさん。ではまた」
クロは足を止めず、背中を向けたまま片手をひらりと上げて声をかける。軽い別れの挨拶。だが、ぞんざいではない。相手を相手としてきちんと認めた上での、クロらしい距離感だった。
「はい。お気をつけて」
ジャッジもまた、短く、だが丁寧に返す。
クロは小さくうなずくと、そのまま地を蹴った。
華奢な身体がふわりと宙へ浮く。次の瞬間には、飛ぶというより駆け上がるような勢いで、彼女はバハムートの巨体を駆け上がっていく。足先が外殻を捉え、離し、また捉える。その動きは重力を忘れたように軽やかで、それでいて一切の無駄がない。見上げている者たちには、それは人が高所へよじ登る姿ではなく、最初からそこへ帰るよう定められていた小さな影が、本来の場所へ戻っていく光景に見えた。
その様子を下から見上げながら、ジャッジは小さく息をつく。
そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「また会いましょう」
静かな願いにも似たその言葉は、すでに首元近くまで辿り着いていたクロの耳には届かない。風に紛れ、巨体に吸われ、誰にも拾われることなく消えていく。けれど、ジャッジはそれでよかった。聞こえなくても構わない。ただ、そう思ったことだけが自分の中に残れば、それで十分だった。
ジャッジの呟きが風に掻き消される中、クロは首元へ辿り着く。
バハムートの肩には、当然のようにヨルハが待っていた。クロが駆け上がって近づくにつれ、その尻尾の揺れが少しずつ大きくなっていくのが、クロから見てもよく分かる。落ち着いた佇まいは変わらないのに、隠しきれない感情だけがそこに出ていた。
「クロ様、おかえりなさい」
ヨルハの声は穏やかだった。だが、その奥には、待っていた時間の長さを滲ませるような安堵がたしかに混じっている。
クロもその声を受け、ようやく少し肩の力を抜いた。小さくうーんと背を伸ばし、張っていた気をほどくように息を吐く。外では気を張り続けていた分、その何気ないやり取りがひどく落ち着いた。
「ただいま、ヨルハ。一旦帰りましょうか」
そう言ってクロは疑似コックピットへ入る。意識を戻せば、感覚は再びバハムートと重なり、巨体の隅々にまで己の意思が行き渡っていく。翼がゆるやかに広がり、黒き巨躯は地を震わせることもなく静かに浮かび上がった。
遠巻きに見ていた人々は、息を呑んだままその光景を見上げることしかできない。
あれほどの巨躯が、まるで重さを失ったかのように浮く。ここに着陸した時以上に言葉を失う。
そして、ある程度の高さまで上がった次の瞬間、バハムートは一気に上空へ飛翔する。そのまま飛び去るように見えた次の瞬間、巨体は空間ごと掻き消えるように転移し、跡形もなく姿を消した。
次に現れたのは、トゥキョウ基地のブラックガーディアンの傍だった。
こちらはすでに朝を迎えており、昇った朝日がバハムートの漆黒の体を煌々と照らしている。夜に見るそれとはまた違う威圧感があった。黒いはずの巨体は光を受けて鈍く輝き、闇を纏ったまま白日の下へ姿を現したような異様さを放っている。その突然の出現も相まって、周囲にいた者たちは思わず息を呑んだ。
空から降ってきたのでもない。
飛来してきたのでもない。
そこに何の前触れもなく現れた、巨大な漆黒の存在。ただそれだけで、人の理解は一瞬遅れる。
だが、そんな周囲の反応など意にも介さず、クロはバハムートから自身へと意識を戻した。続けてヨルハもクレアへと意識を戻し、軽やかにクロの肩までやって来ると、二人はそのまま転移して姿を消す。
次に現れたのは中央会議室だった。
視界が切り替わった先にあったのは、張り詰めた空気でも、緊張に満ちた指揮所でもない。床ではアヤコとウェン、それにエルデが眠っている。そのすぐ傍らでは、シゲルたちが何かを飲みながら談笑していた。
あまりにも気の抜けた光景だった。
つい先ほどまでいた、あの張りつめた場の空気が嘘のようだった。緊迫も重圧もここにはなく、あるのは無事を前提にしたような緩さと、肩の力が抜けた人々の空気だけだった。その落差がおかしくて、クロは思わず笑いそうになる。
「やっぱり普通にとはいかなくとも、賑やかな日常がいい」
ぽつりと零れたその言葉には、飾り気がなかった。
完璧に平穏な日々ではない。何も起きない穏やかなだけの毎日でもない。それでも、誰かが眠り、誰かが飲み物を片手に話し、緊張ばかりではない時間がそこに流れている。そんな賑やかさこそが、クロにとっては何よりも大切だった。
「そうですね、クロ様。私も好きです」
クレアもまた、静かに肯定する。
短いやり取りだったが、それだけで十分だった。
神として崇められることよりも、畏れられ、遠くから見上げられることよりも、クロにとって大事なのはこういう場所だった。普通とは少し違っていてもいい。眠っている者がいて、気の抜けた顔で話している者がいて、帰ってくればそこに皆がいる。そんな空間の方が、よほど心に馴染む。
それは願いというほど大仰なものではない。
けれど、クロの胸の奥に確かにある、本物の想いだった。




