第2話 九号車の近道
五級の通報を受諾した途端、第九分署の椅子がレンの下で傾いた。
「……いま壊れるのかよ」
折り畳み椅子の左脚が床の継ぎ目にはまっていた。腰を浮かせて位置を直すと、今度は机の端に膝が当たる。
警報音がまだ鳴り続けている。
レンは音を止め、正面のモニターを見た。
管制室には四面しかない。
一面は地図、もう一面は案件票。残る二面を旧市街の固定カメラに使う。担当ヒーローの視界を映す画面は、そもそも用意されていなかった。
映像を切り替える。
商店街の中央で、男が店の看板を引き剥がしていた。赤ら顔で足元はふらついている。それでも、片腕で重い金属板を振り回せるほどの腕力があった。
〈五級/腕力強化/飲酒による器物損壊〉
確保できれば十点。
拳による打撃なら、ガイの能力とも相性は悪くない。少なくとも、資料に書かれた能力だけを見れば。
レンは通信を開いた。
「グリット、案件を受けました。旧市街商店街の五級です。警察が通行人を下げています。ナビでは現着まで六分」
『もっと早い』
無線からガイの低い声が返った。
「……何を根拠に?」
『道だ』
「地図はこっちにありますけど」
『俺にもある』
向こうで工具がぶつかる音がした。
無線の内容はすべて記録される。事件後には開示請求によって、一般人でも聞くことができた。
だから無線で呼ぶのは本名ではなく登録名。外装を展開している間も同じだ。
レンはガイの装備台帳を開いた。
Dランクのガジェット枠は四つ。登録されているのは肩当てと拘束帯ホルダーだけだった。
残る二枠は空欄。
装備一覧の下にも赤い文字が並んでいる。
〈更新予定なし〉
その隣には、レン自身の登録情報があった。
〈指揮者ランクE/月額装備予算〇円〉
「……俺にも金がないのか」
使えるのは、分署の屋上射出機だけ。
捕縛網、閃光筒、発煙筒、遮断板。選べる種類はあるが、一度の出動で撃てるのは三発。同時に使えるのは一発だけだ。
レンは商店街の地図を拡大した。
候補地点を押すと、着弾までの予測時間が表示される。分署から一キロなら約六秒。
男が走り出してから撃っても、六秒前の場所に網を落とすだけでは捕まえられない。
養成課程では、相手の進行方向を読んで先に置けと教わった。
だが、固定カメラの死角に入られれば、その進行方向すら分からなくなる。
レンは商店街の出口を二つ選び、どちらに逃げても対応できるよう画面を並べた。
出口に網を落として逃げ道をふさぐ。
あとはガイが追い詰めて確保すればいい。
(五級なら、これで十分だろ)
外装の接続待機表示を確かめ、レンは管制室を出た。
初めての出動だ。台帳に載った装備と実物くらいは、先に確認しておきたかった。
車庫では、ガイが九号車の横に立っていた。
黒と銀の大型スポーツバイク。低い風防の下に、古びたヘッドライトが収まっている。
長い車体の側面には、小さな「九」の文字が残っていた。
整備台には使い終えた工具が並んでいる。
ガイは胸の登録章を斜め下から二度叩いた。
罅の入った章から紺の繊維が広がる。
首、肩、腕を覆い、胸から胴へ。さらに脚へと伸びていき、最後に頭部まで包み込んだ。
装甲がかみ合う。
古い蝶番を動かしたような音が、車庫に響いた。
二・八秒。
(遅い)
資料で読んだ数字どおりだった。
現行型のDランク用登録章なら、標準は一・五秒。ガイのものは、それより一秒以上も遅い。
展開を終えた外装は、紺を基調にくすんだ橙色の線が走っていた。
肩には型落ちの当て板。腰には拘束帯ホルダー。
右脇の装甲には、細い裂け目が一本残っている。
その状態を見て、レンは眉を寄せた。
「グリット、Dの標準は一・五秒ですよ」
「壊れてねえ」
「そういう問題じゃなくて。枠も二つ空いてますけど」
「要らねえ」
「自分の戦力を減らしてまで?」
ガイは答えず、九号車にまたがった。
外装の頭部がヘルメットを兼ねているため、別の装備を着ける必要はない。
レンは空いているガジェットの取付部をもう一度見た。
最新の部品なら、姿勢の補助も移動の加速もできる。空いた二枠があれば、それなりに選択肢が増えるはずだ。
だが、ガイは何も積もうとしていなかった。
「……分かりました。接続を確認します」
レンは管制室へ引き返した。
モニターには、外装から送られてくる数値が流れ始めていた。
心拍。位置情報。衝撃の蓄積値。
映像はないが、身体の状態は読み取れる。
「接続、確認しました」
車庫のシャッターが上がる音がした。
地図上で九号車の印が動き始める。
レンは車両登録票を開いた。
旧式の大型スポーツバイク。最高時速三百キロ。現行型にある飛行補助も追加推進器も付いていない。
(速さで何とかする気なら、事故の報告書まで俺が書くんだぞ)
「グリット、南の幹線道路へ。いま経路を送ります」
『あっちは混んでる』
「交通情報は正常です。渋滞の表示も出てません」
『市場の荷下ろしだ』
九号車の印が、指定した方向とは反対に曲がった。
「ちょっと、そっちじゃ――」
言い終わる前に、レンは幹線道路の固定カメラを開いた。
市場の前に配送トラックが並んでいる。
荷台から木箱を降ろしている最中で、後ろの車が次々に止まっていた。
ナビには、まだ渋滞の表示が出ていない。
「……先に言ってくださいよ、そういうこと」
『言ったぞ』
確かに言われた。
レンは一度口を閉じ、位置表示を追った。
九号車は住宅街へ入っていく。
進行方向には細い路地。その先には、行き止まりを示す線が引かれていた。
「グリット、そこは袋小路です。次の角まで戻ってください」
『抜ける』
「地図では無理です」
位置表示が建物の間で止まった。
