第27話 測定誤差の夜
九月十日の未明、庇の家の勝手口が内側から開いたとき、ガイの目の前には男の右手があった。
掌が戸の縁を押さえている。指先が曲がると、金具の内側から割れる音がした。
八月七日、住宅を壊した三級ヴィランだった。
『グリット、受けるな』
レンの声と同時に、ガイは半歩下がった。
戸の金具が弾け、木片が足元へ散る。男はガイの胸甲を見て、顔を歪めた。
「……またアンタかよ」
「見つけたぞ」
「邪魔すんじゃねえ!」
男は勝手口から離れ、家の奥へ引っ込んだ。
狭い台所の向こうで床板が軋む。何か重い物を引きずる音に混じって、人の咳が聞こえた。
あの老人がいる。
ガイは戸口を越えなかった。
男を追えば、触れられる距離まで近づく。破砕は衝撃として溜まらない。前に受けたときは、胸甲が内側から割れ、肋骨を三本折った。
ガイは路地へ戻り、隣家の戸を叩いた。
「外へ出ろ。大通りまで」
寝間着姿の男が顔を出した。
「えっ、何が――」
「隣にヴィランがいる。家族も連れて出ろ」
男は外装を見ると、室内へ声を掛けた。
奥から妻らしい女性が出てくる。二人が道へ出たところで、ガイは次の戸を叩いた。
『グリット、東側に避難路を確保しました。警官が二人います』
「人がいる」
『はい。付近の住宅も確認中です。北側から第七分署が向かっています』
庇の家から板の折れる音がした。
男はまだ中にいる。老人を探しているのか、別の物を壊しているのかは分からない。
ガイは向かいの住人にも声を掛けた。
事情を知った住人が隣家の戸を叩き、そこから三人が出てきた。
さらに一人。
通りの突き当たりから三人。
ガイは九人を警官のいる通りへ向かわせた。
『避難者九人を確認。庇の家はまだ一人残っています』
「分かった」
ガイは勝手口へ戻った。
台所の障子が倒れ、割れた食器が床に散らばっている。
奥から男の声が聞こえた。
「そこにいるんだろ。出てこいよ!」
老人は柱に片手をついて立っていた。
足元の床が傾き、うまく歩けないらしい。
その前で男が戸板を持ち上げる。
腕を伸ばせば、老人に届く距離だった。
ガイは戸口に立った。
「こっちだ」
男が振り向く。
「今度こそ壊してやる!」
戸板が飛んできた。
広い木の板だった。尖った先端で刺されるわけではない。面で受ければ衝撃を溜められる。
ガイは左肩を前に出した。
板が外装へ当たる。
肩の奥へ重さが沈み、治りかけた胸にも痛みが響いた。だが、足は動かなかった。
『遮断板、射出』
レンの声が入った。
『勝手口の脇です。着弾まで九秒』
ガイは男の手を見た。
戸板を放した右手が、こちらへ伸びてくる。
触れられれば、今度は肩当てごと壊される。
ガイは身体をひねった。
男の指先が空を通り、そのまま背後の棚へ触れる。棚板が内側から割れ、食器が床へ落ちた。
「避けんじゃねえよ!」
男は倒れた棚から別の板をつかんだ。
『あと五秒』
ガイは老人の位置を確かめた。
老人は柱から離れ、床にしゃがもうとしている。
逃げ道は、男のいる台所を通らなければならない。
『三、二、一』
勝手口の外で硬い音がした。
折り畳まれていた遮断板が開き、外壁の脇に固定される。
ガイは男から距離を取り、板へ背中を預けた。
古い外壁なら、体重を掛ければ崩れるおそれがある。新しく届いた板には、その心配がない。
男が投げた二枚目の戸板を肩で受けた。
衝撃が身体へ溜まる。
背中を押されたが、遮断板に支えられ、踏みとどまれた。
男は台所の柱へ手を伸ばした。
表面には傷が付かないまま、内部から割れる音が続く。天井の土が落ち、老人が頭を押さえた。
ガイは割れかけた柱へ向かわなかった。
崩れたものを受けることはできても、破砕そのものは受け止められない。
男の腕を避け、床に落ちた戸板を拾う。
老人の前へ横倒しに置くと、男の視線がガイへ戻った。
