第3話 四千二百円の夜
商店街の屋根から金具が外れ、ガイの足元へ落ちた。
道路で金属が跳ね、五級の男が顔を上げる。
「おい、オッサン。逃げんなよ!」
酔いで赤くなった顔が歪んだ。強化された腕の筋肉が盛り上がる。
ガイは男の右肩を見た。
腕を振る前に肘が浮く。顔の横から打ってくる動きだ。半歩ずらせば届かない。
男が拳を振った。
ガイは横へ外れる。
背後で店のシャッターがへこみ、大きな音がした。その隙に、ガイは倒れた棚の前へ進んだ。
『グリット、何がいるんですか。固定カメラには何も見えません』
第九分署からレンの声が届く。
『人だ』
『人? 熱源は外壁際です。そちらに――』
棚の向こうから、こつ、と音がした。
誰かが指で木を叩いたような音だ。
少し間を置き、今度は二回続いた。
ガイが棚へ近づいたとき、背後で屋根の一部が落ちた。
「うわっ!」
男は頭を抱え、通りの奥へ逃げ出した。
追えば捕まえられるかもしれない。
だが、棚の下から聞こえる音は、先ほどより弱くなっていた。
ガイは横倒しの棚に左手を掛けた。
木製とはいえ、中には商品が残っていて重い。手前へ引こうとすると、背板が何かに引っかかった。
「いるか」
「……いる。こっちだ」
老人の声が返ってきた。
ガイは床との隙間に顔を近づけた。
棚の下から靴が見える。足首のあたりで木材に挟まれ、動けなくなっていた。
「足、抜けるか」
「挟まってる。棚を持ち上げりゃ……」
店の奥の壁には、ひびが入っている。
屋根を支える柱に、倒れた棚の背板がもたれかかっていた。無理に引き抜けば、柱まで動く。
ガイは棚と柱の接点を確かめた。
背板を引けば、屋根の荷重を受けている柱が傾く。
棚を持ち上げるなら、老人の足が抜けるだけの高さで止めなければならない。
「動かすぞ。頭、下げてろ」
『グリット、対象が離れています。いまなら追いつけます。どうして店の中に――』
『人だ』
『熱源なら外壁際です。先に網を撃って確保しましょう』
ガイは返事をしなかった。
左腕を棚の下へ差し入れる。
先ほど男の拳を肩で受けた衝撃は、まだ身体に残っていた。
その力を腕へ回す。
棚の角が持ち上がった。
「いま、足を抜け」
老人が脚を引いた。
しかし、靴先が棚板に引っかかる。ガイは棚をもう少し持ち上げた。
「もう少しだ」
背板が柱から離れた。
同時に、頭上で木材がきしんだ。
『捕縛網、射出』
レンの声が無線に響く。
ガイは棚を支えたまま、老人の足元を見た。
靴先が抜ける。
その瞬間、柱が傾いた。
背板に支えられていた部分が動き、屋根の骨組みが一段下がる。
太い木材が、天井から落ちてきた。
「伏せろ!」
ガイは棚を押し戻し、老人の頭を片腕で包んだ。
その上へ自分の背中を入れる。
木材が外装を叩いた。
衝撃が背中から身体の奥へ沈む。両膝が床につき、昨夜負った脇腹の傷が引きつった。
面の打撃だ。
衝撃は溜まる。
だが、木材そのものは背中に載ったままだった。
上から細かな破片が落ちてくる。続けて屋根の骨組みが下がり、背中への重さが増した。
ガイは右腕を床について身体を支える。
その下で、老人が顔を上げた。
「俺はいい。あんたは逃げな」
「口閉じてろ」
背中の荷重が増える。
右肩へ逃がせば少しは耐えられる。だが、古い炎症の残る肩では長く持たない。
ガイは溜めた衝撃を両腕へ回した。
背中を押していた木材が少し浮く。
老人の肩の上に、身体を動かせるだけの隙間ができた。
ガイは右腕で床を支え、左手を老人の襟へ伸ばす。
「引くぞ」
老人の身体を床の上で滑らせた。
途中で止まった。
腰が棚の脚に引っかかっている。
背中の木材が沈み、ガイの肘が曲がった。今にも屋根が落ちてきそうだった。
「足をこっちへ寄せろ。そうだ」
老人が片膝を曲げ、腰を横へ向けた。
ガイは襟をつかむ手に力を込める。
今度は肩が抜けた。
老人の身体が棚の外へ滑り出す。
出口までは、あと少し。
だが、背中では木材がまだ動いていた。上の骨組みまで支えるには、残った衝撃だけでは足りない。
ガイは老人を入口側へ押しやった。
「先に出ろ」
「……あんたは?」
「すぐ行く」
老人が床を這うように進む。
ガイは背中で木材を支えたまま、老人の足が届かなくなる位置まで待った。
そこで、残った衝撃を脚へ回す。
立ち上がる力に変え、木材を棚のほうへ押しやった。
支えを失った木材が床へ落ちる。
その音に重なるように、屋根の奥から何かが割れる音がした。
ガイは老人の横へ進み、腕を首へ回させた。