レンは画面を拡大する。
次の瞬間、九号車の印が建物の向こう側へ出た。
「……は?」
さらに地図の縮尺を変える。
住宅の間を縫うように、古い市道が一本通っていた。
自動車には狭すぎる。だが、二輪なら抜けられる幅がある。
「そんな道、さっきの地図には……」
『あるぞ』
「いま見えてます」
九号車は次の交差点でも、案内を待たずに曲がった。
レンは送信した経路を消し、実際の走行線を重ねる。
到着予測がまた短くなった。
「そっちも通れるんですか」
『店が閉まったからな』
「どの店です?」
『曲がり角の魚屋』
地図に魚屋の名前は載っていない。
九号車の印が抜けた場所には、以前の搬入口らしい細い道があった。
レンはもう一度経路を確認した。
通ってきたのは大きな道路ばかりではない。市場の脇道、住宅の間の市道、閉店した店の裏手。
どれもナビの優先経路から外れている。
九号車の最高速度は、ほとんど使っていなかった。
「……そんな抜け道、どこで覚えたんですか」
『歩いてりゃ分かる』
「全部歩いて確かめたってことですか?」
『おう』
それ以上の説明はなかった。
レンは地図に残った細い走行線を見つめた。
機械の予測には出てこない道が、いくつもつながっている。
到着通知が鳴った。
出動から三分五十秒。
当初の予測より、二分十秒早い。
「……もう着いたんですか」
『おう』
レンは車両登録票を閉じ、九号車の走行履歴を保存した。
最高速度の欄より、曲がった角の数が気になった。
(地図にない道まで知ってるのかよ)
レンは先ほどのランキングを思い出し、すぐに画面から目を離した。
今は相手を確保するほうが先だ。
旧市街の商店街に到着したガイは、アーケードの外に九号車を止めた。
路面には割れたガラスが散っている。倒れた看板が通りを半分ふさぎ、柱の上では屋根を支える金具が一本外れかけていた。
酒の匂いが鼻につく。
「誰だよ、オッサン!」
男が金属製の看板を持ち上げた。
強化された腕は太くなっていたが、刃物は持っていない。
拳なら面で受けられる。
ガイは男の足元と、その背後に続く店の並びを確かめた。
『グリット、対象は正面です。奥の出口は確認できました。追ってください』
第九分署の管制室から、レンの声が入る。
男の先には、通りの出口が開いていた。
その手前で、一軒だけシャッターが下りていない店がある。
ガラス戸は割れ、商品棚が入口をふさいでいた。
すぐ上では、屋根を支える金具が浮いている。
ガイがそちらへ目を向けたとき、男が看板を捨てた。
「逃げんじゃねえぞ!」
男が引き返してくる。
横から拳が飛んできた。
避けられる。
だが、身体を引けば男の正面が空く。そこには、ガラス戸の割れた店があった。
ガイは左肩の当て板を合わせた。
拳が装甲に当たる。
重さが身体の奥へ流れ込み、踏み込んだ靴底が一枚のタイルを割った。
昨夜負った脇腹の傷が引きつる。
男は腕を引き、笑った。
「何だ、効いてねえのか!」
ガイは答えなかった。
背後にある店から目を離さない。
屋根の軋む音がする。
落ちた看板が風で路面を擦り、小さな金属音を立てていた。
その音に混じり、店の奥から別の音が聞こえた。
木材がぶつかる音。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
『グリット、いま追ってください。対象を見失います。捕縛網を落とす位置も変わります』
「おう」
『返事だけじゃなくて、動いてください。追ってください』
ガイは店の入口を見た。
倒れた棚が通路をふさいでいる。暗い店内は、表通りからでは奥まで見通せない。
男は再び拳を握った。
「なあ、聞いてんのかよ!」
ガイは半歩だけ足を開いた。
ここで男を通りの外側へ誘導できればいい。だが、今の位置を空ければ、男は店へ向かって踏み込んでしまう。
『グリット、聞こえてますか?』
男が拳を振り下ろした。
ガイは身体をひねってかわし、すぐに入口の前へ戻る。
男と店の間に立つ。
追いかけるなら、今が最後の機会だった。
だが、店の奥から聞こえた音が気になった。
ガイは動かなかった。
第九分署の管制室で、レンは蓄積値のグラフを見直した。
先ほど肩で打撃を受けた瞬間、数値が跳ね上がっていた。
ガイは攻撃を受けられる。
それなのに位置表示は、さっきからほとんど動いていない。
固定カメラには紺の外装と男の背中が映っている。店の内部までは、カメラの角度が届かなかった。
レンはもう一面を切り替えた。
画面の端に赤い熱源が一つある。
店の外壁際。地面より少し高い位置。大きさは人間に近いが、動きがない。
もう一台のカメラを探そうとしたところで、男が画面の端へ走りかけた。
レンは切り替えを止めた。
今ここで見失えば、網を落とす位置も決められなくなる。
「グリット、現場で何を見ているんですか。そこに留まれば男を逃がします」
返答はない。
「人影は確認できません。熱源は一つありますけど、動いていません。まず対象を追ってください」
レンは二つの出口を示す印へ指を移した。
どちらへ逃げても、一発で網を落とせる。
だが、ガイの位置は変わらない。
『グリット、聞こえてますか?』
無線の向こうで、木材が一度鳴った。
少し間を置き、ガイの低い声が返る。
『――いる』
読んでいただき、ありがとうございます!
ロートルヒーローは、ここから一段ずつ全盛期を取り戻していきます。
少しでも「この二人の先が見たい」と思っていただけたら、
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