第19話 〇・四秒の見分け
八月上旬、第九分署の管制卓に、第四分署のタイドから四級ヴィランの交戦映像が届いた。
画面の男は、何も持っていなかった。薄い作業着に素手という姿で、警備員の盾を叩き、金属柵を引き裂いている。
レンは映像を止めた。
「……これ、本当に素手なんですか?」
『素手よ。最後まで見てみて』
共同回線からタイドの声が返ってきた。
レンは再生位置を戻した。男が右手を突き出す。手のひらが盾に当たると、厚い金属板が内側へへこんだ。
次の攻撃では、五本の指を曲げて柵へ引っかけている。指先が通った場所から、金属が細く裂けた。
「掌底なら面の打撃。指先は爪、か」
『そういうこと。案件票には手部硬化としか書いてないけど、受け方を間違えると危ないわ』
「グリットなら、どっちも肩で受けそうですね」
『だから先に渡したのよ』
レンは椅子を引き寄せた。
先月の資材置き場でも、ガイは二本目のナイフを見落として八針縫っている。今度の相手は、一本の腕で二種類の攻撃を使い分ける。
拳の起こりを見分けたときの分析は、そのまま使えそうになかった。
「手のひらが来るなら受けられます。でも、指先を硬くしたほうは無理です。問題は、どこで区別するかですね」
『そこは任せる。グリットさんの肩、まだ本調子じゃないんでしょう?』
「……本調子だったら、こっちも楽なんですけどね」
レンは男の右腕だけを拡大した。
掌底の直前、手首が立つ。引っかくときは指が開き、内側へ曲がっていく。
ただし、指の形が変わってから知らせても遅い。
ガイの反応には、今でも〇・三秒掛かる。合図が届いてから肩を動かす時間も必要だった。
(もっと前に、違いが出てるはずだ)
レンは再生位置を戻し、男の肩を画面の同じ場所に合わせた。
今度は手首を見ない。
掌底の場面では、肘が身体の内側を通っている。引っかく場面では、肘が外へ開いていた。
同じ位置から腕を動かしても、攻撃する形によって通り道が違う。
「……こっちか」
『何か分かった?』
「肘です。手首より先に動きが変わってます」
レンは二つの場面を交互に再生した。
内側なら掌底。外側なら爪。
録画では、どちらも攻撃の約半秒前から違いが見えている。
レンは合図を出す位置に印を付けた。
〇・五秒前。
ここならガイが動く余裕はある。ただ、早すぎれば相手に途中で攻撃を変えられる。
レンは印を少し動かした。
〇・四秒前。
ガイが反応する〇・三秒を差し引くと、残るのは〇・一秒しかない。
肩の向きを合わせるには、かなり短い。
「……現場で試すしかないか」
『無理に受けさせないでね』
「分かってます。相手が途中で変えてきたら、避けてもらいます」
レンは映像を保存し、机の端にある符丁の紙へ目を向けた。
六つの言葉の下に、赤い紙片が貼ってある。
〈行くな〉
先月、七語目として追加したものだ。
今日は、まだ使う予定がなかった。
午後、車庫でレンが黒い手袋を外すと、ガイは右手を差し出した。
「手、貸せ」
「はい。三秒ですね」
レンは手首を握った。
一秒目に心拍。二秒目に前腕の疲れ。三秒目には、左肩を動かすたびに右肩の筋肉まで硬くなるのが分かった。
レンは手を離した。
「……今日は右も張ってますね」
「動く」
「動くのは分かってます。問題は、どこまで受けられるかです」
レンは端末に映像を開き、掌底と引っかきの場面を見せた。
「今回は同じ腕から二種類の攻撃が来ます。掌底は受けられますけど、爪は駄目です。外装を着ていても裂かれます」
「おう」
「俺は肘の動きを見て合図します。でも、現場で相手が動きを変えたら、そっちで避けてください。録画と同じになる保証はないんで」
