第33話 半分ずつの管制
十一月上旬の朝、第九分署の管制室にチカが現れたとき、レンの机には椅子が一つしかなかった。
「……何でいるんですか」
「臨時の応援。所長さんから聞いてない?」
チカは薄い書類入れを机に置いた。黒髪をまとめた赤いヘアゴムが、うなじで揺れる。
「聞いてませんけど。そもそも芦原はハウンドの担当でしょう。あっちの管制はどうするんですか」
「降りたよ」
レンは端末から顔を上げた。
「……は?」
「担当を降りたの。昨日付けで」
「いや、だから理由を聞いてるんですけど。ハウンドって今月もランキング上位ですよね。スポンサーも増えてたし、担当指揮者なら加算も相当あるでしょう。普通は辞めないですよ」
「合わなかった」
「それだけ?」
「うん」
チカは空いている机を見た。
「私、どこに座ればいい?」
「……知りませんよ」
管制室の扉が開いた。
所長の沢渡が、折りたたみ椅子を抱えて立っている。
「まあまあ。今日は借りるだけだからねえ」
「所長。どういうことですか」
「本部から四級の案件が来てね。チカくんに共同管制をお願いしたんだよ」
沢渡は椅子を広げた。片方の脚が少し曲がっている。
チカが座ると、床がぎしりと鳴った。
「……これ、大丈夫?」
「俺がずっと使ってた椅子ですよ」
「天城くんが?」
「そうですけど」
「じゃあ大丈夫か」
「何を基準に判断したんですか」
沢渡が机へ案件票を置いた。
旧市街の西側にある外壁補修現場。四級の能力者が作業員と揉め、足場の一部を壊している。
現場までは一・五キロ。
レンは受諾欄を開いた。
「ガイさんは出られます。でも、こっちの管制卓は一人用ですよ。映像は四面しかありませんし、俺が撃てるのも三発だけです」
「だから半分ずつ」
チカが案件票を引き寄せた。
「通報と消防、警察との調整は私。天城くんはグリットさんの交戦を見て。私は分署の公用車を借りて、車載射出機を使うね」
「……それ、役割が偏ってません?」
「どこが?」
「俺が交戦を全部見るなら、射出もまとめたほうが速いでしょう。芦原の車の位置まで計算するのは余計な手間ですし」
「私の車なら二、三秒で届くよ」
「こっちの屋上は九秒です。別々に撃ったら、着弾の順番が狂います」
「じゃあ、合わせよう」
レンは口を閉じた。
チカは案件票を置き、立ち上がった。
「先に現場へ行く。着いたら映像を送るね」
「待ってください。まだ受諾を――」
端末が鳴った。
共同案件の受諾確認だった。沢渡の承認印が付いている。
「……仕事が速いですね、所長」
「ホースは二本あったほうがいいからねえ」
レンは受諾を押した。
車庫では、ガイがすでに外装を展開していた。
紺の装甲が身体を覆い、胸には三つの砂粒の紋章がある。肩当ては以前と同じ形だった。
九号車にまたがったところで、無線が入る。
『グリット、相手は四級。両腕の硬質化です。現場の足場を壊しています。作業員はまだ全員出ていません』
「おう」
『今回は芦原と共同管制です。俺は相手の動きと、交戦に必要な情報を伝えます』
『グリットさん、よろしく』
別の声が入った。
「よろしくな」
ガイは九号車を発進させた。
昼前の道路には配送車が多かった。
旧市街の西へ向かうと、建物の間に工事用の足場が見えてきた。二階の高さまで鋼管が組まれ、外側には養生シートが張ってある。
道路側の一部が破れ、歩道には工具箱が散らばっていた。
ガイは九号車を止めて降りた。
足場の下に男がいる。
両腕は手首から肘まで黒く硬化していた。男は工具も使わず、拳で支柱を殴っている。
「金を払えって言ってんだろ!」
拳が支柱を打った。
固定金具が外れ、上の足場板が傾く。
ガイは顔を上げた。
二階の作業床に人がいる。作業員が一人、手すりに掴まっていた。降りるためのはしごは途中で曲がっている。
男が振り返った。
「何だよ。ヒーローまで呼んだのか!」
「やめとけ」
「うるせえ!」
男が突っ込んできた。
右の拳が胸へ向かう。
ガイは肩を前へ出した。
硬い拳が肩当てを打つ。幅のある衝撃が外装を通り、重さとなって身体へ沈んだ。
溜まる。
ガイは半歩下がった。
続けて左拳が来る。
今度は腕で受けた。骨の奥へ鈍い重さが残る。
相手の能力は両腕だけ。拳は硬いが、先が尖っているわけではない。面で受ければ溜められる。
男が三発目を振り上げた。
ガイは横へ避けた。
拳が背後の支柱へ当たり、金属が大きく鳴った。
頭上で足場板が揺れる。
『グリット、二階に作業員一人。はしごは使えません。消防が建物の裏から救助に向かっています』
