2話 宿
三人の大男を一瞬で叩きのめした少女は、何事もなかったかのように短剣を腰へ戻した。
その一部始終を、ティオロは壁の陰から呆然と見つめていた。
ついさっきまで自分を用水路へ叩き落とした相手だ。腹は立つ。立つ、のだが――それ以上に、いま目の前で見せつけられた光景があまりにも**規格外**すぎた。
(なんだよ、あれ……)
片手で大男を持ち上げる。
見えない力で吹き飛ばす。
おまけに、鞘から抜いた途端に形を変える妙な剣。
どう考えても、ただの旅の娘じゃない。
気づけばティオロは、まだ服の裾に残る水気も気にせず、少女のあとを追っていた。
「君って、**すごいね**……」
声をかけた瞬間、少女の足がぴたりと止まる。
ゆっくり振り返ったその顔は、不機嫌そうで、それでいて妙に整いすぎていて、余計に近寄りがたい。
「他に用がないなら、私に**関わらないでください**」
声音は冷たい。まるで**氷**みたいだった。
「つれないなあ。さっきは、その短剣があまりに凄そうだったからさ。つい**衝動**で手にしちゃったんだよ。悪気はなかったって」
「ふぅん……」
まるで信じていない顔だった。
「貴方が嘘をついているかどうかは、この短剣を使えば**分かるわ**」
「えっ」
ティオロの背筋に、じわりと嫌な汗が滲む。
まさか、さっき大男たちにやったようなことを自分にも試すつもりじゃ――
だが少女は、短剣の柄を軽く撫でると、それをすっとティオロへ差し出した。
「これに触ってみて」
「あ、ああ……それだけ?」
拍子抜けしつつも、ティオロは恐る恐る指先を伸ばす。
次の瞬間だった。
**バチッ!**
「うわっ、痛っ!?」
指先から腕にかけて、雷でも走ったみたいな衝撃が突き抜けた。ティオロは反射的に手を引っ込める。
それを見た少女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり。貴方、**嘘をついているわね**」
「はぁ!? なんでそうなるんだよ!」
「短剣が怒ってるもの。嘘つきは**嫌い**だって」
「道具が喋るかよ! ていうか、俺は悪気はなかったって言ってるだろ!」
文句を言いながらも、結局ティオロはそのまま少女の隣を歩き出す。少女のほうも追い払おうとはするが、本気で振り切るつもりはなさそうだった。
「で、これからどこ行くの?」
「貴方には**関係ありません**」
「冷たいねえ。人のものを盗んだのは悪かったって、いちおう謝ったつもりなんだけどな」
「ぐっ……」
痛いところを突かれたのか、ティオロは言葉に詰まる。
少女はそんな彼を一瞥すると、ふいに近くの果物屋へ足を向けた。
色鮮やかな果実が並ぶ、小さな露店だった。
少女は赤い果実をひとつ手に取ると、店番の女性へ差し出した。
「これをください」
「はいよ――って、あら?」
差し出されたものを見て、店の女性が目を丸くする。
その手の中で、ぴかりと**金貨**が光っていた。
ティオロは吹き出しそうになるのを、慌ててこらえる。
「細かいの、ないの?」
「それしかないわ」
「いやいや、これ一枚なら、うちの果物ぜんぶ買えてもおかしくないよ?」
「そんなにいらないわ。これ一個でいいの」
「困ったねえ……お釣りを出したいんだけど、今ちょうど主人がいなくて崩せないんだよ」
露店の女性が本気で困り顔になる。それを見て、ティオロは肩をすくめた。
「あー、じゃあ**僕が出すよ**」
ポケットから銅貨を一枚取り出し、果物を二つ受け取る。
それで話は、あっさり片付いた。
少女は少しだけ目を見開いてから、小さく言った。
「……ありがとう」
「これで貸し借りなし、ってことでどう?」
そう言うと、少女はむすっとしたまま歩き出した。
だが、さっきよりはわずかに態度が**柔らかい**気がする。
市場を少し離れた水路脇の石段に腰を下ろし、二人は果物をかじった。しゃくり、と小気味いい音が響く。