ガイは二つの映像を見比べた。
「内側と外側か」
「そうです。掌底なら内側。引っかきなら外側です」
「分かった」
ガイは胸の登録章を斜め下から二度叩いた。
紺色の外装が身体を覆い、二・八秒後に装甲がかみ合う。
レンは肩当ての固定帯を確かめた。タイドから譲られた古い装備は、今日も左肩に重く乗っている。
「……これ以上締めると、右肩にも負担が掛かりそうですね」
「このままでいい」
「次の更新で、もっと軽いのを探したいんですけど」
「高いぞ」
「知ってますよ。予算が出ないんだから、なおさら困るんです」
ガイは左腕を前へ出し、ゆっくり戻した。
動きはできている。ただ、肩当ての端が少し浮いた。
レンは留め具の位置を記録した。
九号車が車庫を出るころには、旧市街の市場裏を映す固定カメラも確保できていた。
駐車場の入口を斜めから見る画角だ。柵の陰に入れば相手の手元は見えなくなるが、中央の通路なら腕の動きが確認できる。
レンは映像を拡大し、無線を開いた。
『グリット、駐車場の中央なら、こっちからも相手の肘が見えます』
『分かった』
それ以上、レンは指示を増やさなかった。
旧市街の市場裏で、ガイは九号車を降りた。
警察は市場へ続く通路を閉鎖し、店員たちを建物の向こうへ避難させていた。
駐車場の中央では、男が金属柵を引き倒している。周囲には細長く裂けた破片が散らばり、警備用の盾が一枚、壁に立て掛けられていた。
盾の中央は丸くへこんでいる。
柵の切れ目は細い。
どちらも同じ手で壊したのだろう。
「来るんじゃねえ、オッサン!」
男が振り返った。
両手の皮膚が白く硬くなり、指の関節が盛り上がる。
ガイは破片のない路面へ移った。
拳なら、面で受けられる。
掌底も同じだ。
だが、尖った指先を受ければ傷が残る。溜められる衝撃にはならない。
『グリット、左右の手で使い分けているわけじゃありません。肘の向きを見ています』
「おう」
男が右腕を引いた。
肘が身体の内側へ寄る。
『掌底です』
ガイは左肩を前へ出した。
男の手のひらが肩当てにぶつかる。
装甲の奥へ重さが沈み、背中側の留め具が身体を押した。足が半歩滑ったが、受けた衝撃は残っている。
男が右手を引き、今度は左腕を上げた。
肘が外へ開く。
『受けるな』
ガイは上体を引いた。
五本の硬い指先が胸の前を通過する。外装の表面をかすめ、橙色の線が細く削れた。
男は避けられた手を見て、口を曲げた。
「何だよ。さっきは受けたじゃねえか!」
すぐに右手を突き出す。
肘は内側だった。
『――今』
レンの声に合わせ、ガイは左肩を置いた。
だが、手のひらが届く直前で男の指が開いた。
五本の指先が内側へ曲がる。
掌底から引っかきへ変えたのだ。
ガイは踏み込みを止め、腕を引いた。
硬い指が肩当ての縁を削り、表面の破片が散った。受ける姿勢を作っていた分、身体を引くのが遅れる。
ガイは一歩余計に下がった。
『……切り替えた。今の合図は早すぎました』
レンの声が聞こえた。
男はもう次の腕を上げている。
ガイは受けず、身体をひねった。指先が装甲の前を通り、背後の金属柵へ当たる。
柵に新しい裂け目が入った。
ガイは相手の手が届かない位置まで離れた。
肩の内側には、一発目の重さが残っている。しかし、そのまま待てば少しずつ抜けていく。
まだ放出するには足りなかった。
『グリット、次は少し待ってから伝えます。肘の向きが変わったら、受けないでください』
「分かった」
ガイは足元を確かめた。
男の周囲には、壊れた柵の破片が広がっている。踏み込んだときに足を取られれば、爪を避ける余裕がなくなる。
