第22話 斜面の夜警
八月中旬の夜、ヴァンガードは汐見市の外れにある山道を、一人で登っていた。
舗装が途切れる手前に、古い街灯が一本立っている。ヴァンガードはその下で足を止め、携帯端末を取り出した。
昼間から保存していた記事を開く。
不起訴処分。
証拠不十分。
釈放。
画面を下へ送ると、続報が表示された。
釈放された男が、行方不明になっている。
名前は伏せられていた。使った能力も、事件の被害者についても書かれていない。
ヴァンガードは最後まで目を通し、端末を消した。
懐へ戻し、山道を外れる。
足元で枯れ枝が折れた。
黒ずんだ灰色の外装は、あちこちが補修されている。左膝には外側から金属板が当てられ、歩くたびに留め具が擦れた。
かつて胸にあった紋章は、削り落としてある。
周囲より色の薄い跡だけが残っていた。
ヴァンガードは木々の間へ入った。
夕方まで降っていた雨はやんでいる。だが、落ち葉の下には水が残り、靴を置くたびに泥が沈んだ。
斜面を横切る途中、地面に抉れた跡を見つけた。
ヴァンガードはしゃがんだ。
人間の足跡ではない。
四本の爪が土を掻き、最後の一本だけ違う向きへ伸びている。
すぐ横の木にも、同じ高さの傷があった。
傷の向きは、谷へ下っていた。
ヴァンガードは立ち上がり、斜面の下を見た。
石の多い細い沢がある。
水はほとんど流れておらず、底には大小の石が転がっていた。
遠くで、小石の落ちる音がした。
ヴァンガードは足を止めた。
すぐには進まない。
木の陰から沢を見下ろす。
何も見えなかった。
もう一度、石が転がる。
今度は少し近い。
「……いるな」
ヴァンガードは左膝の留め具を締め直し、沢へ下りた。
靴底が濡れた石を踏む。
右手には崩れた岩壁があり、その根元に黒いものが動いていた。
獣だった。
背丈はヴァンガードより少し高い。
長い前脚に対して、後脚は不自然に短い。肩から背中にかけて、硬い外殻が盛り上がっている。
岩の陰から頭が出てきた。
二つの目が、ヴァンガードへ向く。
口が開いた。
歯の間から、濁った息が漏れる。
ヴァンガードは腰を落とした。
獣の右肩に、金属の端が見えた。
外殻の間に、小さな破片が食い込んでいる。表面の塗装は剥げ、残っている色もよく分からなかった。
獣が前脚で地面を蹴った。
距離は、まだ十メートルほどある。
ヴァンガードは動かなかった。
相手の姿は見える。
足を置く場所も、走る方向も分かる。
だが、次の動きまでは見えない。
五メートル。
それが限界だった。
獣が沢を駆け上がってくる。
七メートル。
六メートル。
そして、五メートル。
ヴァンガードの目に、獣の右前脚が二つ見えた。
一つは、まだ地面を蹴っている脚。
もう一つは、その先で振り上がる脚だった。
一秒先。
次の爪は、ヴァンガードの右肩へ来る。
ヴァンガードは半歩だけ左へ動いた。
現実の前脚が振り下ろされる。
爪が岩壁を削り、四本の線が顔の横へ走った。
ヴァンガードは伸びきった脚へ手を伸ばした。
その瞬間、別の動きが見えた。
獣の左前脚が振られ、自分の腕を引き裂く。
ヴァンガードは手を引いた。
次の瞬間、獣の左前脚が通り過ぎる。
続けて右が来る。
ヴァンガードは岩壁へ肩をぶつけながら、二つの攻撃を外した。
爪の先が胸をかすめる。
削り落とした紋章の跡に、浅い傷が増えた。
「……せっかちだな」
獣は後脚を踏み替えた。
そのまま再び飛びかかってくる。
ヴァンガードは身を引いた。
一秒先に見えた爪が、現実の岩壁を叩く。
石の破片が飛び、右の頬に小さな痛みが走った。
獣は止まらない。
頭を振り、牙を向けてくる。
ヴァンガードは沢の上流へ移動した。
獣が追う。
長い前脚を使い、平らな場所では一気に距離を詰めてきた。
ヴァンガードは走りながら足元を見た。
獣は大きな石を越えるとき、後脚を一度引っ掛けている。
前脚ほど長くないため、石の間では身体を持ち上げにくいらしい。
ヴァンガードは沢の上流へ進んだ。
そこでは左右の岩壁が近づき、人一人が通れるほどの隙間になっていた。
ヴァンガードは身体を横にして、その間へ入る。
獣が迫った。
五メートル。
