第6話 十四年前の返し
四月下旬の午後、第九分署の管制卓に、第四分署からの合同救助要請が届いた。
旧市街の路地に建つ、二階建ての作業場。一階から出火し、二階の奥に二人取り残されている。
消防はすでに到着していた。だが、出入口から黒煙が噴き出しており、隊員は建物の中へ入れずにいる。
レンは送られてきた現場画像を開いた。
窓の内側が赤く光っている。二階の外壁は煤で黒く汚れ、ひさしの端から細かな火の粉が落ちていた。
案件票には、合同出動するヒーローの名前が表示されている。
〈第四分署/タイド/Cランク/水圧操作〉
「水を動かせるなら、すぐ消せるんじゃないですか」
独り言を漏らし、固定カメラを切り替える。
路地の入口には消防車が止まり、隊員がホースを引いていた。建物の正面は炎と煙で見通せない。
裏手へ続く道は地図に載っているものの、途中から急に細くなっている。消防車はもちろん、普通の車も入れそうになかった。
画面の隅に、第四分署との共同回線が開いた。
『こちら第四分署、タイド。第九、聞こえる?』
若い女の声だった。
「第九分署、天城です。聞こえています。要救助者は二人。二階の奥という通報ですが、正確な位置はまだ確認できていません」
『了解。私が外から火を押さえる。中はグリットさんにお願いしていい?』
「待ってください。進入口は煙でふさがっています。階段も一段目が焼け落ちているそうです」
『だから、私が火を押さえるんだよ』
明るい声のまま、タイドが答えた。
『グリットさんなら、動けるところを探せると思う』
レンはガイの能力欄を開いた。
衝撃蓄積。
拳や体当たり、落下物の打撃。装甲の面で受けた衝撃なら、身体に溜めて別の動作へ回せる。
だが、熱は別だった。
炎の中で何かが落ちてくれば、その衝撃は使える。燃えている場所に立ち続けても、熱を消すことはできない。
「グリット、熱は溜まりません。タイドが火を下げるまで、突入は待ったほうが――」
『着いた』
九号車の位置表示が、作業場の前で止まった。
(最後まで聞けよ……)
レンは言い返すのをこらえ、消防から届いた追加情報を開いた。
「建物の裏に一階の窓があります。そこから入れるかは未確認です。正面の階段は使わないでください」
『裏を見る』
ガイの返事は短かった。
位置表示は建物の前からほとんど動かない。固定カメラを切り替えても、裏通路を映すものはなかった。
(また、画面のないところか)
レンは消防隊へ裏手の確認を依頼した。少なくとも、出口になる場所だけは確保しておきたい。
共同回線に、水の噴き出す音が混じり始めた。
作業場の前で九号車を降りたガイは、路地に伸びた消防ホースをまたいだ。
青い外装の女が、消火栓につながるホースを持っている。背中には大きな貯水タンク。水を送り出すたび、その接続部が小さく震えていた。
第四分署のタイド――早瀬ミサキだ。
「グリットさん。中に二人いる。消防の人が裏まで回ってるけど、まだ届いてないんだ」
「おう」
「私が火を押さえるから、奥まで行けるか確かめて。戻る道も空けておく」
タイドがホースを持ち上げた。
噴き出した水が途中で向きを変え、窓から吹き出す炎を押し戻す。水流は壁に沿って広がり、出入口の周囲から火が引いていった。
水の勢いが弱まると、タイドは背中のタンクへ手をやり、再び圧力を上げた。
「長くは持たないよ。急いで」
「おう」
ガイは建物の角を曲がり、裏通路へ走った。
一階の裏窓には、焼けた木枠が残っていた。窓の向こうは暗く、煙がゆっくり渦を巻いている。
ガイは木枠の隙間に指を入れ、外装の肩を押し当てた。
乾いた音とともに木が割れた。
開いた場所から煙があふれ出す。ガイは顔を低くし、割れた枠を乗り越えた。
熱が首の後ろへ回った。
外装の内側に汗が流れる。右肩の奥には、前から残る鈍い痛みがあった。
長居はできない。
階段の下には焼け落ちた板が積もっていた。一段目はなくなり、二段目も半分が黒く変色している。
踏める場所を確かめ、壁際に残った横木へ足を掛けた。
体重を移すと、木が軋んだ。
ガイは手すりには触れず、壁を支えに二階へ上がる。
『グリット、消防隊が二階東側の窓から人影を確認しました。大人が二人です。窓の位置からすると、奥の部屋にいる可能性があります』
レンの声が耳元へ届いた。
「おう」
二階の廊下には、煙が薄く広がっていた。右の奥に扉が一枚開いている。
「おい。聞こえるか」
「ここだ! こっちにいる!」
男の声が返った。
ガイは扉をくぐった。
作業机の下に、男が二人いた。
一人は床に座り込み、もう一人がその身体を支えている。倒れた棚の脚が、座っている男の足首を押さえていた。
「歩けるか」