足を挟まれていた老人は、うまく歩けない。
二人で出口へ向かう。
最後の一歩で老人の脚がもつれた。
ガイは身体を抱え直し、外の路面まで引き寄せる。
頭上でアーケードの柱が大きく鳴った。
「もう少しだけ歩けるか」
「……ああ」
老人が片足を踏み出した。
ガイはその歩幅に合わせ、屋根のない場所まで進む。
背後で店の奥が潰れた。
続いてアーケードの骨組みが倒れ、屋根の半分が商店街の道路へ落ちる。
土埃が二人の背中を包んだ。
老人は路面へへたり込み、ひびの入った靴を両手で抱えた。
踵を何度も動かしている。
「……店は?」
ガイは振り返った。
棚のあった場所は、落ちた屋根の下に埋まっていた。
「あとで見に来い」
「そうか……あとで、か」
老人は膝に手を置いた。
ガイはそのそばにしゃがみ、救急隊を待った。
第九分署の管制室で、レンは射出機の表示を見つめていた。
分署の屋上から現場まで一・五キロ。
着弾まで九秒。
男がアーケードの切れ目へ出た瞬間、その足元を着地点に指定した。屋根の下では、上から落とす網が引っかかるからだ。
射出機の残弾表示は二発に変わっている。
レンは固定カメラの映像を切り替えた。
男が商店街の角へ走っている。
上着の裾が画面の端に消えた。
次のカメラを開いても、反対側の道路にはまだ現れない。
着弾まで残り三秒。
「戻れ。そこへ戻れ……」
男が隣の路地へ入った。
九秒前にいた道路へ、捕縛網が落ちる。
金属の支柱と看板の残骸を巻き込み、網は誰もいない道路いっぱいに広がった。
「……外した」
次の着地点を選ぼうにも、男はすでにカメラの外だ。
右へ抜けたのか、奥の路地へ入ったのか。どちらも見えない。
レンは警察へ逃走方向を伝え、ガイの位置表示に戻った。
まだ店の中にいる。
生体情報は届いているが、呼吸が大きく乱れていた。蓄積値も先ほどより上がっている。
「グリット! 何してるんですか!」
返事の代わりに、荒い息が聞こえた。
店先のカメラで、骨組みが次々に外れていく。
土埃が視界を隠し、アーケードの屋根が落ちたところで映像が途切れた。
「グリット、応答してください!」
レンは位置表示を拡大する。
店の中にあった印が、外へ動いた。
『おう』
「……無事ですか。何があったんです?」
『一人、出した』
レンは別のカメラを開いた。
画面の端に、紺の外装が映っている。
ガイが老人を支えていた。老人は片足を引きずり、駆け寄ってきた救急隊員に身体を預けている。
レンは報告画面に〈救助一〉を入力した。
そのとき、赤い熱源がまだ残っていることに気づいた。
店の外壁際。
最初から同じ場所だ。
消防が送ってきた建物の設備図を重ねると、赤い点の位置には給湯器があった。
「……給湯器?」
レンは画面を拡大した。
設備図と熱源表示が重なっている。
次に、救助された老人の位置をたどった。
老人がいたのは、倒れた棚の奥だ。
固定カメラからは見えない。給湯器の赤い点とも重ならない。
レンは二つの画面を並べ、見直した。
人間だと思った熱は、人間ではなかった。
ガイが見つけた老人は、画面のどこにも映っていなかった。
救急車の扉が閉まる。
店の外では、黒ずんだ外装のガイが老人を見送っていた。
レンはその姿を確認し、報告画面へ視線を戻した。
帰署後、レンは第九分署の机に報告書を置いた。
「五級は逃走。捕縛網は空振り。アーケードは半壊。初任務でこれって、笑えないですよ」
ガイは外装を収納し、向かいで缶コーヒーを開けていた。
「アンタが追ってくれれば、確保できたかもしれないでしょう。俺は指示を出してました。人がいるなら、先にそう説明してくれれば――」
「人がいた」
「それは分かってます。でも、五級は逃げたんです。後始末だって全部こっちに来るんですよ」
ガイは缶を机へ置いた。
「今日、死人が出なかった」
「……だからって」
「それで足りる日もある」
レンは報告書を引き寄せた。
何か言い返そうとしたが、先に返すべき言葉が見つからない。
その間に、廊下から足音が近づいてきた。
「おや、戻ってたのかい。初出動はどうだった?」
入ってきたのは、年配の男だった。
胸の名札には沢渡とある。分署の所長らしい。使い込まれたファイルを抱え、空いている椅子を引いた。
「五級を逃がしました。報告書、見てください」
「どれどれ」
所長は二枚目の評価欄を指で押さえた。
「救助一人で五点。被害抑止が二点。合計七点だね」
「確保できれば十点です。そもそも、俺の指示どおりに動いてくれないと――」