「君ってさ……市場で**買い物したこと、ないの**?」
その一言に、少女の肩がぴくりと揺れた。
「な、何でそんなことを聞くのですか?」
「いや、だって分かりやすすぎるよ。果物ひとつに**金貨**だぜ? 貴族のお嬢様でも、さすがにそんな真似はしないだろ」
「べ、別に……貴方には関係ないでしょう」
顔を背けたまま果物をかじる少女を見て、ティオロは確信する。
――**図星**だ。
「普通ね、市場で果物一個買うのに金貨なんか出さないんだよ。せいぜい銅貨、たまに銀貨ってところ。果物なんて、二つか三つで銅貨一枚くらいだし」
少女は黙って聞いている。
「この辺じゃ、普段の買い物は銅貨が基本。金貨を使うのは、高い武具とか馬車とか、家を建てるみたいな大きな買い物の時だけ」
「……そうだったの。**知らなかったわ**」
そこでようやく、少女は少しだけしおらしくなった。
「細かいお金がなかっただけなの」
「へえ。じゃあ聞くけど、麦とか野菜とか魚とか肉とか、酒の相場は?」
「……」
少女はぽかんと口を開けたまま、こくりと首を横に振る。
「やっぱりね」
ティオロは呆れ半分、面白半分でため息をついた。
「君、もしかして、お金さえ出せば何でも買えるって思ってない?」
「うっ……」
分かりやすく言葉に詰まる。どうやら本気でそう思っていたらしい。
(こりゃ重症だな……世間知らずにもほどがある)
果物を食べ終えた頃、少女は立ち上がって周囲を見回した。
「どうしたの?」
「今夜、泊まれる宿はないかしら」
「予算は?」
そう聞くと、少女はまた金貨を一枚取り出した。
ティオロはそれを見て、少し離れた豪華な宿を指さす。
「それだけあれば、あそこで十日くらいは食事付きで泊まれるよ。かなり**高級**だけど」
少女は建物を見上げ、すぐに首を振った。
「あんな立派な場所じゃなくていいわ」
「じゃあ、安くてもいいなら一軒ある。付いてきて」
ティオロに案内され、少女は市場の喧騒を抜けて街外れへ向かった。たどり着いたのは、古びた小さな宿屋だった。
受付に行くと、宿の主人らしい中年男が顔を出す。
「よう、ティオロ。今日は何の用だ?」
「しばらく宿を借りたいんだけど。僕じゃなくて、こっちの人」
ティオロが少女を前へ出すと、主人は目を細めた。
「おやおや、**可愛いお客さんだ**」
「少しの間、泊まりたいのですが」
「分かりました。じゃあ、ここに名前を」
差し出された紙と筆を受け取り、少女はさらさらと文字を書く。
それを横から見たティオロは、胸の内でつぶやいた。
(**リーミア**……っていうのか)
「ほう、リーミアさん、ね。どこかで聞いたような名前だな」
「そうかしら? よくある名前だと思いますけど」
「ははっ、そうかもしれないな。宿代は一泊、銅貨十枚だよ」
「では、これだと何日くらい泊まれますか?」
そう言って差し出したのは、**またしても金貨だった**。
主人の表情が引きつる。
「こ、これ一枚なら……あんた一人どころか、そっちのティオロも一緒に**しばらく余裕で泊まれる**よ」
「ちょっと待って。僕を『ついで』みたいに言わないでくれる?」
「では、その人も付け加えてお願いします」
「おい!?」
「あら、何か変だったかしら?」
悪気ゼロで言い切るリーミアに、ティオロは頭を抱えた。
こうして半ば強引に、彼も同じ宿へ泊まることになってしまう。
部屋は別々にしてもらい、主人は二人分の鍵を用意した。
ティオロの部屋は二階の小さな一室。
古びたベッドに腰を下ろした彼は、ぼんやりと天井を見上げる。
(リーミア、か……。やっぱり、『リムア姫』に似てる気がするんだよな……)
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚ますと、窓の外はもう夕暮れ色だ。
「腹減ったな……」
ティオロは部屋を出て、三階にあるリーミアの部屋へ向かった。軽く扉を叩く。
「どうぞ」