「俺は大丈夫だ。でも、こいつの足が抜けない!」
立てるほうの男が答えた。
ガイは棚の横へ回る。工具や部品の入った引き出しが残っており、持ち上げようとすると床を引きずった。
上には、金属製の工具箱が載っている。
ガイが棚に手を掛けた瞬間、工具箱が滑り落ちた。
左肩を差し出す。
鈍い衝撃が装甲の奥へ沈んだ。工具箱は肩から床へ転がり、蓋が開いて中の工具が散らばった。
打撃は溜まった。
ただ、熱い空気まで軽くなったわけではない。
ガイは息を整え、もう一度棚へ手を掛けた。
溜めた衝撃を腕へ回す。押し上げた棚の脚が、わずかに床から離れた。
「いま抜け」
「分かった!」
動ける男が、相手の足首を引いた。
靴が木材に引っかかる。ガイは持ち上げる位置を変え、さらに棚を浮かせた。
「もう一回だ」
今度は足が抜けた。
ガイは棚を横へ下ろす。床に重い音が響き、天井から細かな灰が落ちてきた。
「立てるか」
助け出された男が、片足を床へついた。
「……駄目だ。力が入らない」
「背負うぞ」
ガイはしゃがみ、男の腕を自分の肩へ回した。
もう一人には外装の腰をつかませる。
「離すなよ」
「ああ。絶対、離さない」
廊下へ出たところで、頭上から乾いた音がした。
天井の板が一枚、外れかけている。
ガイが足を速めるより先に、それが落ちてきた。
肩を入れて受ける。
平らな面が装甲に当たり、衝撃が身体へ沈んだ。板は肩の上で折れ、片側が廊下へ落ちる。
もう片方の端が、左腕をこすった。
外装の継ぎ目に熱い痛みが走る。
そこは溜まらない。
「大丈夫か!」
腰をつかんだ男が叫んだ。
「歩け」
ガイは答え、前へ進む。
階段のほうが明るくなっていた。下から炎が上がり、壁に赤い光が揺れている。
無線の向こうで、タイドの声が重なった。
『グリットさん、階段側の火が強くなってる。いま下げるから!』
続いて、水が激しく壁を叩く音がした。
階段の下へ水が流れ込み、炎が低くなる。
ガイは残った段を一つずつ確かめた。背負った男の足が壁に当たらないよう、身体を斜めにして下りる。
後ろの男が何度も咳をした。
「あと、どれくらいだ……」
「もう少しだ」
一階へ下りると、裏窓から外の光が見えた。
しかし、窓の横の柱には火が回っていた。外から入ったときより、逃げ道が狭くなっている。
『グリット、裏窓の下に消防隊員がいます。二人とも、そこで引き渡せます!』
レンの声が届く。
「おう」
窓の外から、タイドが叫んだ。
「グリットさん! その柱、いま押さえる! 一人ずつ出して!」
建物の角を回り込んだ水流が、燃えかけた柱を叩いた。
火の勢いが下がる。
ガイは背中の男を窓際へ下ろし、両腕で持ち上げた。
「受け取ってくれ」
「はい!」
外の消防隊員が腕を伸ばす。
二人がかりで男を受け止め、地面へ下ろした。
「次、行くぞ」
残った男を窓際へ寄せる。
だが、男は枠に手を掛けたまま動かなくなった。
「……高いな」
窓の下には消防隊員がいる。地面まで大した高さはない。それでも、煙に咳き込みながら窓枠を見下ろす男の足は動かなかった。
「足からだ。下に人がいる」
「分かってる。分かってるんだけど……」
ガイは男の腰を支えた。
「俺が持ってる」
男が顔を上げる。
「手は離さねえ。足、出せ」
しばらくして、男の片足が窓枠を越えた。
ガイは身体を支えたまま、ゆっくり外へ押し出した。待っていた消防隊員が腕を取り、もう一方の足も引き出す。
地面へ下りた男が、何度も頭を下げていた。
これで二人。
ガイは最後に窓枠へ手を掛けた。
そのとき、背後で階段が崩れる音がした。
床が一段沈む。
右足の下にあった板が割れ、靴底が木材の間へ落ちた。
引き抜こうとする。だが、割れた板が足首を挟み、動かない。
背中から熱気が迫った。
ガイは窓枠をつかみ、残っていた衝撃を脚へ回した。
右足に力を込める。
木材が割れ、靴が抜けた。
その勢いのまま身体を窓の外へ押し出す。
着地で左膝が折れた。
片手を地面につき、倒れるのをこらえる。息を吸うと、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「グリットさん!」
タイドの声が近づいた。
水流が窓の横へ向きを変え、残った炎を押し戻す。
消防隊員がガイのそばにしゃがんだ。
「立てますか! 救急隊を呼びます!」
「おう」
ガイは膝に手を置き、立ち上がろうとした。
一度、足が止まる。
左肩も右肩も重い。右足の靴底には、割れた木材を踏み抜いた感触が残っていた。
ガイは壁に手を添え、もう一度立ち上がる。
「……歩ける」
消防隊員はそれでもすぐには離れなかった。
タイドがガイの足元を見た。