『警察から確認が取れました。避難した住人は九人。残っているのは、その家の老人だけです』
「見えてる」
『閃光筒、射出。勝手口の外、着弾まで九秒』
ガイは戸口を確かめた。
老人は倒した戸板の陰にいる。
男は外へ向かって歩き始めていた。
このまま戸口に引きつければ、閃光が届く。
ガイは一歩下がった。
男が長い板をつかみ、振り下ろしてくる。
左肩へ当てた。
外装の内側で重さが増す。骨折した胸の奥が痛み、息が詰まった。
「また受けやがったな!」
男は板を捨て、掌を伸ばした。
ガイは受けずに身を引いた。
指先が胸甲の前を通り過ぎる。
『三、二、一』
ガイは顔を背けた。
勝手口の外で閃光が弾ける。
「ぐっ……!」
男が目を覆った。
ガイは老人の位置を確かめ、その前を通って踏み込んだ。
肩に溜めた力を、体当たりへ乗せる。
『――今』
男の胴に肩が当たった。
通常の放出。
溜めた重さが抜け、男の両足が床から浮く。
男は開いた勝手口を越え、外の通りへ転がった。
ガイも外へ出た。
老人が家から出るには、まだ時間が要る。
男を戻すわけにはいかなかった。
「ふざけんな!」
男は起き上がりざまに木箱を蹴った。
箱がガイの腹へ当たる。
面の打撃。重さが身体へ沈んだ。
ガイは右足を引き、男が家へ戻る道を塞ぐ。
男が踏み込んだところへ、もう一度肩を合わせた。
溜めた力を放出する。
男は勝手口から押し戻され、路地の石壁に背中をぶつけた。
ガイは追い打ちをしなかった。
家の中では老人が戸板を押しのけ、出口へ向かっている。
あと少しだった。
男が石壁に掌をついた。
ガイは横へ跳んだ。
石壁の内部が割れ、大きな塊が落ちてくる。
一つを肩で受けた。
続いて、崩れた石が背中と腕へ当たる。
平らな面から衝撃が入り、溜めが増した。
その重さの一部が、右肩の奥へ熱として返ってくる。
『グリット、蓄積九十一。右肩の負荷が上がっています』
「聞こえてる」
『九十を超えています。これ以上受けるのは危険です』
ガイは背後を見た。
老人が勝手口から這うように出てきていた。
片手で壁を探し、膝を伸ばせずにいる。
男も老人に気づいた。
壊れた石壁から離れ、家の外側の柱へ向かう。
ガイは男の手を見た。
止めるには、触れられる距離まで近づかなければならない。
先に届いたのは男の右手だった。
柱に触れる。
内側から割れる音が走り、庇を支える横木が傾いた。
老人の頭上へ瓦が落ちる。
ガイは駆けた。
老人の前へ滑り込み、その身体を地面へ伏せさせる。
抱えて逃げる時間はなかった。
ガイは背中を丸めた。
横木が落ちる。
背中に広い衝撃が乗った。
続いて瓦と板が肩へ重なり、溜めた力が一気に増す。
逃がしきれない重さが、右肩の奥へ突き抜けた。
外装の内側で、何かが弾けた。
焦げた繊維の匂いが鼻を刺す。
右腕が痺れ、肩に力が入らない。
それでも、横木は老人の頭まで届かなかった。
『グリット! 蓄積値が……』
レンの声が乱れた。
『百を超えています。表示が測定誤差に変わりました!』
ガイは返事をしなかった。
背中の木を膝で押し上げる。
動かす力は残っている。しかし、右腕が思うように動かない。
老人が下から顔を上げた。
「……あんた」
「動けるか」
「足が、なかなか……」
ガイは左腕を老人の背に回した。
抱え上げると、胸に鋭い痛みが走る。
それでも立った。
背後で石が動いた。
男がまた起き上がっている。
家の柱は折れ、庇も半分ほど崩れていた。
もう一度あの手で触れられれば、建物がどこまで壊れるか分からない。
老人を抱えたままでは受けられない。
ガイは外の通りへ一歩下がった。
『グリット、右肩の生体情報が乱れています。もう受けないでください』
男がこちらを向いた。
その手が上がる。
ガイは老人を抱え直した。
『天城、下がれって言え』
『……グリット?』
『言え』
無線が短く途切れた。
『下がれ!』
ガイは男に背を向けた。
