第1話 九十八位の朝
戦うのはヒーロー。勝たせるのは、指揮者。
落ちこぼれ指揮者と、引退寸前のおっさんヒーローの話です。
三月最後の夜、三級の獣がガイに牙を向けたとき、無線の向こうには誰もいなかった。
汐見市の河口に広がる倉庫街。岸壁では倒れたコンテナが陸側の退路をふさいでいた。背後には手すりがあり、その向こうは黒い海だ。
胸の登録章を通した通信に、指揮者の応答はない。今夜は案件を受諾してくれる者さえいなかった。
それでもガイは車庫で外装を展開し、九号車で現場へ来た。黒と銀の車体は、少し離れた倉庫の陰に止めてある。
獣の肩が下がった。
次に来るのは牙だ。ガイは頭をかわし、何度目かの体当たりを左肩で受けた。
装甲が鳴り、衝撃が身体の奥へ沈む。足を踏ん張って押し返したが、獣の後脚は路面に残ったままだった。
体当たりなら溜まる。爪も牙も、食らえばただ傷になる。
獣が距離を取り、再び突進した。
左肩を前に出して受ける。靴底が滑り、背中の手すりが揺れた。息を吐いて膝を戻すまでに、前より一拍かかる。
獣は離れた途端、前脚を横へ振った。
避けたつもりだった。
外装の脇が裂ける音がした。腹に熱いものが走る。右手を添えると、手袋の手のひらが血で濡れた。
間に合わなくなっている。
身体の奥に抱えた重さは九十を超えていた。受け続けた衝撃が右肩へ熱となって返り、古傷を内側から焼く。
これ以上は危ない。だが、今の身体では、溜めを狙った場所へ放つにも時間がかかる。
前なら、次の一歩が出ていた。
獣が四つの足を踏みそろえた。
今度は爪を振る構えではない。胴ごとぶつかってくる姿勢だ。ガイは左肩の当て板を前に出した。
次の体当たりを受け、衝撃を脚へ回す。防潮壁まで押し込めれば、逃がす場所を失った獣に残りを叩き込める。
それが最後の機会になる。
しかし、獣は走り出さなかった。
踏み込もうとした前脚が止まる。
濁った目が、ガイの胸の中央へ向いていた。紺の外装に残る、砂粒を三つ並べた紋章。
獣は口を開けた。牙が見える。
それでも、踏み込んでこない。
ガイは左足へ重心を移した。
獣が動きを取り戻すより早く、その胴の内側へ肩を入れる。
溜めた衝撃の一部を左脚へ回し、一歩踏み込んだ。
巨体が浮いた。
防潮壁に外殻がぶつかる。
ガイはすぐに足を詰め、残った衝撃を左肩へ集めた。受けた力を、時間を置いて等倍で放つ。
もう一度、肩を押し込む。
硬いものが割れる音とともに、獣の後脚が地面を離れた。
壁の下へ巨体が崩れ落ちる。
後脚が一度だけ痙攣し、動かなくなった。
ガイは首の付け根に手を当て、しばらく待った。
もう動かない。
立ち上がると腹の傷が引きつった。あの一瞬、獣が足を止めなければ、こちらが壁に追い詰められていた。
外殻の脇に、何かが食い込んでいる。
ガイは膝をつき、左手で引き抜いた。
金属片だった。
青と白の斜線。熱で縁が歪み、塗装の端が縮れている。
手の中で裏返し、少しの間、そのまま持っていた。
やがて胸の登録章を長押しする。外装が収納され、下に着ていた作業着へ戻った。
金属片を上着の内ポケットへ入れる。
先に入っていた別の金属片と触れ合い、かすかな音がした。
ガイはもう一度獣のそばにしゃがみ、開いたままの目を手のひらで閉じた。
確認班の車が到着したのは、それからだった。
職員は倒れたコンテナを撮影し、端末の空欄を指で追っていく。
「三級、討伐一。……受諾番号が空欄ですけど」
「いねえ」
「指揮者が? 今回も単独なんですか」
「記録だけ頼む」
職員は一度だけ顔を上げ、端末に視線を戻した。
討伐者の欄に登録名が入力される。
その下の所見欄には、〈変異種〉の三文字が表示された。
回収用の器具が車から運ばれてくる。ガイは職員に場所を譲り、倉庫の陰に止めた九号車へ向かった。
四月最初の朝、本部の配属窓口でレンが受け取った通知には、担当ヒーローの年齢が大きく印字されていた。
三十八歳。
「……俺、十八なんですけど」
「担当ヒーローの年齢です。変更希望は異動申請で」
「その説明じゃなくて、もうちょっと新人らしい配属先とか――」
「次の方」
職員は顔も上げなかった。
列から外れ、通知をもう一度読む。
〈第九分署 担当:グリット/Dランク/更新審査対象〉
配属先の下には、小さな案内地図が一枚。
研修の日程も、引き継ぎ担当者の名前もない。
(面倒な場所ほど紙が少ない)
「お、天城。どうだった?」
宮田が胸ポケットから通知を半分出したまま近づいてきた。
同期の宮田颯太は、朝から三人に自分の配属先を報告している。レンは今のやり取りを忘れたくて、先に相手の通知を指さした。
「そっちから言えよ」
「ゼファーの管制班。Bランクだぜ。末席だけど、上位班に入れた!」
「へえ。おめでとう」
「薄いな! お前は?」
紙を渡すと、宮田の口が止まった。
「……第九? グリットって、あのグリット?」
「どのグリットだよ。登録名が重なるわけないだろ」
「いや、その……頑張れ」
「今、何を飲み込んだ?」
宮田は答えず、スマホで市のヒーローランキングを開いた。
登録百十二人中、九十八位。
下には休業中と新規登録者の名前が並んでいる。長年現役を続けながら、この位置にいるヒーローはほとんどいなかった。
レンは画面を指で止め、返された通知に目を戻す。