レンの声だった。
『足場の下部が道路側へ傾いています。今の支柱をもう一度打たれると、上まで動く可能性があります』
ガイは男と足場の間へ入った。
男が顔を歪める。
「どけよ!」
拳が来た。
ガイは肩で受ける。
重さが増したが、足は動かなかった。
この位置に立っていれば、男の拳は支柱へ届かない。
もう一発。
今度は腕で受けた。
男がいら立ったように後ろへ下がる。その背後には道路があった。
『道路側の避難は完了しています。西側の建物裏には消防員が二人。救助経路を確認中です』
チカの声が入る。
ガイは身体の向きを変えた。
足場から男を離す。
男がついてくる。
拳を受けながら、道路の中央へ少しずつ下がった。
溜めた力は十分にある。だが、ここで強く打ち返せば、男を足場へ押し戻しかねない。
背後の空間を確かめる。
男がまた踏み込んだ。
ガイは溜めた力を少しだけ脚へ回し、一歩で距離を詰めた。
胸へ体当たりを入れる。
男が道路へ転がった。
追いかけようとしたとき、頭上で金属が折れる音がした。
二階の手すりが外れた。
作業員が身を低くする。踏んでいる板まで傾き、両手で足場の鋼管を抱えた。
『作業床の固定が外れました!』
レンの声が強くなる。
『道路側の支柱がずれています。遮断板を置けば、下部が滑り出すのは抑えられます』
ガイは足場を見た。
道路側の鋼管が歩道へ滑り始めている。このまま倒れれば、規制線の外まで部材が飛ぶ。
遮断板で全体を支えることはできない。
それでも、下部を引っかければ倒れる向きは変えられる。
『グリット、道路側に遮断板を射出します。そこから離れてください』
ガイは道路へ転がった男を見た。
男はもう立ち上がろうとしている。
そのとき、合同回線にチカの声が入った。
『それ、誰が受けるの?』
レンの返事が止まった。
ガイは二階を見上げた。
作業員が立っている床は、西側へも傾いている。
下の支柱を止めたとしても、あの人が立っていられるとは限らない。
『道路側は遮断板でいい。でも、二階の人が落ちたら?』
チカの声が続いた。
ガイには両方できない。
男を足場から遠ざけることと、上から落ちてくる人を受けること。
どちらかを選べば、もう片方が残る。
『……西側に空気台ですね』
レンが答えた。
『うん。消防に場所を空けてもらってる。こっちで撃てるよ』
少しの間があった。
『グリット、遮断板は予定どおり道路側へ置きます。作業員の落下には芦原が備えます』
「分かった」
『二つとも、同じ時刻に着弾させます』
ガイは男へ向き直った。
道路へ出てきた男が拳を振り上げる。
逃げ道を空ければ、また足場へ戻る。
ガイは道路と足場の間に立った。
『遮断板、射出。道路側、着弾まで九秒』
レンの声と同時に、頭上から射出音がした。
九秒。
男が右拳を出した。
ガイは腕で受け、身体を道路側へずらす。
男の視線がガイを追った。
その後ろで、足場の支柱がさらに傾く。
ガイは踏みとどまった。
男が左拳を振る。
今度は身体をひねって避けた。拳は空を切り、男が一歩前へ出る。
足場から離れた。
『空気台、射出。西側、着弾まで三秒』
チカの声が入った。
ガイは上を見た。
二階の作業床が折れた。
作業員の足が床から離れる。
ガイは一歩踏み出しかけた。
だが、道路側にはまだ男がいる。
ここを離れれば、男はもう一度支柱へ向かえる。
ガイは拳を握れない右手を開き、男の前に立ち続けた。
三秒後。
道路側と建物の西側で、ほぼ同時に着弾音がした。
遮断板が立ち上がる。
道路へ滑ってきた足場の下部が板に当たり、支柱を大きく軋ませた。
板は曲がった。
それでも固定具は外れず、足場が通りへ滑り出す動きが止まる。
西側では空気台が膨らんでいた。
落ちた作業員が、その白い受け面へ背中から着地する。
一度身体が沈み、ゆっくりと戻った。
消防員が駆け寄った。
『落下者一名、空気台で受け止めました。意識あり。これから安全な場所へ移します』
チカの声が届いた。
ガイは作業員が消防員の手を取るのを確かめた。
目の前で男が叫んだ。
「よそ見してんじゃねえ!」
黒く硬化した拳が向かってくる。
ガイは避けなかった。
胸の前で両腕を重ねる。
面の打撃が入った。
また重さが溜まる。
肩の奥に熱が戻り始めていた。これ以上、受け続ける必要はない。
ガイは男の足元を見た。
道路には逃げ込める路地がない。
次の拳を左へ受け流す。
男の身体が横を向いた。
ガイは一歩踏み込み、その脇腹へ体当たりを入れた。
溜めた力が胸から抜ける。
男は道路へ転がった。
