1話 市場
ーー100年後
エルテンシア王国――。
東西を隣国に挟まれ、南には広大な海、北には険しい山脈を抱くその小王国は、国土こそ広くないものの、古くから貿易の要として知られていた。
その中でも、ひときわ栄えている街がある。
王国最大にして唯一無二の繁栄を誇る商業都市、マネニーゼ市場を擁する街だ。
諸外国からは「田舎王国」などと揶揄されるエルテンシアだったが、この街だけは別格だった。
海から届く新鮮な魚介、山から運ばれる木の実や薬草、獣肉、珍しい鉱石。さらに異国から流れ着いた工芸品や装飾品、雑貨の数々が、ところ狭しと並べられている。
しかもここは、ただの市場ではない。
多様な民族や商人が集まる土地柄ゆえに、国は半世紀前、この市場と周辺市街地を「中立都市」と宣言した。
その結果、マネニーゼ市場はどこの国にも染まらない自由な交易地として、一気に発展した。
昼も夜も人の波は途切れず、儲け話を求める者、一攫千金を狙う者、そして――もっと手っ取り早く稼ごうとする者まで集まってくる。
そんな喧騒のど真ん中で、ひとりの少年が人波に紛れていた。
年の頃は十代後半。
背は高めで、長い黒髪は癖が強く、ろくに櫛も通していないのか跳ね放題。目も黒く、少し日に焼けた褐色の肌をしている。身につけているのは、何日着たのか分からないほどくたびれたシャツだけだった。
少年は屋台の前を通り過ぎざま、焼き菓子をひとつ――すっと盗んだ。
店主が気づくより早く人混みを抜け、路地裏に滑り込む。
そこでようやく足を止めると、戦利品の焼き菓子にかぶりついた。
「へへっ……うまっ」
口いっぱいに甘さが広がる。
だが、その程度では腹の足しにもならない。
少年は焼き菓子を食べながら、ふと視線を上げた。
目の前には、周囲の民家より少し立派な屋敷が建っている。
(へへ……たしか、あの家には老夫婦しか住んでないって話だったな)
彼はにやりと笑うと、小走りで玄関へ向かった。
軽く扉を叩く。
コンコン。
返事はない。
確認のため、もう一度叩く。
それでも中から気配は感じられなかった。
「よし……」
少年は音もなく裏手へ回り込む。
木枠の窓を順に確かめ、鍵のかかっていない場所を探していく。
やがて、ひとつだけ外れの窓を見つけた。
身体を滑り込ませるには十分な大きさだ。
少年はためらいもなく家の中へ侵入した。
無人の屋敷は静かだった。
軋む床板すら、彼にとっては慣れたものだ。
目当てはすぐに見つかった。
寝室の奥に置かれた小ぶりな宝箱だ。
「当たり、っと」
彼は器用な手つきで鍵をいじり、ほどなくして錠を外す。
中に入っていた銀貨と銅貨を何枚か抜き取り、素早くポケットにしまった。
欲張りすぎれば足がつく。
その辺りの加減だけは、よく分かっている。
宝箱を元の位置に戻し、侵入した窓へ引き返そうとした――その時だった。
「あら……?」
廊下の向こうに、ひとりの女性が立っていた。
どうやら手伝いに来ていた家政婦らしい。
目が合う。
「誰……あなた?」
「やばっ――!」
少年は即座に踵を返した。
女性も一瞬遅れて事情を呑み込み、叫ぶ。
「待ちなさい、泥棒!」
少年は廊下を駆け抜け、壁を蹴って身軽に二階へ飛び上がる。
そのまま窓から外へ飛び出し、路地へと逃げ落ちた。
背後では女性の悲鳴が響いている。
「泥棒ーっ!」
声を聞きつけて、近くにいた男たちが屋敷へ駆け寄っていく。
少年は屋根の影からそれを見下ろし、舌打ちした。
「女がいるなんて聞いてねえぞ……情報と違うじゃないか」
悔しげに吐き捨てると、彼はポケットから帽子を取り出し、深く目深にかぶる。
何食わぬ顔で市街地へ戻れば、もうただの通行人だ。
そうして再び市場へ紛れ込んだ時だった。
向かいから歩いてくる、ひとりの少女に目が止まる。
年の頃は十四歳位か?
