第5話 通りの真ん中
木造アパートの二階から、割れた窓ガラスが歩道へ落ちた。
第九分署の管制室で、レンは通報画像を拡大した。旧市街の二階建てアパート。外壁はところどころ剥がれ、共用階段の手すりには洗濯物が掛かっている。
案件票には〈五級/腕力強化〉と表示されていた。
立ち退きを求められた男が、一階の共用廊下で壁や柱を殴り、住民を脅しているという。
「退去するなら一人でしてくださいよ……」
レンは固定カメラを切り替えた。
アパートの正面は映っている。だが、建物の脇にある階段は、壁の陰に隠れて見えない。
二階の窓から住民が顔を出し、何かを叫んだ。直後に窓が閉まる。
警察から入居状況が送られてきた。
〈入居:六世帯〉
〈避難確認:なし〉
(先に男を捕まえれば済む話だろ)
レンは案件を受諾した。
最初に選んだのは捕縛網だった。男を動けなくすれば、住民も逃げられる。
ところが、着弾地点を指定しようとして手が止まった。
男が暴れているのは建物の入口付近だ。そこへ網を落とすと、逃げてきた住民まで巻き込むおそれがある。
「……邪魔だな、この位置」
レンは建物の周囲を拡大した。
脇に細い路地がある。共用階段を下りたところから、そのまま裏通りへ抜けられる構造だった。
ただし、階段の下は男が暴れている前庭とつながっている。
住民が下りてくれば、男から丸見えだ。
『こちらグリット。出るぞ』
ガイから無線が入った。
外装の接続表示が点灯し、生体情報が流れ始める。車庫の外へ九号車の位置表示が動いた。
「グリット、五級の腕力強化です。建物内に六世帯残っています。まず避難路を確保したいんですけど」
『おう』
「正面からは出せません。脇の階段を使えば路地へ抜けられます。でも男から見えるんですよね、あそこ」
レンは地図上の階段と前庭を交互に見た。
前庭から階段の下を隠せればいい。
階段を下りた住民が、路地へ進むための幅は残す。
レンは捕縛網の選択を解除し、遮断板へ切り替えた。
「……これか」
折り畳み式の板を立て、視線と通路を分ける。
建物側をふさがず、前庭側から階段の出口が見えない角度にすれば、避難路を作れるはずだ。
レンは着地点を設定した。
分署から約一キロ。着弾まで六秒。
警察の連絡欄に路地側への誘導を依頼し、カメラを切り替える。
九号車の位置表示がアパートの手前で止まった。
「グリット、遮断板を使います。階段の下を隠すので、その間、男を近づけないでください」
『おう』
レンは路地の入口を拡大し、射出位置を確定した。
「遮断板、射出」
残弾表示が三から二へ変わった。
アパートの前で九号車を降りたガイは、二階から子どもの泣き声を聞いた。
男は一階の柱を殴っていた。
上着の袖が盛り上がった腕に引っ張られ、縫い目が裂けている。拳が当たるたび、古い木材が乾いた音を立てた。
「出てけってんなら、この建物ごと壊してやる!」
柱には深い割れ目が走っていた。
もう何発も耐えられる状態ではない。
「おい」
ガイが声を掛けた。
男は拳を止め、振り返った。
「何だよ。古いヒーローか? 関係ねえ奴は帰れ!」
ガイは答えず、二階を見上げた。
廊下の端で女が子どもの手を握っている。階段へ向かおうとしているが、男が真下にいるせいで動けないらしい。
頭上を短い音が通過した。
六秒後、階段の下に遮断板が落ちる。
折り畳まれていた板が開き、前庭と階段の間に立ち上がった。路地へ抜ける側には、人が通れる幅が残っている。
『グリット、設置完了です。警察には路地の出口で住民を受けてもらいます。避難確認が終わるまで、男を階段へ近づけないでください』
「分かった」
ガイは男と階段の間へ入った。
二階で足音がする。女が子どもを連れ、階段を下り始めたようだ。
「俺を無視すんな!」
男が拳を振り上げた。
面の打撃なら溜まる。
だが、柱のそばで受ければ、押された身体が建物へぶつかる。いま崩されたら、上にいる住民が逃げられない。
ガイは柱から少し離れ、左肩を前に出した。
男が踏み込んでくる。
ところが拳はガイへ向かわず、横の柱へ振り下ろされた。
ガイは腕を伸ばし、男の肘を外側へ押した。
拳が柱を外れ、外壁を削る。
木片が足元に散った。
「邪魔すんな!」
男が空いた手でガイを押しのけようとする。