起き上がろうとしたところで、ガイは男の脚を拘束帯でまとめた。
硬質化しているのは両腕だけだ。
脚を引こうとした男は、身体を起こせなかった。
『グリット、警察が到着します』
「ここにいる」
ガイは警官が抑制錠を掛けるまで男を押さえていた。
道路の向こうでは、消防員が空気台から作業員を降ろしている。
作業員は支えられながらも自分の足で立った。
ガイはその姿を見てから、曲がった遮断板へ目を移した。
片側の支柱が大きくゆがんでいる。
足場は完全に安全になったわけではない。消防員が周囲を立ち入り禁止にし、補強の手配を始めていた。
ガイは現場を引き継ぎ、九号車へ戻った。
同じころ、第九分署の管制室で、レンは二つの射出記録を並べていた。
自分の屋上射出機から遮断板一発。
距離一・五キロ。着弾まで九秒。
チカの公用車は現場から約二百メートル離れた場所に停車していた。
車載射出機から空気台一発。
着弾まで三秒。
射出時刻は六秒違う。
着弾時刻は同じだった。
「……本当に合わせられましたね」
レンは二つの記録を拡大した。
自分が先に撃った。
チカは六秒待ってから撃った。
その間、チカは消防への連絡も続けている。
『天城くん、消防から報告。作業員は全員無事。救急搬送の必要はないって』
「了解です。確保の報告書はこっちで書きます。消防の確認票はあとで送ってください」
『分かった』
「あと、空気台の位置なんですけど。俺の画面では西側に資材が積まれてたんですよ。あそこに撃って大丈夫だったんですか」
『消防員に動かしてもらったよ』
レンは手を止めた。
「……いつ?」
『天城くんが遮断板の位置を決めてる間』
レンは西側の固定カメラを開いた。
確かに資材が移動している。
現場へ着いた消防員が木箱をどかし、空気台の置ける場所を作っていた。レンが足場の傾きを計算していた時間だ。
自分が一発の位置を決める間に、チカは人を動かしていた。
あの作業員が落ちたとき、空気台の下には何もなかった。
(……一人じゃ間に合わなかったな)
レンは椅子の背へ身体を預けた。
空いている隣の席を見た。
折りたたみ椅子は、そのまま置かれている。
夕方、共同案件の撤収手続きでチカが戻ってきた。
公用車の鍵を置き、消防の確認票を机へ広げる。
「確保は第九分署の担当で報告したよ。作業員の救助は消防の記録に入ってる。査定の内訳は本部で確認してね」
「四級確保で四十点。今の累計に足せば四百八十点です。正式な反映は来月でしょうけど」
レンは案件票を閉じた。
「……いや、数字より連携の話です。次からは先に射出先と弾数を分けたほうがいいですね。こっちが何を撃つか、そっちが何を撃つか。それと、着弾時刻」
「そうだね」
「今回みたいに九秒と三秒なら、六秒ずらして撃てばいい。でも現場の状況が変われば、その六秒も使えなくなります。途中でどちらかが射出先を変えたら、もう同時には届きません」
「うん。だから先に決めよう」
チカは確認票の端を押さえた。
「私は人の位置を確かめる。天城くんは、グリットさんが動ける場所を考えて」
レンは次の言葉を探した。
向こうの仕事に細かく口を出すつもりだった。
だが、何を分ければいいのかは、もう決まっている。
チカは書類をまとめ、署名欄に記入した。
「じゃあ、私はこれで」
「……チカ」
チカが顔を上げた。
レンは一瞬だけ口を閉じた。
「その確認票、コピーをこっちにもください。消防の時刻がないと、俺の射出記録だけじゃ説明がつかないので」
「了解」
チカはコピーを取り、レンの机へ置いた。
呼び方については何も言わなかった。
レンは紙を受け取る。
「……芦原は長いんですよ」
「何が?」
「呼び方です。別に意味はないですけど」
「そう」
チカは書類入れを閉じた。
立ち上がったとき、赤いヘアゴムがうなじで揺れた。
レンの目が一瞬だけそちらへ向いた。
すぐに確認票へ視線を戻す。
チカは公用車の鍵を取り、管制室を出ていった。
その夜、レンは報告書を提出したあと、休憩室でハウンドの配信を開いた。
白と金の外装が、新市街の建物の上に立っている。画面の端にはスポンサーのロゴが並んでいた。
『いやあ、今日も無事に終わりました! 新しい管制チームとも息ぴったりです!』
コメント欄には祝福の言葉が流れている。
新しい担当指揮者の登録名も、画面に表示されていた。
レンは配信を少し戻した。
ハウンドは以前と変わらない笑顔で、撃破数と配信実績を報告している。
チカが降りた理由を、ハウンドの配信は一言も言わなかった。