「前の指揮者も、よく言ってたよ」
「前の人?」
「二年で出ていった。その前もだ」
レンはガイを見た。
ガイは缶を口へ運び、何も言わなかった。
所長が次の紙を広げる。
〈成果報酬見込み 四千二百円〉
老人の救助で三千円。
被害抑止で千二百円。
レンの指揮者加算は、六百三十円だった。
「……六百三十円?」
「今回の見込みだね。確定までは変わるかもしれないけど」
レンは紙を引き寄せた。
数字を見直しても、六百三十円のままだ。
その下にある項目が目に入った。
〈年度更新審査 基準一千点〉
去年のガイの実績は六百四十点。昨年度の基準は六百点だったが、今年は一千点に引き上げられている。
「これ、届かなかったらどうなるんです?」
「登録抹消だね。登録章も返すことになる」
「……俺は別のヒーローの担当になりますよね」
「担当が抹消されたら、その指揮者の年度実績も算入されないんだよ」
レンの指が止まった。
「この一年、まるごと無効ってことですか」
「規則ではそうだねえ」
「最初に言ってくださいよ!」
「配属書類の最後にあるよ」
レンはポケットから折った紙を出した。
小さな文字で、確かに同じ内容が書いてある。
見落としていたのは事実だ。
だが、そんな重要なことを配属初日に渡された紙の末尾へ押し込まれても困る。
机のスマホが震えた。
宮田からだった。
『ゼファー班、モニター二十面あった。まだ使いこなせねえ! そっちは?』
レンは管制室のほうを見た。
こちらは四面。
外装から映像は来ない。固定カメラの死角に入られたら、現場で何が起きているのか分からなくなる。
返事を打ちかけ、いったん消した。
『四面。映らねえもんが多すぎる』
送信してから、机の報告書を見直す。
ガイが老人を外へ出したところは映っている。
その前は、真っ暗な店の中だ。
どうして男を追わずに立ち止まったのか。
どこで老人に気づいたのか。
記録には残っていない。
それでも、レンが追跡を指示し、ガイが従わなかったことは無線に残っている。
自分の射出した網が外れたことも、はっきりと分かる。
レンは評価欄を開き、もう一度数字を確かめた。
七点。
必要なのは一千点。
この調子で積み上げて、本当に届くのか。
報告書の空欄にカーソルを置いたまま、レンはしばらく画面を見ていた。
その夜、レンは分署から歩いて十分のワンルームに帰った。
机に鞄を置き、パソコンを開く。
通販サイトの検索窓に「ボディカメラ」と入力した。
画面には、胸元へ取り付ける小さな録画機が並んだ。
ライブ送信には対応していない。現場の映像を見るには、帰署してから記録を取り出す必要がある。
それでも、固定カメラより近くで現場を撮れる。
商品説明をスクロールし、装着方法を確かめた。
外装のガジェット枠は使わない。
胸元へ取り付けるだけなら、装備の追加申請も必要ない。ただし、ガイ本人の許可はいる。
問題は値段だった。
一万九千八百円。
レンは昼間の報酬見込みを思い出した。
四千二百円。
自分の加算は六百三十円。
(これまで自腹かよ)
画面を閉じかけた。
だが、指が止まる。
九号車はナビより早く着いた。
商店街の熱源表示は間違っていた。
ガイはカメラに映らない老人を見つけた。
現場にいる人間には見えて、管制室からは見えないものがある。
それなら、現場の映像を残せばいい。
少なくとも、次は何が起きたのかを確かめられる。
レンはもう一度、商品説明を読んだ。
録画した映像を見返せれば、自分の指示が正しかったことだって証明できるはずだ。
「……次に断られたら、それまでだな」
小さく言って、購入画面へ進んだ。
支払い方法を自分の口座へ切り替える。
残高を見ると、買う理由がますます分からなくなった。
それでも、昼間の店の中を思い出す。
倒れた棚の向こうに、何があったのか。
あのとき、ガイは何を見ていたのか。
次は、映像に残せる。
(俺の指示が間違ってたとは、まだ決まってない)
レンは確認欄を読み、購入ボタンを押した。
自分の口座から、一万九千八百円が引き落とされた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
ロートルヒーローは、ここから一段ずつ全盛期を取り戻していきます。
少しでも「この二人の先が見たい」と思っていただけたら、
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