ガイは一歩下がった。
ここでは近すぎる。
背後の柱と、階段の下り口を確かめる。
『一階の二世帯が路地へ出ました。残り四世帯。警察が確認しています』
レンの声が届いた。
ガイは男の正面に立ち、さらに一歩下がった。
男の拳が届きそうで届かない距離を保つ。
「おい、逃げんのか!」
「こっちだ」
男が追ってきた。
ガイは前庭を離れ、道路へ下がった。男も勢いよく出てくる。
もう建物の柱には手が届かない。
ガイは道路の中央で足を止めた。
両脇の建物まで距離がある。近くに窓も柱もない。
警官が歩行者を反対側へ下げ、車の進入を止めている。
「さっきから逃げてばっかじゃねえか!」
男が拳を振った。
ガイは首をずらして避けた。
二発目が肩口を掠める。腕が伸びきったところで、男の足が一歩前へ出た。
力任せに踏み込む癖がある。
拳の勢いは強いが、途中では止まれない。
『三世帯目、避難確認。残り三世帯です。階段の下に警官が入れました』
男がアパートへ戻ろうとした。
ガイはその前へ回る。
「どけよ!」
「まだだ」
男は大きく腕を振り上げた。
ガイが横へ動くと、男も向きを変える。身体が道路の端へ寄りかけた。
ガイは一歩踏み直し、男を中央へ戻した。
背後のアパートから、足音が続いている。
男の肩が上がる。
今度は正面から拳が来る。
『グリット、その拳は……』
レンの声が途中で止まった。
ガイは左肩を前へ出した。
拳が肩当てに当たる。
重い衝撃が装甲の奥へ沈み、踏ん張った左足が路面を滑った。
肩の内側に痛みが走る。
男の勢いは止まった。だが、ガイの身体もすぐには戻らない。
息を吐き、足を開き直す。
「何だよ、当たるじゃねえか!」
男が拳を引いた。
ガイは左肩を下げたまま、相手の足元を見る。
腕力は強い。
しかし、踏み込んだあとに重心を戻すのが遅い。
『残り二世帯。……あと一世帯です。確認を待ってください』
男が再び殴りかかった。
ガイは腕の外へ回り込む。拳が空を切り、男の上体が前へ流れた。
もう一度、男が踏み直す。
ガイは間合いを詰めすぎず、相手の正面に残った。
『全世帯、避難確認できました。六世帯とも路地側から出ています』
無線が入った。
ガイは左足へ重心を移す。
男が最後の拳を振り下ろした。
横へ外れ、腕の付け根を押さえる。
踏み込んだ男の肩が前へ流れる。ガイは溜めた衝撃を脚へ回し、相手の重心が崩れる方向へ足を入れた。
男の身体が道路へ倒れる。
ガイは背中を押さえ、起き上がろうとする腕を地面へ付けた。
「放せって!」
「動くな」
腰のホルダーから拘束帯を抜く。
男の手首をまとめ、帯を締めた。
男は二度身体をひねったが、逃げられなかった。
駆け寄った警官に腕を引き継ぐ。
「グリットさん、確保しました!」
「おう」
ガイは立ち上がった。
左肩を動かすと、受けた場所が熱を持っている。腕は上がるが、肩当ての内側が擦れていた。
警官が男を連れていく。
もう一人の警官は、道路の中央に残った靴跡を見ていた。
「わざと真ん中へ誘ってる。周りに何もないところへ」
「建物の前で押さえたほうが早かったんじゃないか?」
「早くても、そこじゃ壁を壊される」
警官がアパートを見た。
柱には古い割れ目が残っている。だが、男が道路へ出てからは、建物への打撃が一発も加わっていない。
別の警官が、捕まえた男を車へ乗せながら声を落とした。
「そういや、夜の倉庫街にまた出たらしいぞ。無認可の男」
「またか。今度は誰だよ」
「さあな。詳しい話はまだ来てない」
その会話を聞きながら、ガイはアパートへ目を向けた。
遮断板の向こうで、女が子どもを抱いていた。
子どもは靴を片方なくしたらしい。女が自分の上着を脱ぎ、その足へ巻き付けている。
ガイは二人が路地の出口へ歩き始めたのを見届け、九号車へ戻った。
帰署後、レンはガイの外装からボディカメラを取り外した。
「今日は途中で止まってませんよね」
「触ってねえ」
「分かりました。記録を確認します」
ガイが外装を収納するのを待ち、レンは管制室へ戻った。
映像を取り込むと、拳の当たる音だけでなく、警官たちの会話も録音されていた。
レンは画面を止めた。
ガイが道路の中央に立ったところだ。
固定カメラの画像と重ねると、建物の位置関係がよく分かった。