「経験だけはある、って言いたいんだろ」
「俺、そこまで言ってねえって」
宮田のスマホに配信通知が届いた。
白と金の外装を着たハウンドが、カメラに向かって笑っている。
「こっちはスポンサーがまた付いたってさ。俺らとそう変わんない年なのに」
「配属初日から配信追う暇あるなら、ゼファーの資料でも読めよ」
「お前だって、まだその一枚しか見てないじゃん」
レンは通知を折り、ポケットへ入れた。
三年間、ヒーローになるつもりで学んできた。
正確には、最後の実技試験までそう思っていた。
模擬災害現場の二階。割れた窓の向こうで、赤いヘアゴムが揺れていた。
黒髪の少女がこちらへ手を伸ばしている。
「誰か! 助けてください!」
登るための足場は見えていた。
倒れた棚をどこから押せば動かせるのかも、訓練で覚えた通りに考えられた。
だが、足は動かなかった。
呼ぶ声が繰り返される。
レンは瓦礫の前に立ったまま、二階の窓を見上げていた。
八分が過ぎ、試験は終了した。
実技は零点。
手渡されたのはヒーローの登録証ではなく、指揮者課程への振替通知だった。
「天城? 聞いてる?」
目の前で宮田が手を振っていた。
「ああ。何?」
「だから、夜にどうだったか教えろよ。お前の担当」
「暇ならな」
「それ、絶対連絡しねえやつ」
宮田は笑いながら人混みに戻っていった。
レンは手袋の端を引く。薄い黒の手袋は、今日も両手にはめたままだ。
管制室なら、現場に自分の足で立たなくていい。
そう考えて指揮者課程への振替を受け入れたことは、宮田にも話していなかった。
昼過ぎ、第九分署の前で、レンは建物を一度通り過ぎた。
塗り直された白い外壁は、窓の途中で終わっている。残り半分は色の落ちた灰色。看板には錆が浮き、駐輪場の白線を草がまたいでいた。
「……ここ?」
引き返して自動ドアの前に立つ。
開いたのは右側だけだった。左側は動かず、半分だけ開いた入口を身体を傾けて通り抜ける。
受付には誰もいない。
奥からテレビの音が聞こえてきた。
『臨海部の業務ビルで一部崩落が発生。現場にはAランクのダイダラが――』
画面の中で、橙色の外装を着たヒーローが建物の前に立っていた。
『――グランドホールド!』
映像が早送りに切り替わる。
外装が大きく膨らみ、腕と脚が伸びていく。やがて二十メートルほどの巨体になったダイダラが、傾いた建物の壁を両腕で支えた。
足元では救助隊が人を運んでいる。
最後の隊員が建物から離れると、画面の外から拍手が上がった。
レンはテレビを見上げた。
自分も、あの足元を走る側に立つつもりだった。
「用か」
背後から声がした。
振り返ると、作業着姿の大男が立っていた。首も肩も厚く、短い髪には白いものが混じっている。
片手には無糖の缶コーヒー。胸ポケットには赤鉛筆が一本差してあった。
「今日から配属になりました。天城レンです。指揮者の」
「おう。黒崎だ。登録名はグリット」
男が右手を差し出した。
その手が、顔より先にレンの目に入る。
薬指と小指が曲がったまま、伸びきっていなかった。
九十八位。
さっき見たランキングが頭をよぎる。
年齢のせいで身体が動かないのか。それとも、別の理由があるのか。
触れれば分かる。
レンは右の手袋を外した。
「……よろしくお願いします」
差し出された手を握る。
その瞬間、指先から重い情報が流れ込んできた。
心拍が遅い。
手のひらは硬く、握り返す力にも左右で差があった。曲がった二本の指には、古い骨折の跡が残っている。
手首から肘へ。筋肉の張りを追うと、右肩の奥に熱があった。
古い炎症だ。
動かすたびに周囲の筋肉まで引きつれ、痛みをかばうために別の場所へ負担が移っている。
そこから先を読もうとして、レンの指が止まった。
胸にも、脇腹にも、背中にも傷がある。
一つの古傷の奥に、別の時期に負った傷が重なっていた。どこかをかばって動けば、また別の場所に無理がかかる。
その繰り返しが、身体のあちこちに残っている。
(……どんだけ壊してんだ、この身体)
握り直すつもりだった手を離した。
自分の指先にも、触れている間に感じた鈍い痛みが残っている。レンは慌てて手袋を戻した。
ガイは何も尋ねなかった。
缶コーヒーを近くの棚に置き、テレビの音量を下げる。
「管制室はどこですか。装備と出動の記録を先に確認したいんですけど」
「奥だ」
「それと、身体の状態も共有してもらわないと困ります。少なくとも今日の案件を受ける前に――」
「今日、出るぞ」
「……あの身体で?」
「おう」
ガイは缶を持ち直し、廊下へ歩いていく。
レンはその背中に声を掛けようとして、口を閉じた。
曲がった指。炎症の残る右肩。積み重なった古傷。
あれだけの負担を抱えた身体で、どうやって現場に立つつもりなのか。
新任指揮者向けの教科書には、そんな項目はなかった。
そのとき、受付の奥で警報が鳴った。
赤い案件票が画面に開く。
〈五級ヴィラン/旧市街商店街〉
先を歩くガイの足音は、止まらなかった。
第1話を読んでいただき、ありがとうございます!
ロートルヒーローは、ここから一段ずつ全盛期を取り戻していきます。
少しでも「この二人の先が見たい」と思っていただけたら、
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