また、一秒先の前脚が見える。
今度は右からだった。
ヴァンガードは岩に背中をつけた。
現実の爪が顔の横を通り過ぎる。
獣は前脚を引こうとした。
だが、狭い岩の間では肘が外へ開かない。
長い前脚が、かえって邪魔になっている。
ヴァンガードは脚の外側へ回った。
獣の膝を蹴る。
関節を折るほどの力はなかった。
ただ、身体の向きが少し変わった。
獣は踏み直そうとした。
短い後脚が石に引っ掛かる。
ヴァンガードは肩を入れた。
重い。
外装の補助回路は、登録されていた頃の性能を残していない。
胸の奥で息が詰まり、左膝の金属板が鳴った。
獣の身体が押し返してくる。
一秒先。
自分が岩壁へ叩きつけられる姿が見えた。
ヴァンガードは力を抜いた。
押し返す相手を失い、獣の身体が前へ流れる。
長い前脚が岩の隙間へ深く入り込んだ。
ヴァンガードは横へ抜け、短い後脚を払った。
獣が倒れる。
頭が沢の石へぶつかった。
それでも前脚は動いた。
爪が足首へ伸びてくる。
ヴァンガードは跳んで避けた。
着地した瞬間、左膝が外へ流れる。
補修板の留め具が一つ外れていた。
ヴァンガードは片手を地面につき、身体を支えた。
獣が起き上がろうとしている。
長い前脚が岩を押し、頭が持ち上がった。
ヴァンガードは足元の石へ手を伸ばした。
両手で持ち上げる。
獣の爪が石の表面へ当たり、深い傷を残した。
その爪が離れるのを待った。
ヴァンガードは石を放した。
重い石が、獣の首の付け根へ落ちる。
硬い音が沢に響いた。
獣の前脚が止まった。
ヴァンガードはすぐには近づかなかった。
呼吸を整え、沢の両側を見回す。
別の足音はない。
獣の胸も、もう動いていなかった。
ようやく片膝をつく。
胸の登録章があった場所へ手を伸ばしかけ、止めた。
昔なら、外装の生体表示を確認するだけで済んだ。
今は表示が出ない。
ヴァンガードは手袋を外し、自分の手首に指を当てた。
脈は乱れているが、動けないほどではない。
左膝も曲げ伸ばしできた。
外れた留め具を拾い、工具入れへ入れる。
それから獣の右肩へ回った。
外殻の間に、薄い金属が食い込んでいる。
端を掴み、引いてみた。
動かない。
外殻に挟まれ、奥まで入り込んでいるらしい。
ヴァンガードは腰の小さな工具入れを開いた。
中から短い金属の箆を取り出す。
刃はない。
硬い装甲の隙間を広げるための道具だった。
ヴァンガードは外殻の割れ目へ箆を差し込んだ。
少しずつ力を掛ける。
細い亀裂が伸び、金属片の端が浮いた。
そこを指でつまむ。
もう一度、引く。
金属片が抜けた。
濡れた土が表面に付いている。
ヴァンガードは親指で拭った。
剥げ残った塗装が見えた。
外装の破片だった。
ヴァンガードはそれ以上確かめず、布に包んだ。
工具入れを閉じる。
立ち上がると、左膝の金属板がまた擦れた。
ヴァンガードは獣へ目を戻した。
肩の外殻には、金属片を抜いた跡が残っている。
しゃがみ、しばらくそこへ手を置いた。
沢の下流から風が吹いてきた。
ヴァンガードは立ち上がり、布を懐へ収めた。
山道へは戻らなかった。
沢の反対側を登り、木々の間へ入っていった。
夜半、ヴァンガードは山の中腹にある斜面へ着いた。
そこだけ木が少ない。
低い草が生え、地面のところどころで土の色が違っていた。
ヴァンガードは斜面をゆっくり歩いた。
足元に、小さな石が一つ置かれている。
その少し先にも、似たような石があった。
大きさも、置かれた間隔も違う。
ヴァンガードは石の間を踏まずに進み、何も置かれていない場所で膝をついた。
手袋を外す。
指を土へ入れると、湿った地面が崩れた。
石が多い。
大きな石を脇へよけ、小さなものを掻き出していく。
浅い穴ができた。
ヴァンガードは懐から布を取り出した。
中の金属片を手のひらへ乗せる。
月明かりの下で、表と裏を確かめた。
裏側には細い溝が一本走っている。
端の一部が欠けていた。
ヴァンガードは欠けた部分を指でなぞった。
それから、金属片を穴へ置いた。
布は入れない。
掘り出した土を少しずつ戻し、手のひらで押さえる。
穴が埋まると、指の跡が残った。
ヴァンガードは立ち上がり、斜面の端へ移った。