何か言いかけたようだったが、やめた。
「グリットさん。そこ、まだ危ないから。少し離れてて」
「おう」
ガイが歩き出すのを見届け、タイドは火の残る窓へ向き直った。
水の音が再び大きくなった。
夕方、第九分署の管制室で、レンは現場の固定カメラを見ていた。
消防隊が路地の規制を少しずつ解いている。救助された二人を乗せた救急車は、すでに出発していた。
映像の端に、九号車が映っている。
そのそばで、ガイが外装の手袋についた煤を払っていた。
少し離れた場所では、タイドが背中の貯水タンクから水を抜き、接続口を閉めている。
共同回線は、まだ開いたままだった。
『グリットさん、今日も無茶するね』
タイドの声が入った。
『そうか』
『そうだよ。片方を背負って、もう片方まで連れて出たんでしょ』
『歩けたからな』
『自分は歩けなくなりかけてたくせに』
ガイは答えなかった。
画面の中で、タイドが一度だけ彼の足元へ目を向ける。
ガイは手袋をこすり合わせ、九号車の鍵を取り出していた。
『水、助かった』
『そりゃどうも』
タイドが短く笑う。
近くでは、消防隊員がホースを巻いていた。金属の接続具がぶつかる音が、共同回線にも小さく入っている。
しばらくして、タイドが言った。
『前は、返しがあったのにね』
ガイの手が止まった。
レンも、報告書へ移しかけた指を止める。
(返し?)
『十四年前。私の最初の現場で、一度だけ見たんだ』
タイドの声は、さっきまでより少し静かだった。
『あれはすごかったよ。受けたと思ったら、もう相手が倒れてた』
『そうか』
『……覚えてないでしょ』
『悪いな』
『ほらね』
タイドは笑った。
だが、そのあとすぐに言葉を続けることはなかった。
画面の中で、彼女はガイの肩へ目を向け、何も言わずに外した。
近くの消防隊員が手を上げる。
『じゃ、またね。グリットさん』
『おう』
タイドは片手を上げ、消防隊員のほうへ歩いていった。
ガイは九号車に鍵を差した。
回したあと、エンジンが掛かるまで少し間があった。
レンは共同回線の録音を保存した。
夜の第九分署で、レンは火災救助の報告書を開いていた。
救助、二人。
査定、十点。
年度の累計見込みは三十九点になった。
火を押さえた分は第四分署の記録に入っている。ガイが二人を運び出したことは確かだが、建物の被害まで抑止した扱いにはならなかった。
「……二人で十点か」
レンは計算欄を閉じ、共同回線の録音を呼び出した。
『前は、返しがあったのにね』
タイドの声が流れる。
レンは再生を止めた。
「返し、ね……」
先日調べた、ガイの古い出動記録が頭に浮かぶ。
避けられる拳を、わざわざ受ける。
溜めた衝撃を、別の動作へ回して使う。
現在の記録では、それしか分からなかった。
だが、五年より前の報告書には、今は使われていない項目がある。
レンは検索画面を開き、前回見つけた記録を呼び出した。
〈反射放出 効率:計測不能〉
「これか?」
説明はない。
当時の報告書に映像が付いているわけでもなく、何を測って計測不能としたのかさえ書かれていなかった。
レンは「反射放出」の横に、タイドが口にした言葉をメモした。
〈返し〉
同じものを指しているのかは、まだ分からない。
ただ、タイドは実際に見たと言っていた。
十四年前。
ガイが二十四歳だった頃だ。
登録情報を開き直す。
〈登録必殺技:インパクト〉
〈最終使用:八年前〉
技の名前だけが残り、詳しい説明はない。
十四年前には使えていたという「返し」と、八年前を最後に使われていない「インパクト」。
二つがどう関係しているのか、今の資料だけでは判断できなかった。
「技名だけ残されてもなあ……」
レンは検索期間を広げた。
十四年前。タイドが初めて現場へ出た年だ。
登録名を二つ入力する。
グリット。
タイド。
検索を実行すると、古い形式の案件番号が一件だけ表示された。
「あるじゃん」
レンは椅子を引き寄せ、画面に顔を近づけた。
日付は十四年前。
出動したヒーローの欄には、確かに二つの登録名が並んでいる。
レンは案件番号を押した。
画面が切り替わる。
〈閲覧権限がありません〉
「……は?」
もう一度押す。
結果は同じだった。
閲覧できるのは案件番号と出動日、登録名まで。現場の詳細も、使用能力の記録も開けない。
(自分の担当の昔の記録まで見られないのかよ)
レンは管理番号を写し、閲覧申請の画面へ進んだ。
古い資料なら、担当分署に申請すれば済むはずだ。
ところが、表示された申請先は第九分署ではなかった。
第四分署でもない。
レンは管理情報を下へ送った。
所管の欄に、見慣れない部署名が表示されている。
十四年前の記録の所管は、本部の研究部門だった。




