第23話 庇の下の錠
八月下旬、レンは町の病院の玄関で、ガイが出てくるのを待っていた。
約束の時刻を十分過ぎている。
レンは端末の時計を確認し、もう一度自動ドアへ目を向けた。
十一分目になって、ようやくガイが姿を見せた。
作業着の左袖には腕を通さず、肩から掛けている。胸の下には固定帯が巻かれ、歩幅も普段より狭かった。
「……遅いです」
「おう」
「十一分ですよ。こっちは午前中に片付けたい仕事があるんですけど」
ガイは玄関の外へ出た。
レンはポケットから鍵を取り出した。
「九号車の鍵です。車庫の管理簿には、本人へ返却済みって書いておきますから」
ガイは右手で受け取った。
胸ポケットへ入れようとする。
途中で手が止まった。
左腕を使えないため、ポケットの口を押さえられないらしい。
右手の曲がった指も、鍵を持ち替えるには不便そうだった。
「……貸してください」
レンは鍵を受け取り、ガイの胸ポケットへ差し込んだ。
「はい。これで用事は終わりです」
「歩くぞ」
「……どこへ?」
「家まで」
レンは病院の前の道路を見た。
「バス停、反対ですよ」
「歩けと言われた」
「リハビリなら病院の中でやってくださいよ。俺は鍵を返しに来ただけで、散歩に付き合うなんて一言も言ってませんけど」
「そうか」
ガイは歩き始めた。
レンはその場に残った。
振り返るだろうと思った。
だが、ガイは振り返らない。
歩幅が小さいので、離れていく速度だけは遅かった。
(……本当に人の話を聞かないな)
レンは端末をポケットへ押し込み、その背中を追った。
病院から旧市街へ向かう道には、日陰が少ない。
八月の陽射しは強く、歩道の照り返しが靴の上から伝わってきた。
ガイは大通りへ出ず、細い横道へ入った。
「そっち、遠回りでしょう」
「日陰だ」
レンは道の先を見た。
古い商店が並び、短い庇が歩道へ突き出している。建物の間には隙間があるものの、大通りより日陰は多かった。
「……最初からそう言ってくださいよ」
ガイは庇の下を歩いていく。
日陰が途切れる場所だけ、少し速度を落とした。
レンは端末で現在地を確認した。
病院からガイの家までは、最短で一・四キロ。
今の経路なら、一・九キロ。
五百メートルも長い。
「余計に五百メートル歩くことになりますよ」
「そうか」
「リハビリなんだから、距離を増やせばいいってもんじゃないでしょう。医者には何分まで歩いていいって言われたんです?」
「疲れたら休めと」
「時間を聞かれて答える言葉じゃないですよね、それ」
ガイは足を止めた。
レンも立ち止まる。
目の前には、古い自転車屋があった。
店先に前輪を外した自転車が三台並び、奥では店員が工具を片付けている。
ガイはその店を指した。
「前は魚屋だった」
「……それが?」
「朝は、この辺が混んだ」
レンは自転車屋の前を見た。
確かに、そこだけ歩道が少し広い。
昔は荷を下ろす場所だったのかもしれない。
「今は自転車屋ですけど」
ガイはそれ以上話さず、また歩き始めた。
次の角には、空き家が一軒あった。
雨戸は閉まり、玄関の横に古い表札が残っている。
ガイは表札を一度見てから通り過ぎた。
「知ってる家なんですか」
「前は三人いた」
「家族が?」
「ばあさんと、娘と、孫」
「今は?」
「引っ越した」
「全員?」
ガイはうなずいた。
レンは端末の地図を開いた。
確かに、その家は空き家として登録されている。
だが、以前誰が住んでいたかまでは載っていなかった。
次の角でも、ガイは短い話をした。
昔は新聞販売店だった家。
道路が広がる前、車の通れなかった路地。
台風の夜だけ、水がたまる坂の下。
どの話も長くはなかった。
レンが尋ねれば、ガイは少しだけ答える。
聞かなければ、何も言わない。
「……ずいぶん詳しいですね」
「歩いてるからな」
「俺だって歩いてますけど、店の前の住人まで覚えてませんよ」
「そうか」
レンは地図へ目を戻した。
そこには道路と建物の位置が載っている。
最短経路も、通行止めの情報も確認できる。
だが、ガイが話した昔の店や住人のことは出てこない。
出動の際に役立つ情報なのか、今は分からなかった。
それでも、レンは地図を閉じなかった。
次にガイが何かを指したら、その場所を確かめようと思った。
日陰が途切れたところで、ガイが足を止めた。
右手を胸の固定帯へ添えている。
「……休みます?」
「少しな」
レンは辺りを見回した。