フード付きのローブをまとい、身なりは決して良くない。むしろ、ややみすぼらしいとさえ言えた。
だが――腰に差した短剣だけは違った。
(白銀の鞘……ずいぶん立派じゃねえか)
思わず少年の目が細くなる。
(親の形見か何かか? あれなら結構な値がつくかもしれねえ)
彼は自然な足取りで少女へ近づく。
相手に気づかれぬよう距離を詰め、すれ違いざまにわざと肩をぶつけた。
「おっと、悪いな」
謝るふりをしながら、その手はすでに獲物を奪っている。
数歩離れたところで、少女がはっと腰に手をやった。
「あっ……泥棒!」
「イヒヒ……!」
少年は振り返りもせず駆け出した。
久しぶりの大物だ。口元が勝手に緩む。
「これでしばらくは飯に困らねえ……!」
市場を抜け、裏通りを走り、町外れの質屋へ飛び込む。
そこは彼にとって顔なじみの店だった。
店主はカウンター越しに少年を見るなり、半ば呆れた顔をする。
「……また何か持ってきたのか、ティオロ」
「へへっ、見てくれよ。今日は当たりだぜ」
ティオロと呼ばれた少年は、奪った短剣を得意げに差し出した。
店主は受け取ると、隅々までじっくりと調べ始める。
ティオロは腕を組み、今にも大金を受け取るつもりで待っていた。
しかし、しばらくして返ってきた言葉は、期待とは真逆だった。
「悪いが、こいつは買い取れねえ」
「はぁ!? なんでだよ、どう見ても上物じゃねえか!」
「見た目だけならな」
店主は短剣を軽く振り、眉をひそめる。
「まず、剣が鞘から抜けない。錆びついてるのか、何か細工があるのか知らんが、とにかく抜けねえ。それに妙に軽すぎる。こんなもん持ち込まれても、玩具じゃないかって疑われるのがオチだ」
「ええ~っ……」
ティオロはあからさまに肩を落とした。
せっかく盗んできたというのに、一文にもならないらしい。
店主は短剣を返しながら、いつものようにぼやく。
「それにティオロ、お前さんもいい加減こんな真似ばっかしてないで、真面目に働いたらどうだ」
「僕がどう生きようが、僕の勝手だろ」
むっとした顔で言い返し、ティオロは店を出た。
受け取った短剣を見下ろえる。
さっきまで宝物に見えていたそれは、今ではただのガラクタ同然だった。
「鞘が抜けねえ、だって?」
彼はその場で柄を握り、試しに引いてみる。
だが、びくともしない。
「くそっ……ほんとに抜けねえ。剣が中で錆びてんのかよ」
思い返してみれば、持ち主の少女も薄汚れた格好をしていた。
あんな見た目に騙された自分が腹立たしい。
「あー、見つけた!」
不意に背後から声が飛んだ。
振り返ると、さっきのローブ姿の少女が立っていた。
あちこち探し回っていたのだろう。額には汗が浮かび、肩で息をしている。
「……私の剣、返して」
ティオロはにやりと笑った。
「ふん。こんな値打ちのない短剣、持ってても意味ねえだろ。持ち歩くなら、もっとマシな――」
言い終える前だった。
「うわっ!?」
見えない何かに突き飛ばされたように、ティオロの身体がふわりと浮く。
次の瞬間、用水路へ真っ逆さまに落ちた。
バシャアッ!
「ぶはっ!」
水面から顔を出した彼は、呆然とした。
さっきまで手にしていた短剣が、いつの間にか少女の手元へ戻っていたからだ。
「これは返してもらったから」
「え……?」
少女は静かに言った。
ティオロは言葉を失う。
今のは何だ。見えない力で自分を吹き飛ばし、ついでに短剣まで奪い返したのか。
(まさか……今の、こいつが……?)
ぞわり、と背筋に寒気が走る。
少女はそれ以上何も言わず、短剣を腰に戻して立ち去っていった。
取り残されたティオロは、しばらく水の中で呆然としていた。
やがて這い上がると、服をぎゅっと絞る。
「っぶは……! くそっ、何なんだよ……あの女……」
靴の中まで水浸しだ。
最悪の気分で石段を上り、表通りへ戻ろうとした、その時だった。
「――あ?」
少し先の路地で、さっきの少女が三人の大柄な男に囲まれているのが見えた。
どいつも柄が悪い。
しかも、そのうちのひとりは背中に馬鹿でかい大剣まで背負っている。
(へへっ……ざまあみろ)
ティオロは壁の陰に身を隠しながら、口元を歪めた。
自分を用水路に叩き落とした相手だ。少しくらい痛い目を見たところで知ったことではない。
「おいおい、嬢ちゃん。そんな怖い顔すんなよ」
「俺たちは親切で声かけてやってんだぜ?」
「そんなボロい格好で一人歩きなんざ、危なっかしくて見てらんねえよなぁ?」
男たちは下卑た笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰める。
だが少女は一歩も退かなかった。
「そこを退いて」
声は静かだった。
けれど妙に冷たくて、ティオロは思わず眉をひそめる。
「今なら、見逃してあげる」
「はぁ?」
次の瞬間、いちばん体格のいい男が少女の腕を乱暴につかんだ。
「ガキが偉そうに――!」
そのまま男は少女の身体を軽々と持ち上げ、石畳に叩きつける。
ドンッ!