老人を胸へ寄せ、路地の出口へ向かう。
もう相手の手は見ない。
追ってくる足音だけが聞こえていた。
『捕縛網、射出。路地の出口、着弾まで九秒』
屋上射出機の音が無線に入った。
ガイは右足へ残った力を回した。
老人の身体を揺らさないように抱え、壁際を進む。
後ろでは男が倒れた木材を蹴りのけていた。追いかけようとするたび、足元の瓦礫が邪魔をする。
ガイは出口にいる警官を見つけた。
「受け取れ!」
二人の警官が駆け寄り、老人を引き受ける。
その足が地面についたことを確かめてから、ガイは壁にもたれた。
男が路地へ飛び出してくる。
頭上を、捕縛網の筒が通過した。
網が開き、男の肩と両脚に絡みつく。
「何だよ、これ!」
男は倒れながら右手を伸ばした。
網の一部が破れる。
だが、立ち上がるには足が絡まっていた。
その背へ、衝撃弾が飛んだ。
レイヴンの一発だった。
男が前のめりに倒れる。
続いて、路面を走った鋼索が両腕と脚を巻いた。
ラインバインドの拘束が締まり、男の身体を地面へ押さえつける。
警官が近づき、手の硬化が解けたところで抑制錠を掛けた。
『第七分署、対象確保。グリット、応答できますか』
桐生の声が入った。
「聞こえてる」
『救急班を向かわせます。動かないでください』
ガイは壁に背中を預けたまま、老人を見た。
老人は警官に支えられ、自分の足で立っている。
片手で警官の腕をつかみ、もう片方の手をガイへ向けて上げた。
ガイも右手を上げようとした。
しかし、肘の辺りで止まった。
夜が明ける前、第九分署の管制室で、レンは回収された生体記録を開いていた。
蓄積値は九十一のあとも増え続け、最後には百を超えていた。
次の行にあるのは数字ではない。
〈測定誤差〉
外装の警告欄には、衝撃伝達層の焼損と機能停止が記録されている。
「……何だよ、これ」
レンは警告が出た時刻へ戻った。
庇が落ちた瞬間だった。
ガイは老人の上へ倒れ込む横木を、背中で受けている。
破砕能力に触れられたわけではない。
落ちてきた木の重さを受け止め、その衝撃を能力へ取り込んだ。
それが、安全上限を超えた。
レンは過去の出動記録を開いた。
九十二。
九十四。
九十一。
同じような数字が、何度も出てきた。
外装が壊れなかっただけで、九十を超えた負担はそのたびに右肩へ返っていた。
レンは画面を下へ送った。
ガイの手首を握ると、右肩の奥に熱を感じる。
これまでは、その日の疲労や古傷の炎症だと思っていた。
だが、記録に残った数字を見れば、何度も同じ場所へ負担を掛けていたことが分かる。
「……毎回、こんなに溜めてたのかよ」
レンは椅子の背へ身体を預けた。
今夜も、ガイは老人を救った。
けれど、外装の安全上限を超えてまで受けたのは、初めてではなかった。
右肩の奥で感じた熱と、古い記録の数字がようやくつながる。
レンは無線記録を開いた。
『天城、下がれって言え』
ガイの声だった。
そのあとに、自分の返答が残っている。
『下がれ!』
六月に決めた、六つの符丁。
ガイが必ず聞くと約束したのは、最後の「下がれ」だけだった。
今夜、その言葉を使わせたのはガイのほうだった。
レンは再生を止めた。
画面の隅には、救助された十人の確認時刻が並んでいた。
九人。
そして最後に、庇の家の老人。
全員が無事だった。
その日の午後、第九分署へ小さな紙袋を持った老人が訪ねてきた。
庇の家の老人だった。
額には白いガーゼが貼られ、片手に魚の缶詰が入った袋を下げている。
「グリットさんとこの人だろう」
老人はレンを見るなり、そう言った。
「病院で名前を聞いたよ。あんたのことも、あの人が天城って呼んでたからな」
「はい。第九分署の天城です」
「これ、預かってくれないか」
老人は袋を差し出した。
中には魚の缶詰がいくつか入っていた。持ち手の片方は、何度も結び直されている。
「ありがとうございます。でも、グリットはまだ病院で検査中なんです」