ガイは駐車場の中央へ動いた。
そこには破片が少なく、平らな路面が続いている。
「逃げんのか!」
男が追ってきた。
ガイは横へ一歩ずれた。
男の右肘が、身体の内側を通る。
手首が立つより先に、無線が鳴った。
『――今』
ガイは左肩を向けた。
掌底が当たる。
今度は足が流れなかった。
肩当ての平らな部分で衝撃を受け、重さを身体の内側へ残す。先ほどの一発分と重なり、肩の奥が熱くなった。
男はすぐに左手を振り上げた。
肘が外へ開く。
『受けるな』
ガイは半歩ずれた。
爪が肩当ての外側を通り抜ける。
「ちょこまかしやがって!」
男は両足を踏み直した。
右手を下げ、身体ごと前へ出てくる。
肘は内側だった。
『――今』
ガイは肩の角度を合わせた。
三度目の掌底が入る。
装甲を通じて重さが沈み、膝が一度曲がった。背中側まで熱が回り、左肩の動きが鈍くなる。
衝撃は十分に溜まっていた。
これ以上受ければ、放出する前に肩が動かなくなる。
男が右腕を引いた。
今度は肘が外へ開く。
ガイは受けず、腕の外側へ回った。硬い指先が空を切る。
男は振り切った腕を戻そうとした。
その一拍に、ガイは足を置いた。
左肩の奥に溜まった重さを、脚へ送る。
相手の腕はまだ戻りきっていない。
ガイは自分で位置を決め、踏み込んだ。
通常の放出だった。
肩から胴へ体当たりを当て、溜めた衝撃を一度に流し込む。
男の両足が地面を離れた。
身体が後ろへ飛び、破片のない路面へ転がる。
近くで警官の声が上がった。
「グリットが倒したぞ!」
ガイは追い打ちをせず、腰の拘束帯に手を伸ばした。
男は背中を地面につけたまま、右手を身体の下へ隠した。
「まだだ!」
男が上体をひねる。
右肘が外へ開いた。
爪だ。
ガイは腕を引いた。
だが、男の手は下から短く振り上がった。起こりが見えていても、もう距離が近すぎる。
硬い指先が左上腕をかすめた。
外装の継ぎ目が裂け、下の皮膚まで切れた。温かいものが袖の内側へ流れる。
ガイは左腕を引き、男の外側へ回った。
次の引っかきを受けないよう、膝で相手の右腕を押さえる。
左手では掴まない。
男がもがく間に、右手で拘束帯を引き抜いた。
「手を押さえろ!」
駆けつけた警官が盾を差し入れ、硬化した指先を押さえた。
別の警官が男の手首を固定する。
男の抵抗が弱まったところで、ガイは拘束帯を締めた。
警官が抑制錠を掛けると、男の指先から白い硬化が消えていく。
「確保しました! グリットさん、腕は?」
「切れた」
ガイは左上腕を右手で押さえた。
血が袖へ広がっている。
肩に溜めた重さは、もう使い切っていた。放出した衝撃で男は倒れたが、そのあとに振られた爪までは止められなかった。
救急隊員が近づいてきた。
ガイは警官が男を車両へ連れていくのを見届けてから、傷のある腕を差し出した。
夕方、第九分署の管制室で、レンは二枚の報告書を並べていた。
〈四級ヴィラン、確保。四十点〉
〈左上腕裂傷、四針縫合〉
「……勝ってるのに、また縫ってる」
ガイは処置を終えた腕を机の端へ置いた。
左前腕には、先月八針縫った傷の跡が残っている。今回はその少し上だった。
「四針で済んだ、とも言えますけど」
レンは医療記録を閉じた。
「二件続けて刃物みたいな相手ですからね。こっちも、いい加減に対策を考えないと」
ガイは包帯の巻かれた腕を見た。
「見えてたぞ」
「……何がです?」
「最後の肘だ」
レンは無線記録を開いた。
男が最後に引っかいた場面では、レンは何も言っていない。
だが、あとからボディカメラの映像を確認すると、ガイは爪が届く前に腕を引いていた。