道路の向こうに、小さな公園がある。
ベンチまでは百メートルほどだった。
「あそこにベンチがありますよ」
ガイは首を横に振った。
そのまま、古い家の前へ歩いていく。
短い庇の下に、木製の小さな椅子が置かれていた。
ガイは椅子のそばで立ち止まる。
家の中から、白髪の老人が顔を出した。
「ああ、今日は暑いねえ」
「暑いな」
ガイは軽く会釈した。
老人も頭を下げる。
「病院の帰りかい?」
「おう」
「無理しないほうがいいよ。あんた、昔から働きすぎる顔してる」
ガイはもう一度会釈した。
老人は小さく笑い、家の中へ戻った。
レンは玄関とガイを交互に見た。
「知り合いですか」
「顔は知ってる」
「名前は?」
「知らねえ」
「……向こうは?」
「知らねえだろ」
レンは玄関を見直した。
老人はガイを登録名で呼ばなかった。
ヒーローだとも言わなかった。
ただ、病院帰りの顔見知りとして声を掛けただけだった。
「何年くらい、こうやって挨拶してるんですか」
「さあな」
「それ、覚えてないんですか」
「家は覚えてる」
ガイは庇を見上げた。
端の板が一枚だけ新しい。
「前の台風で、あそこが飛んだ」
レンも見上げた。
「それも知ってるんですか」
ガイは短くうなずいた。
胸を押さえていた手を下ろし、再び歩き始める。
レンは後を追いながら、一度だけ玄関を振り返った。
老人の名前も、ガイの名前も、互いに知らない。
それでも、あの老人はガイが病院帰りだと分かった。
レンの端末には、そういう関係を入力する欄がなかった。
商店街へ出たところで、電器屋のテレビからニュースが聞こえてきた。
店頭には大型画面が三台並び、どれも同じ映像を流している。
『不起訴処分となり釈放された男性が、遺体で発見された事件について、新たな情報です』
レンは足を止めた。
数日前、行方不明と報じられていた男だ。
画面が切り替わる。
夜の路地を歩く、黒ずんだ外装の後ろ姿が映った。
胸の紋章があった部分だけ、表面の色が違っている。
『警察は、無認可で活動する能力者の男による殺害の疑いがあるとみて、捜査を進めています』
録画映像は暗かった。
顔は見えない。
それでも、画面の下には〈無認可の男〉という文字が大きく表示されていた。
「またこいつか」
電器屋の店主が、店先へ出てきた。
「捕まって釈放されたやつを殺すんじゃ、警察も困るよな」
レンは画面の男を見た。
黒い外装の一部が補修されている。
背中を向けたまま路地へ消えるところで、映像は終わった。
『一方、ネット上には容疑者の行動を支持する声もあり、警察は情報の拡散に注意を呼びかけています』
店主は腕を組んだ。
「でも、助かったって言う人もいるんだよな。ああいうの、どう思えばいいんだか」
レンはガイへ顔を向けた。
ガイはテレビを見ていなかった。
店の前に置かれた扇風機の足元へ目を向けている。
「……知ってます?」
「何を」
「あの無認可の男です」
「噂はな」
「旧市街でも何度か目撃されてるんですよね。いつも警察より先に相手を見つけてる。何を手掛かりにしてるのか、気になりません?」
「人を殺してる」
ガイはそれだけ言った。
レンはテレビへ目を戻した。
画面の下には、警察が情報提供を呼びかける番号が表示されている。
ニュースは、死亡した男が以前起こした事件を紹介し始めた。
店主は首を横に振っていた。
ガイは、もう歩き始めていた。
レンはテレビから目を離し、その背中を追った。
少し進むと、商店街の人通りが減った。
ガイは壁へ手を添えて立ち止まった。
息を整えるまで、レンは黙って待った。
しばらくして、ガイが顔を上げる。
「行くか」
「その前に、確認させてください」
レンは端末を開いた。
「あと二週間は出動できませんよね」
「医者はそう言ってる」
「じゃあ、早くても九月ですね。もちろん、出られるかどうかは診察次第ですけど」
レンは予定表を表示した。
年度累計、二百八十点。
必要な千点まで、残り七百二十点。
「復帰したら、どこから点を取るか考えておかないと。三級を一件確保できれば百二十点ですから、そこは大きいんですよ」
ガイは壁から手を離した。
「天城」
「まだ計算途中です」
レンは画面を操作した。
「逃げた破砕能力者、まだ捕まってないんですよね。もし医師の許可が出るまでに情報を集められれば、復帰と同時に対応できるかもしれません」
「おい」