拳ほどの石を拾う。
戻ってきて、埋めた場所へ置いた。
石が傾いた。
向きを変え、もう一度置く。
今度は動かなかった。
ヴァンガードは手についた土を払った。
斜面には、同じような石がいくつも並んでいる。
一つには苔が付いていた。
一つは、半分ほど地面に沈んでいる。
新しい土の上に置かれた石は、まだほかと色が違った。
ヴァンガードはしばらく立っていた。
風が草を揺らす。
石は動かない。
ヴァンガードは外した手袋をはめ直した。
指先の縫い目が少し裂けている。
そのまま斜面を離れ、山を下りた。
隠れ家へ戻ったのは、日付が変わる前だった。
使われなくなった作業小屋を、そのまま住まいにしている。
屋根の一部は錆び、雨の強い日には水が落ちた。
入口の戸も、下を持ち上げなければ閉まらない。
ヴァンガードは肩で戸を押し、片手で下端を持ち上げた。
ようやく蝶番が元の位置へ戻る。
小屋の中には机と椅子が一つずつあった。
壁には古い時計。
棚には携帯食と水、それから予備の手袋が重ねてある。
ヴァンガードは椅子へ腰を下ろした。
左膝の補修板を外す。
留め具が一つ折れていた。
工具入れから細い針金を取り出し、折れた部分を仮留めする。
板を動かしてみた。
途中で引っ掛かる。
もう一度、針金を曲げた。
今度は最後まで動いた。
「……まだ使えるな」
ヴァンガードは補修板を机へ置いた。
棚から水を取り、ひと口飲む。
右の頬にできた傷が、少ししみた。
袖で拭い、机の上のラジオをつける。
雑音が混ざった。
周波数を少し変える。
深夜の地域ニュースが聞こえ始めた。
『続いて、汐見市内で発生した能力犯罪についてです』
ヴァンガードは水のボトルを机へ置いた。
『旧市街の住宅を破壊し、逃走した三級の男について、警察は引き続き捜索を行っています』
音声が一瞬乱れた。
ヴァンガードはラジオのアンテナを立てた。
『この事件では、現場に出動したヒーロー、グリットが重傷を負いました』
ヴァンガードの手が止まった。
『グリットは現在、市内の病院で療養中です。復帰の時期は未定で、当面は出動を見合わせる見通しです』
机の上には、外した膝の補修板がある。
ヴァンガードはそこへ指を置いた。
「……まだやってるのか」
誰に聞かせるものでもない、小さな声だった。
ラジオでは、別の事件が報じられている。
『また、先日不起訴となり釈放された男が、現在も所在不明となっています。警察は情報提供を求めています』
ニュースは交通情報へ移った。
翌日は、海沿いで風が強くなるという。
ヴァンガードはラジオを切った。
小屋には、時計の音だけが残った。
ヴァンガードは外装の胸へ手を当てた。
紋章を削り落とした場所には、今夜の戦いで新しい傷が増えている。
指を滑らせると、浅い溝に引っ掛かった。
ヴァンガードは手を離した。
机の引き出しを開ける。
中には、紙に包まれた物がいくつかあった。
それには触れず、下から古い写真を一枚取り出した。
角が折れ、表面には細い傷が走っている。
何度も手に取られた写真だった。
ヴァンガードは机の埃を袖で払い、その上へ写真を置いた。
何人ものヒーローが並んでいる。
今の外装とは違う。
肩の形も、胸の登録章も古かった。
前列に座った者がいて、後ろの者は少し身を寄せている。
きちんと並んだ記念写真ではなかった。
ヴァンガードは写真へ手を伸ばした。
指先が、一人の肩のところで止まる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて手を引く。
机の横に置いた水のボトルが倒れかけ、左手で受け止めた。
蓋は閉まっていた。
ヴァンガードはボトルを戻した。
写真の裏には、何かを書いた跡がある。
長い年月で擦れ、読める文字は少ない。
ヴァンガードは裏返さなかった。
壁の時計が一度、大きな音を立てた。
ヴァンガードは椅子から立ち、窓の外を見た。
遠くに汐見市の明かりが広がっている。
彼はしばらく街を見ていた。
それから机へ戻り、写真を手に取った。
何人もの顔の上を、親指がゆっくり通り過ぎる。
写真の端で、若いグリットが笑っていた。