返事を聞いて扉を開けた瞬間、ティオロはぎょっとして立ち止まった。
「な、何があったの……?」
リーミアの顔も服も、煤で真っ黒だった。
「火を起こそうとして失敗したの……」
部屋の暖炉を見て、ティオロはだいたい事情を察する。
だが、どうすればここまで派手に失敗できるのかは逆に分からない。
「と、とりあえず顔洗ってきなよ。着替えはあるの?」
リーミアはこくりと頷いた。
「一緒に食事しよう」
「ああ、いいけど」
「それと……貴方、火は起こせるの?」
「そりゃまあ、できるけど」
「じゃあ、あとでお願い*」
そう言い残し、リーミアは着替えを抱えて部屋を出ていく。
扉が閉まると、ティオロはふと室内を見回した。
そこで彼女の巾着袋が目に入る。
(……ちょっとだけなら)
こっそり中を覗く。
だが、袋の中は空っぽだった。
「なんだよ……空か」
昼間あれだけ金貨を出していたのに、今は何も入っていない。
首を傾げていると、やがて着替えを終えたリーミアが戻ってきた。
「じゃあ、食事に行きましょうか」
「おっ、やっと――」
「ちょっと廊下で待ってて」
「え?」
有無を言わせず追い出される。
結局、そこから三十分近く待たされる羽目になった。
ようやく扉が開いた時、リーミアは巾着袋を手にし、短剣を腰に下げていた。
「下で食べるだけなのに、ずいぶん時間かかるね」
「女の子は準備が忙しいのよ」
そう言われると、ティオロは何も言い返せない。
二人は一階の広間へ向かったが、食堂には誰もおらず、料理の気配すらなかった。
「ねえ、オヤジ! 食事の用意は?」
呼ばれて顔を出した主人は、へらへら笑いながら頭をかく。
「いやー、悪い悪い。久しぶりの客だったから、何の準備もしてなくてさ。今日は外で食べてきてくれないか?」
「はぁ〜!?」
「まあ、外で食事しましょう」
怒るティオロとは対照的に、リーミアはあっさり受け入れた。
「明日の朝からはちゃんと用意するよ!」
そんな主人の声を背に、二人は再び夜の市場へ向かう。
「君は何が食べたいの?」
「特にないけど……美味しいお店があるなら教えてくれる?」
「美味しい店、ねえ……」
ティオロが考え込みながら歩いていると、不意にリーミアが少し後ろで立ち止まった。
「あの店は何かしら?」
彼女が指さした先を見て、ティオロは一瞬で理解した。
そこにあったのは、着飾った女たちが男に声をかけている、いかにもな店だった。
「あー……あれは、子供とか女の子には関係ない店だよ」
「そうなの?」
「何ていうか……大人の男と女が、いちゃいちゃする場所」
リーミアはきょとんと首を傾げる。
「いちゃいちゃして、何か良いことがあるの?」
「……世間知らずのお子ちゃまには、ちょっと難しいかな」
からかうように言うと、リーミアはむっと頬を膨らませた。
「失礼ね。私はそんなに子供じゃないわよ!」
ぷいっと顔を背け、そのまま少し早足で歩き出す。
「あっ、悪い悪い。言い過ぎたって」
慌てて追いかけながら謝ると、リーミアはしばらく無言だったが、やがて少しだけ歩調を緩めた。
「市場には色んな店があるんだよ。ほら、向こう行こう」
そう言って、ティオロは彼女の手を引く。
しばらく歩いた先で、二人は小さな料理店に入ることにした。
席に着いてからも、リーミアは落ち着かなさそうに店内を見回している。何を頼めばいいのか分からないらしく、注文はほとんどティオロ任せだった。
(ほんとに…世間知らずなんだな……。僕がいなかったら、今日一日どうするつもりだったんだか)
そんなことを考えながら食事を終え、会計の札を見たティオロは顔をしかめる。
(しまった…ちょっと足りない)
ポケットの中の小銭を数える。やはり、ほんの少しだけ届かない。
「参ったな……」
思わず漏れた声に、リーミアが言った。
「大丈夫よ」
そう言うと、彼女は巾着袋に手を入れ――金貨を一枚取り出した。
ティオロの目が見開かれる。
(え……?)
