第32話 杭の抜ける音
十月下旬の研修最終日、レンは模擬戦の開始時刻より先に射出時刻を二つ登録した。
対戦相手は実技教官のアンカー――大庭ゲンゾウ。五十二歳のBランクヒーローで、ガイが一度も正式な模擬戦で勝ったことのない相手だった。
机には先日の第七分署戦の記録が広がっている。遮断板も発煙筒も捕縛網も着弾した場所だけは正確だった。それでも三発すべてをかわされた。
「声を出してから考えていては六秒は埋まりません、か。言うのは簡単ですけどね」
射出予定の一つはガイの真後ろ。もう一つは演習場の西寄りにある白線の上だった。第九分署の射出機から、どちらも一キロほどの距離にある。
それぞれの着弾まで六秒。先に送った一発目を開戦前に立て、二発目を開戦直後に届かせる。三発目の欄は空けてある。
前回は相手がいる場所へ撃った。今回はガイが立つ場所と、相手がそこへ来る時刻を先に決めてある。
昨日の映像にはアンカーの足元だけを映したものがあった。杭が刺さっている間、教官はその場から動かない。相手が下がると固定を解き、次の場所へ踏み出す。
レンはその足の動きだけを繰り返し見た。拳が来てから逃げても間に合わない。それでも固定を解く一拍があるなら、今のガイにも間に合うかもしれない。
問題はアンカーがどこで杭を抜くかだった。煙を置く場所が外れれば、さっきの完敗と何も変わらない。
(相手に六秒やるんじゃない。こっちが六秒先に置く)
射出欄の残りを一つ空けたままレンは演習場の固定カメラを開いた。第七分署との対戦では逃げた相手を最後まで追いかけていた。今日はガイが待つ番になる。
『天城。聞こえるか』
ガイの声が無線に入った。
「聞こえてます。ボディカメラはありませんから足元の確認はお願いします。外から見えるのは固定カメラだけです」
『おう』
「あと一つ。勝ちにいくための準備はしましたけど、受ける回数まで俺が決めたわけじゃありません。無理なら使わなくていいです」
『分かった』
レンは画面の予定時刻をもう一度確かめた。右手が射出操作の上で止まる。
先日の評価票は全項目最低。その紙を持って同じやり方を繰り返すつもりはなかった。
演習場の中央でガイはアンカーと向き合った。ガイは車庫で外装を展開し、九号車でここへ来ている。
アンカーは背が高く肩幅も広い。胸元の登録章には長年の擦り傷がある。黒鉄色の外装を着れば、腰の左右に太い固定具が収まる。
「久しぶりだな、グリット」
「おう」
「また小細工を仕込んだらしいな」
「俺じゃねえ」
アンカーが声を上げて笑った。ガイは背後を見た。そこには白線で示された着弾予定の印しかない。
遮断板の構造は知っている。薄い板の下部を二本の支柱が支えるだけだ。相手はBランクの実技教官。拳の重さも知っている。
「それで俺に勝つ気か」
「さあな」
演習開始まで十秒。レンの声が両者の無線へ入った。
『遮断板、射出』
ガイは頭上の射出音を聞いた。六秒後、遮断板が後方で脚を開く。腰から背中までを受ける幅だが、歩く道を塞ぐほど長くはない。
アンカーは板を見たあと鼻を鳴らした。
「壁を一枚立てて何が変わる」
レンは答えなかった。
開始まで残り一秒。
『発煙筒、射出』
ガイが左の白線を確かめる。煙の着弾予定はあの場所だ。今はまだ空っぽの舗装が見えている。
開始の合図が鳴った。
アンカーは胸の登録章を二度叩いた。黒鉄色の装甲が全身を覆う。最後に両の踵から杭が伸び、地面を打った。
ガン。ガン。
二つの音が足元から伝わった。
固定されたアンカーは一歩も動かない。どれだけ強く打っても倒れない。ガイは何度もその身体へ力をぶつけてきた。
今のガイならなおさら倒せない。
「来い」
アンカーが右拳を引いた。
肩が動くより先に足元の土が固く鳴る。固定した身体を土台にして拳だけを前へ出す。逃げ場をなくすための構えだ。
ガイは両腕を胸の前で重ねた。
拳が当たる。
腕から胸へ太い衝撃が入った。外装が鳴り、足裏が地面を滑る。背中が遮断板へ当たったところで身体が止まった。
板の支柱が軋む。
だが倒れない。
ガイの足は残っていた。衝撃は身体の奥へ落ち、腹から背中へ重く集まる。
『遮断板の固定は維持。後方へ下がれる幅はもうありません』
「おう」
アンカーが左拳を出した。
今度は肩で受ける。二発目の重みが加わり、胸の中で熱が増した。右肩に残る疲れを考えれば長くは続けられない。
ガイは足を踏み直した。
板がなければ後ろへ飛ばされていた。放出する前に踏ん張るための足が残らない。古い肩当てだけでは受け切れなかった拳だ。
「まだ立つか」
「立つさ」
アンカーの口元が少し動いた。
上体を起こしたガイは胸を空けた。アンカーの右拳がそこへ入る。
衝撃で肺の空気が押し出される。背中の遮断板が大きくしなり、支柱の片方が土を削った。
ガイは歯を食いしばり、両脚を踏んだ。
溜まった。
だが固定中のアンカーへ打ち込んでも届かない。届いたところで押し倒せない。何年も前から変わらない条件だった。
目の前の教官は両足を地面に縫い付けたまま次の拳を準備している。
『蓄積は十分です。左側は通れます。遮断板の端から先に二メートルの空間があります』
ガイは首を少し動かした。
板の左端。そこを抜ければ拳の届かない場所に出られる。