アパートからは離れている。
男がどれだけ腕を振り回しても、近くに壊せる柱や窓がない。
「……確かに、真ん中ですけど」
レンは警官の発言を聞き直した。
『わざと真ん中へ誘ってる。周りに何もないところへ』
その言葉をメモへ移した。
〈周囲に物がない位置へ誘導〉
続けて、別の行を作る。
〈夜間の倉庫街・無認可の男〉
名前も等級も分からない。警官の立ち話だけなので、確認済みの情報としては扱えなかった。
レンは録画に戻った。
ガイが左肩で拳を受ける直前まで巻き戻す。
男の腕が上がった時点で、避ける方向は残っていた。
(またかよ)
前の案件と同じだった。
避けられそうな拳を、ガイは受けている。
レンは無線の記録を開いた。
自分は「その拳は」と言いかけたところで黙っていた。言い終える前に、ガイが肩を前へ出したからだ。
そのまま「受けるな」と言うつもりだった。
結局、口には出さなかった。
映像を再生すると、ガイは拳を受けたあと、道路の中央から動いていない。
相手を倒すまで、建物には近づかなかった。
「……場所はいいんだよな」
レンは映像を止めた。
遮断板も役に立った。
一発使うだけで、住民の通り道を確保できた。初任務で網を外したときとは違う。
それでも、ガイがわざわざ攻撃を受ける理由は分からない。
レンは報告書を開いた。
〈五級ヴィラン確保:十点〉
〈被害抑止:二点〉
年度累計の見込みは二十九点になった。
「……まだ全然足りないんですけど」
更新審査の基準は一千点。
残り九百七十一点。
レンは画面の数字を見てから、抑止加算の欄を開いた。
避難確認、六世帯。
直接の救助には計上されないが、建物への追加被害は防げた。警察からの避難完了報告も添付されている。
レンは申請内容を確認し、所長室へ向かった。
「確認お願いします。五級を一人確保。六世帯の避難も終わってます。抑止加算、二点で出してますけど」
所長は書類に目を走らせた。
「六世帯、全員出たんだねえ」
「ええ。板一枚で通しました。こういうの、住民の人数で加点されたりしないんですか」
「今回は避難誘導だね。直接の救助点とは別だよ」
「……一発で六世帯ですよ」
「一発が働いたんだろう」
所長は判を押した。
レンは書類を受け取り、管制室へ戻った。
机には、前の案件から調べ続けているガイの記録が残っている。
三発避けて四発目だけ受けた映像。
過去四十件の被弾記録。
今回も、そこへ一件追加することになる。
レンは新しい打撲の記録を開いた。
左肩に打撃を受けたという記載がある。損傷の程度は軽いが、外装の下にも腫れが残っていた。
その下に、以前の打撲の記録が並んでいる。
レンは処置日と回復日を見比べた。
「……あれ?」
ひとつ前の打撲が、もう治っている。
もっと古い記録を開いた。
同じ程度の打撲でも、治療が終わるまでの日数が妙に短い。
レンは比較用の標準表を呼び出した。
打撲の程度が近いものを選び、回復までの日数を比べる。
もう一件。
さらに一件。
数字がほとんど同じ傾向を示していた。
ガイの回復にかかる日数は、一般的な目安の約三分の一しかない。
(治るのが、三倍速い?)
レンは画面を拡大した。
能力の欄には衝撃蓄積とある。だが、回復についての説明はない。
本人が特別な処置を申告した記録も見当たらなかった。
前は、打撃を受けるのが下手だから傷が多いのだと思っていた。
その一方で、傷の治りだけは異様に早い。
レンは椅子にもたれ、空になった紙コップを指で押した。
所長に聞こうかと思ったが、席を立つのをやめた。
ガイに尋ねても、また短い返事が返ってくるだけだろう。
今のところ、数字のほうが確かだった。
机の端には、今日の報酬見込みを記した紙が置いてある。
レンはそれを引き寄せた。
確保一件。
被害抑止一件。
そこへ目を落としたまま、ふと、ガイの声を思い返す。
初めて握手したときも。
商店街で崩れた屋根を背負ったときも。
今日、道路の真ん中で拳を受けたときも。
レンは、あれだけ打撃を受けてきたガイの口から、一度も「痛い」という言葉を聞いていなかった。
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