「っ……!」
鈍い音が路地に響いた。
ローブの裾が広がり、土埃がふわりと舞う。
(お、おい……)
さすがのティオロも一瞬ひるんだ。
だが少女は悲鳴を上げない。ただ倒れたまま、男たちを見上げているだけだった。
「はっ、何だその目は?」
別の男が鼻で笑う。
「薄汚ねえ小娘が、貴族様のつもりかよ。拾ってもらえなかった野良犬みてえな格好しやがって」
ティオロの口元から笑みが消えた。
さすがに聞いていて気分のいい言葉ではない。
男はなおも少女へ近づく。
「泣いて謝るなら、少しくらい優しく――」
最後まで言わせてもらえなかった。
少女の身体が、すっと起き上がる。
「え?」
男が間の抜けた声を漏らした、その瞬間――
パシィンッ!
乾いた音が鳴った。
少女が男の頬を打った。ただ、それだけに見えた。
なのに次の瞬間、男の目から光が消える。
「が……っ」
巨体がぐらりと揺れ、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
「なっ……!?」
残る二人が目を見開く。
ティオロも思わず息を呑んだ。
(一撃で気絶させた……?)
少女は気絶した男の襟元を片手でつかむ。
そして信じられないことに、その巨体をひょいと持ち上げた。
「は……?」
ティオロの口から、素っ頓狂な声が漏れる。
少女は大男を軽々と運び、乱暴に放り投げるでもなく、静かに地面へ寝かせた。
まるで眠ってしまった子供を横たえるような、妙に優しい手つきだった。
「お、おい……嘘だろ……」
ティオロの背中を寒気が走る。
「て、てめぇ……!」
最初に少女を叩きつけた大男が、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふざけやがって!」
怒りに任せて、大男が真正面から突っ込む。
ぶつかられただけで人が吹き飛びそうな勢いだ。
だが少女は逃げない。
すっと左手を前へ出し、掌を男に向ける。
ボンッ!
空気が弾けた。
「があぁっ!?」
目に見えない衝撃が大男をまとめて吹き飛ばし、巨体を路地の壁に叩きつける。
ズガァン!
男はそのままずるずると崩れ落ちた。
(今のは……術か!?)
ティオロは完全に言葉を失っていた。
残るは、背中に大剣を負った最後の男ひとり。
だが、そいつは他の二人よりもさらに顔つきが悪かった。
「上等だ、小娘……!」
男は怒鳴りながら背中の大剣を引き抜く。
鈍く光る分厚い刃は、人を斬るためだけに作られたような凶悪さを放っていた。
「術だか何だか知らねえが……そんな細腕で、こいつは受けられねえだろ!」
男が一気に踏み込み、頭上高く大剣を振りかぶる。
「このヤローッ!!」
(まずい――!)
ティオロが反射的に飛び出しかけた、その時だった。
少女は腰の短剣へ、そっと手をかける。
次の瞬間、白銀の鞘から引き抜かれたのは、短剣ではなかった。
光が伸びて刃が生まれる。
一瞬で形を変えたそれは、少女の背丈に迫るほどの、透き通るような長剣だった。
振り下ろされた大剣と、抜き放たれた白銀の刃が交差する。
キィンッ――!
甲高い金属音が路地を裂いた。
「なっ!?」
男の目が見開かれる。
直後、風を裂くような鋭い音が走った。
少女の剣が、大剣の刀身を根元から斬り飛ばしたのだ。
まるで飴細工でも断つかのような、鮮やかすぎる一閃だった。
折れた鉄塊がくるくると宙を舞い、石畳へ突き刺さる。
「う、嘘だろ……俺の剣が……!?」
男は柄だけになった武器を握ったまま、青ざめて後ずさった。
少女は一歩、前へ出る。
その時、風にあおられてフードがふわりとめくれた。
そこから覗いたのは、目を奪うほど整った顔立ちだった。
大きな瞳、長い黒髪、そして額には金色の装飾のようなものが淡く光っている。
ティオロは息を呑む。
(な、何だよ……あいつ……)
少女は何も言わず、左手を男へ向けた。
「ひぃいい〜…」
情けない声を漏らした時には、もう遅い。
ズンッ!
見えない衝撃が最後の男を吹き飛ばし、路地の奥まで転がした。
男はそのまま動かなくなる。
静寂が落ちた。
三人の男は、誰ひとり起き上がらない。
その中心で、少女は長剣をすっと鞘へ戻した。
すると不思議なことに、あの長剣は吸い込まれるように縮み、再び元の短剣の姿へ戻っていく。
「……は?」
ティオロはただ呆然と、それを見つめるしかなかった。
少女はゆっくり顔を上げる。
そして壁の陰に隠れていたティオロの方へと視線を向けた。
「っ!?」
心臓が跳ねる。
気づかれていないと思っていたのに、最初から全部お見通しだったらしい。
少女は無言のまま歩き出す。
あとに残されたティオロは、しばらくその場から動けなかった。
「……何なんだよ、あいつは……」
胸の奥がざわつく。
怖い。なのに、目が離せない。
あんな奴は、今まで見たことがなかった。