逃げるための道としてなら狭い。だがアンカーを立っている場所から動かすには足りた。
アンカーの拳が来る。
ガイは腕を下げ、肩で受けた。衝撃を残したまま左へ滑る。遮断板の端を背にして、そこからさらに一歩離れた。
「おい。終わりか?」
「まだだ」
「だったら戻れ!」
アンカーは片足を引こうとした。
固定を解けば、あの大きな身体は動ける。反対に杭が地面へ刺さっている間は追えない。
ガイは半身になり距離を保った。
開戦前に聞いた二発目の射出音を思い出す。レンは一発目を壁に使い、もう一発を白線の先へ落とすと言っていた。
その白線はアンカーの足元より西にある。
ガイは板から離れ、拳の届くぎりぎりの距離を保った。固定されているアンカーは腕を伸ばす。指先の先にガイの胸があるはずだったが届かなかった。
教官は身体を前へ傾けた。杭が残っているせいで踵は動かない。拳の先だけがガイの肩をかすめる。
ガイは構えを解かなかった。
この距離では自分の体当たりも届かない。アンカーを動かすほかない。
通路の外にいた研修員の足音が聞こえた。少しの間誰も声を出さない。教官は逃げる相手を待つより、自分から間合いを詰めてきた男だ。
ガイはもう半歩下がった。
煙が広がり始めた。
アンカーが眉を寄せる。ガイを追うには煙の中へ出るしかない。立ち続ければガイへ拳は届かない。
ガイは左足をさらに引いた。
来るならここだ。
足元で金属が鳴った。
ガン。
アンカーの右の杭が抜ける。
ガン。
続いて左の杭が抜けた。
二つ目の音を聞いた。アンカーは煙をかぶった位置へ踏み出したばかりだ。両足が自由になっている。
『――今』
ガイは溜めを脚へ回し、踏み込んだ。次に胸の前で腕を交差させる。
拳は握らない。返しも撃てない。
代わりに身体全体をぶつけた。
肩から胸へ溜めた重さが抜ける。
アンカーの足が地面を離れた。
もう杭は刺さっていない。教官の身体が後ろへ押し流され、両足が揃って空中へ浮く。
黒鉄色の背中が演習用の受け床へ落ちた。
判定音が鳴る。
受け床の端で教官が片腕を上げた。判定員が試合を止める。固定を解いた直後に背中から倒されたことが確認されると、表示板の勝者欄がグリットへ切り替わった。
演習場の壁際から短い歓声が上がる。立っていた研修員の一人が自分の足元を見ていた。あの音を聞き分けられなければ、ただの体当たりにしか見えない。
ガイはその場に片膝をついた。放出で身体は軽くなっても、受けた拳の痛みまでは消えない。左腕を伸ばそうとして途中で止め、右手で床を押した。
煙が薄れるとアンカーが仰向けのまま笑っていた。
「まだ見られるとはな」
起き上がったアンカーが自分の足元を確かめた。二つの杭はどちらも引き戻されている。
「受けて溜めて、動いたところへ一発か。昔より派手じゃねえな」
「動けるからな」
「言うじゃねえか」
アンカーが腕を差し出した。
ガイは一度見てから右手を伸ばした。互いの前腕を掴み、立ち上がる。足元には折れずに残った遮断板の支柱が一本だけ見えた。
左肩を動かすと胸甲の下で痛みが走る。勝ったからといって身体の傷は軽くならない。アンカーはその動きを見て、握っていた腕を先に離した。
「無理が利かねえな」
「昔からだ」
「昔はもう少し嘘がうまかったぞ」
ガイは返事をしなかった。
管制室でレンは第三発の欄を閉じた。
射出履歴は二つだけ。どちらも開戦前の声が記録されている。
遮断板は開始前に着弾し、発煙筒はアンカーが固定を解く場所へ落ちた。固定カメラには杭が抜けるところが映っていない。だが二つの音は無線に残っていた。
射出が六秒遅いことは変わらない。古い設備も三発の枠もそのままだ。
レンは三発目を使わなかった理由を評価票の空欄へ書き込もうとした。
何度打ち直しても説明が長くなる。
結局「不要」とだけ入力した。
演習場から戻ったガイは車庫で外装を収納した。背中に当たった拳のせいで作業着の襟が曲がっている。
「ガイさん。今回は第三発を残せました。前の模擬戦では三発全部使って、全部読まれたんですよ。そこから比べれば実際の射出回数が減ったのは結構大きいです」
「おう」
「それに今回は固定が解けるまで待ったから勝てたんです。昔の映像だったら正面からもう一回殴ってたでしょう。俺も分かってはいましたけど、あそこまで素直に距離を取るとは思いませんでした」
「聞こえたからな」
「……音ですか?」
「杭だ」
ガイはそれ以上言わず胸ポケットへ赤鉛筆を戻した。
レンは端末に記録した二つの音を再生した。
ガン。ガン。
その直後に自分の『今』が入っている。
最初からそこで殴るつもりだったわけではない。どこを動くか分からない相手に先に場所を渡した。あとはアンカーが動く音を聞いてガイが身体を出した。
レンは再生を止めた。
出入口から靴音が聞こえた。外装を収納したアンカーが廊下から車庫へ顔を出した。
「天城レンだな」
「そうですけど。何か採点の問題でもありました?」
「いや。あの壁と煙を置いたのはお前か」
「俺です。模擬戦だし相手の足を見てから撃っても間に合わないので。三発しかありませんし」
アンカーはガイへ目を向けた。
ガイは赤鉛筆を握ったまま返事をしない。
アンカーがレンのほうへ顔を戻した。
「死んだ御影のほかに、こいつをここまで動かせる指揮者がいたとはな」