あの袋、さっき見た時は空だったはずだ。
なのに今は、何の迷いもなく金貨が出てきた。
店員が金貨を受け取り、奥へ下がっていく。
(**魔法の袋**……? いや、持ち主にしか出せないのか? それにしても、どれだけ入ってるんだよ……)
昼間の短剣のことまで思い出し、頭の中がますます混乱する。
やがて店員が釣りを持って戻ってきた。盆の上には銀貨と銅貨がいくつも並んでいる。
「お釣りは貴方にあげるわ」
「えっ、いいの?」
「案内してもらったし、食事も選んでもらったもの」
そう言われ、ティオロはありがたく受け取る。
(……なるほど。金貨、まだまだ持ってるな)
二人は店を出て、宿へ戻った。
そのまま自分の部屋へ戻ろうとしたティオロの腕を、後ろから誰かが掴む。
「ちょっと」
「どうしたの?」
「貴方、暖炉に火を入れてくれるって言ったでしょ」
少しだけ恥ずかしそうに、リーミアは視線を逸らした。
「あー……そうだった」
思い出したティオロは、そのまま彼女の部屋へ向かう。
改めて中を見回すと、リーミアの部屋は自分の部屋よりずっと広かった。
ベッドにはカーテンまで付いていて、暖炉の前には肘掛け椅子もある。
(僕の部屋よりずっと豪華じゃないか……まあ、自業自得だけど)
暖炉の前にしゃがみ込んだティオロは、周囲に飛び散った炭の破片と、軽く爆ぜた跡を見て眉をひそめた。
「で、暖炉に何したの?」
「魔法で火を起こそうとしたら……失敗しちゃって。**魔石がないと、うまく制御できなくて**……」
それを聞いて、ティオロはこれまでの出来事を思い返す。見えない力。妙な剣。火起こしの失敗。
「魔法以外で火をつけたこと、ないの?」
リーミアは小さく頷いた。
「今まで、どんな生活してたんだよ」
「……修道院にいたの」
「ああ、なるほどね」
その一言で、ティオロの中でいくつもの点が繋がった。
買い物を知らない。薪に火もつけられない。怪しい店を珍しそうに眺めていた。
(やっぱり、**生粋のお嬢様育ち**ってやつか。しかも、やたら強い変なお嬢様)
ティオロは暖炉の中を片づけると、火打ち石を取り出して薪へ火を移していく。
ぱちぱちと音を立て、やがて炎は安定して燃え始めた。
暖かな明かりが、部屋の中をやわらかく照らす。
リーミアは肘掛け椅子に腰掛けたまま、その火をじっと見つめていた。
ティオロも暖炉の前にしゃがんだまま、しばらく一緒に炎を眺める。
「よし、こんなもんかな」
立ち上がったティオロが、軽く服の埃を払う。
「じゃあ、僕はこれで失礼しようかな」
そう言って扉へ向かいかけた、その時だった。
「……私のことは、**何も聞かないの**?」
背後から、静かな声が届く。
ティオロは足を止めた。
昼間、市場で出会った時の棘のある目つきとは違う。今の彼女の表情は、どこか柔らかく、まるで別人みたいに優しかった。
その視線に気圧されるように、ティオロは暖炉のそばへ戻る。
そして、リーミアの向かいに腰を下ろした。
「……何か、話してくれるの?」
リーミアは揺れる炎を見つめたまま、小さく息をつく。
「そうね。いろいろあるけど……まず、私には親がいないのよ」
「えっ……」
あまりにも唐突な言葉に、ティオロは目を瞬かせた。
頭の中で意味を整理しようとするが、うまく追いつかない。
「それって……生まれる前に亡くなった、とか?」
「違うわ」
リーミアは静かに首を横に振った。
「ある日突然、私は修道院の祭壇の上にいたらしいの」
「……は?」
ティオロは固まった。
今、目の前の少女は…とんでもないことを、さらっと言わなかったか。
「ええと……つまり、君は普通に生まれたんじゃない、ってこと?」
「そういうことになるわね」
あまりにも現実離れしすぎていて、ティオロの理解は**完全に止まった**。
しばらく口を開きかけては閉じ、やがて観念したように立ち上がる。
「ごめん。今日はもう寝るよ」
「……そう」
リーミアは少しだけ**寂しそうに**目を伏せた。
「ちなみに、この街にはどれくらいいるつもりなの?」
「準備が整ったら出発するわ」
「そっか。分かった」
それだけ言い残して、ティオロは部屋を出ていった。