「分かってます。いきなり単独で突っ込ませたりしませんよ。三級なんだから、ほかの分署と協力する必要があるでしょうし」
レンは日付の列を指した。
「ただ、よその分署が先に確保したら、第九には点が入りません。共同案件にできるなら、今のうちに準備しておきたいんです」
ガイは画面を見なかった。
「水、あるか」
「……はい?」
「喉が渇いた」
レンは肩から提げた袋を探った。
病院の売店で買った水が一本ある。
蓋を開けて渡した。
ガイは少し飲み、返してきた。
「冷えてねえな」
「散歩に連れ回されたんで」
「そうか」
「そうか、じゃないですよ。何だと思ってるんですか、俺の午前中」
ガイは短く息を吐いた。
笑ったのかどうか、レンには分からなかった。
レンは水を袋へ戻した。
そのとき、ガイが道路の反対側を見た。
シャッターの下りた店が並んでいる。
一軒だけ、看板の文字がほとんど消えかけていた。
「何かあるんですか」
「店、閉めたんだな」
レンは端末で建物情報を開いた。
閉店済み。
営業許可の更新なし。
解体予定も、今のところ登録されていない。
「知ってる店ですか」
「前は金物屋だった」
「……今も金物屋に見えますけどね。シャッターに工具の絵が残ってますし」
「前は開いてた」
「そりゃ、店なんだから」
ガイは答えず、道を渡った。
レンも端末を閉じて後を追う。
シャッターの前には、細かな砂がたまっていた。
上の庇からは、錆びた雨どいが下がっている。
ガイはシャッターの端へ目を向けた。
レンも視線を下げた。
錠が壊れていた。
シャッターの下部に取り付けられた古い錠だ。
鍵穴の周囲に、三本の罅が走っている。
金属が外側へ膨らみ、端がめくれ上がっていた。
「……壊れてますね」
レンはしゃがんだ。
「閉店するときに外したんですかね。こんな古い錠、取り替えても仕方ないでしょうし」
ガイは何も言わない。
レンは錠へ顔を近づけた。
鍵穴そのものは潰れていない。
外から工具を差し込んだ跡も見当たらなかった。
それなのに、錠の外側が押し広げられている。
足元には、小さな金属片が一つ落ちていた。
レンは拾おうとして、手を止めた。
破片の表面には、周囲のシャッターほど錆が付いていない。
長く放置されていたものには見えなかった。
「……これ、最近割れたんですかね」
レンは端末のカメラを開いた。
まず、店の外観を撮る。
次に、錠の正面。
最後に、足元の破片を拡大して撮影した。
画面に映った錠を見て、指が止まった。
三本の罅は、鍵穴から外へ伸びているわけではない。
内部で何かが膨らみ、金属を押し広げたように見えた。
レンは写真をさらに拡大した。
(……どこかで見たぞ)
八月七日の住宅。
破砕能力者が触れた門柱も、外から殴られた形ではなかった。
表面に大きな打撃の跡はない。
それなのに、内部から割れていた。
レンは立ち上がった。
「ガイさん、ちょっと見てください」
ガイは動かなかった。
「大丈夫です。何もさせませんから。錠の形だけ、確認してほしいんです」
レンはシャッターを指した。
「これ、前に見たのと似てません?」
ガイの視線が錠へ下がった。
短い沈黙があった。
レンは端末を操作し、八月七日の現場写真を開いた。
男が触れた門柱。
内側から割れた石。
今、目の前にある錠。
二つの画像を並べる。
「……似てる」
レンは小さくつぶやいた。
ただ、これだけでは断定できない。
古い錠が別の原因で壊れた可能性もある。空き店舗なら、破損していても誰も気づかなかったのかもしれない。
それでも、気になることがあった。
「この店、いつから閉まってるんですか」
「春には閉まってた」
「八月七日より前ですね」
ガイはうなずいた。
レンはシャッターの下部を見た。
端がわずかに浮いている。
隙間から中をのぞこうとしたが、暗くて何も分からなかった。
無理に持ち上げれば、勝手に建物へ入ることになる。
レンは手を引いた。
「……交番にも知らせたほうがいいですね」
ガイは錠を見ていた。
レンは撮影した三枚を保存し、位置情報を付けた。
現場写真と見比べれば、もう少し詳しく分かるかもしれない。
だが、今ここで確かなことを言うには材料が足りなかった。
「帰ってから調べます」
「帰るぞ」
「……はい」
ガイはゆっくり道路を渡り始めた。
レンは端末を閉じ、その背中を追おうとした。
だが、足が止まった。
もう一度、シャッターを見る。
鍵穴には、傷が一つもなかった。
錠は、内側から割れていた。