「そうか。じゃあ、戻ったら渡してくれ」
レンは袋を受け取った。
老人は所長室のほうへ目を向けた。
「何年も顔を合わせてたのになあ。名前を聞いたことがなかった」
「グリットも、知らないって言ってました」
「だろうねえ」
老人は小さく笑った。
「今度は覚えておくよ」
帰り際、老人は第九分署の看板を一度見上げた。
塗装の終わっていない外壁の下で、しばらく文字を読んでから帰っていった。
レンは紙袋を机に置いた。
案件票には、査定結果が届いていた。
共同確保、六十点。
救助十人、五十点。
被害抑止の加算、二十点。
合計百三十点。
年度累計は四百十点になった。
レンは数値を保存したあと、救助者の一覧を開いた。
最後の行に、庇の家の住所がある。
レンはその住所を確かめ、案件票を閉じた。
翌朝、九月十一日の車庫で、ガイは修理に出す外装の前に立っていた。
胸と肩を覆う下地の一部が黒く焦げている。
内側の衝撃伝達層には割れ目が走り、焦げた部分からはまだ少し匂いが残っていた。
本部装備課の見積書には、修理期間二週間とある。
病院での再検査では、新たな骨折は確認されなかった。ただし、胸と肩への負担は増しており、再出動は認められていない。
「前のに戻すだけだ」
ガイは交換申請書を折った。
「二週間、出られませんよ」
「そうか」
「そうかじゃないです。新品に交換しても、同じ受け方をしたらまた壊れます」
レンは焦げた伝達層を指した。
「昨日みたいに百を超えたら、外装じゃ逃がしきれないんです。そもそも、九十を超えるだけでも右肩に負担が戻ってるでしょう」
ガイは外装を見た。
「直る」
「外装は直りますよ。でも、肩は?」
ガイは返事をしなかった。
「手、貸せ」
レンは手袋を外した。
三秒だけ、ガイの手首を握る。
一秒目。心拍は落ち着いている。
二秒目。前腕の疲労が残っている。
三秒目。右肩の奥に、以前より強い熱があった。
炎症は、もう一段深くなっていた。
レンは手を離した。
ガイは何事もなかったように作業着の袖を引く。
その動きさえ、右肩をかばっている。
「……これ、元に戻すだけじゃ駄目ですよ」
「何がだ」
「肩当てです。今のは重すぎるし、受ける角度と当たり面が合ってないんです」
レンはタイドから譲られた肩当てを見た。
固定帯を締めれば、肩の動きが制限される。
緩めれば、衝撃を受ける位置がずれる。
これまで何度も調整してきたが、どちらの問題も解決していなかった。
「アンタ、受けるときに少し身体を斜めにするでしょう。その動きに合わせて当たり面を変えれば、余計なところへ重さが逃げなくなるかもしれません」
ガイは肩当てを手に取った。
「削るのか」
「……まだ決めてません」
レンは肩当てを受け取った。
ただ元へ戻すだけなら、装備課へ任せればいい。
今のガイの身体に合う形が必要なら、こちらで考えるしかなかった。
その夜、第九分署の車庫には明かりが一つ残っていた。
レンは九号車の工具箱から金属用のやすりを借り、整備台へ置いた。
タイドのお下がりの肩当てを裏返す。
片側だけが重い。
肩へ当たる面も広すぎる。
ガイが打撃を受けるときは、正面から肩を押しつけるばかりではない。半身になり、身体の角度を変えながら受けている。
レンは削る位置へ鉛筆で印を付けた。
一度書いた線を消す。
ガイが受ける瞬間の映像を思い出し、もう一度引き直した。
削れば軽くなる。
ただし、削りすぎれば受け止められる範囲が狭くなる。
軽さだけを優先して、次の出動で壊れたら意味がない。
レンは肩当てをいったん置いた。
整備台の引き出しから、設計用の白い紙を取り出す。
外装の寸法を測り、ガイの肩幅を書き込んだ。
何度も見てきた、あの受け方。
何度も確かめた、右肩の熱。
今なら、どこを変えるべきか考えられる。
レンは、設計図の一枚目に、ガイの右肩の線を引いた。