動きには気づいていたのだ。
「見えてても避けきれなかったんですね」
「近かった」
「でしょうね。せっかく相手を倒したのに、拘束するときに怪我したら意味ないでしょう」
レンは机の上の数字を指した。
「俺の合図は途中から合ってます。掌底を受ける位置も安定しました。でも、返しはまだ使えないし、肩当ては重いままだし……」
ガイは包帯の巻かれた腕を下ろした。
「確保した」
「それは分かってます。だから、その次の話をしてるんですよ」
ガイは端末を一度見てから、車庫へ戻っていった。
レンは閉まりかけた扉を見送り、録画を再生した。
最初の合図は〇・五秒前だった。
ガイは受ける姿勢を作れたが、男が途中で攻撃を切り替え、肩当てを削られた。
そのあと、レンは合図を少し遅らせている。
〇・四秒前。
二度の掌底で、ガイの肩はどちらも適切な位置に入った。余計な踏み直しがなくなり、放出までの動きも短くなっている。
レンは二つの場面を切り出して並べた。
「……ここは、よくなってる」
少なくとも、合図の精度は上がった。
その日の査定欄に四十点を加える。
年度累計、二百五十点。
残り、七百五十点。
レンは数字を保存した。
続いて医療記録を開き、昨日までの肩の数値と、今日の記録を見比べた。
負担は増えている。
だが、現場ではまだ動けていた。
レンは翌朝の確認欄を空けておいた。
次の日、車庫へ入ると、ガイは既に九号車の横で待っていた。
左上腕には新しい包帯が巻かれている。
レンが手袋を外すと、ガイは右手を差し出した。
「手、貸せ」
「はい」
レンは手首を握った。
一秒目。心拍。
二秒目。前腕の疲れ。
三秒目で、指先に伝わる張りが変わった。
右肩の奥だ。
先週より筋肉が硬くなっている。ガイが腕を少し動かすたび、その場所に熱が集まっていた。
レンは手を離した。
「……右肩、昨日より熱いですよ」
「動く」
「またそれですか。動けばいいってもんじゃないでしょう」
レンは肩当ての固定帯へ手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止めた。
留め具を緩めれば腕は動かしやすくなる。だが、肩の奥に残っている熱まで消えるわけではない。
「今日は出動を減らします。少なくとも、続けて四級を受けるのはなしです」
ガイは返事をせず、車庫の棚から缶コーヒーを取った。
レンは端末に右肩の状態を記録した。
管制室へ戻ると、第四分署から共同回線の呼び出しが入っていた。
『レン君? グリットさん、確保したんだって?』
タイドだった。
「はい。四級で四十点です。……ただ、左腕をまた縫いました」
『聞いた。何針?』
「四針です」
『あらら。またか』
「本人はもう出動できるって顔してますけどね。俺のほうで止めないと、休まないと思います」
レンは昨日の戦闘記録を開いた。
「合図はうまくいったんです。前より短くして、〇・四秒前で二回当てました。あとは装備と身体が追いつけば、もう少し安定するはずなんですけど」
回線の向こうで、タイドが少し黙った。
『……前は、もうちょっと余ってた』
「余ってた?」
レンは端末から顔を上げた。
「何がです?」
『……ごめん。次の現場、呼ばれちゃった。また連絡するね』
通信が切れた。
レンはしばらく画面を見ていた。
それから昨日の記録へ戻り、成功した二回の合図に印を付けた。
〇・五秒から、〇・四秒へ。
たった〇・一秒の違いだったが、肩を合わせる位置は確かに安定している。
その横に、今朝確認した右肩の状態を書き足した。
〇・四秒。それでも、肩の熱は先週より高かった。




