第18話 七語目の符丁
七月下旬の朝、レンは第九分署の管制卓で、今月の出動記録を一件ずつ確認していた。
画面には完了した案件が日付順に並んでいる。先週は五級ヴィランを二人確保し、それぞれ十点を獲得した。
年度累計、二百十点。
必要な千点にはまだ遠い。それでも、更新審査までの残り期間を考えれば、今月の実績は悪くなかった。
レンは表計算の予測線を確かめた。年度末の到達見込みは、かろうじて基準を上回っている。
「……この調子なら、何とかなるか」
問題は、点数の横に並んだ出動時刻だった。
レンは一件目の記録を開いた。
『グリット、対象は南へ逃走中。追跡を続けてください』
録音された自分の声が流れる。
ところが、同時に表示した九号車の位置は南へ向かっていなかった。交差点を曲がる手前で速度を落とし、バスの停留所の前に止まっている。
レンは当時の報告書を開いた。
車の陰で転倒した歩行者を発見。安全な場所へ移動させ、警官に引き継いだ、とある。
ガイはその間、ヴィランの追跡を中断していた。対象はいったん別の路地へ逃げたが、再び追跡して確保している。
「……結果は出てるんだけどな」
レンは記録の時刻に、小さな赤い丸を付けた。
次の案件も似ていた。
『グリット、搬入口側へ回ってください。そちらが最短です』
指示から数秒後、九号車は反対の道路へ進んでいた。
後日提出された報告書には、店の裏口から従業員を避難させたと書かれている。搬入口から入れば、逃げ遅れた人たちのいる場所を通り過ぎてしまう位置関係だった。
二つ目の丸。
レンは椅子を引き寄せ、別の日の映像を開いた。
道が分からなくなった老人を警官のいる交差点まで連れていった日。車内に取り残された人を確認した日。煙が出ている住宅の裏手へ回った日。
どれも、レンが送った経路から外れている。
もちろん、現場で予想外のことが起きるのは分かっている。管制室の固定カメラだけでは、建物の裏や車の陰までは見えない。
だからこそ、レンは無線で知らせてほしかった。
(人がいるなら、そう言ってくれればいいのに)
警察へ引き継ぐのか。別の隊を回すのか。それともガイが対応するべきなのか。
知らせてもらえれば、その場で判断できる。
だが、無線がないまま九号車の位置だけが変われば、レンは理由を調べるところから始めなければならなかった。
レンは最後に、団地の安否確認を開いた。
十四分。
あの日、駅前の商店では作業員が傾いた看板のそばに取り残されていた。ガイが団地へ向かっている間も、作業員は足場から動けなかった。
結果として、どちらも無事だった。
それでも、看板があと十分早く倒れていたらどうなったか。
レンは予定表の時刻を見直した。
赤い丸を一つずつ数える。
一、二、三。
途中で別の案件を開き直し、もう一度最初から数えた。
九回。
「……九回もかよ」
折り畳み椅子の背にもたれると、脚が床の継ぎ目に引っ掛かった。
ガイが予定と違う場所へ向かった回数は、今月だけで九回あった。
短いものなら数分。長いものは十数分。どの日も最終的には案件を処理しており、査定点が取り消された記録もない。
むしろ今月は、今までより点数が増えている。
レンは一覧の右端に、新しい欄を作った。
〈指示違反〉
文字を入力してから、手が止まった。
ガイは確保するべき相手を確保している。救助した人も無事だった。現場の状況が変わったとき、指揮者の予定を守ることが必ずしも正解とは限らない。
レンにも、それくらいは分かる。
「……違反、とまでは言えないか」
入力した文字を消した。
代わりに〈予定外行動〉と打ち直し、九件の記録へ印を付ける。
画面の右端に、九つの赤い丸が並んだ。
レンは先週作った予定表を開いた。
〈無報酬は原則除外〉
その右隣には、〈了承〉の二文字が残っている。
ガイは、あのとき何も答えなかった。
(反対するなら、そう言えばいいだろ)
レンは画面を閉じ、九件分の出動時刻を印刷用の表にまとめた。
このままでは、いつか取り返しのつかない遅れが出る。
少なくとも、レンにはそう思えた。
昼過ぎ、所長室の複合機から出動一覧が吐き出された。
レンは温かい紙を取り、所長の机へ広げた。
「所長、これ見てください」
「何だい。今月の成績かい?」
「成績もありますけど、こっちです」
レンは九つの赤い丸を指した。
「俺が送った経路から、ガイさんが外れた回数です。今月だけで九回。数分で戻った日もありますけど、十数分掛かった日もあります」
所長は湯飲みを片付けながら、紙をのぞき込んだ。
「ずいぶん細かく調べたねえ」
「細かくしないと分からないんですよ。一件ごとなら大した時間じゃなくても、足したら一回出動できるくらいになります」
「なるほどねえ」
「今月は点が伸びてます。このまま続ければ、更新審査にも届く可能性があるんです。なのに、毎回予定を変えられたら計算できません」
レンは別の用紙を取り出した。
年度末までの予測表だ。赤い線は、千点の基準をわずかに上回っている。
「これ、余裕があるように見えますけど、実際はぎりぎりなんですよ。来月の点が少し落ちるだけで、また届かなくなります」
所長は線を眺め、小さくうなずいた。
「そうかい」
「……ちゃんと聞いてます?」
「聞いてるよ。今月はよく働いたねえ」
「だから、その働き方を安定させたいんです」
レンは出動一覧へ指を戻した。
「現場に困ってる人がいたら、助けるのは分かります。でも、全部ガイさんが行く必要はないでしょう。警察も消防もいるんですから」
「それで、この九件は全部、何があったか聞いたのかい?」
「報告書は読みました。映像が残ってる分も確認してます」
「ガイ君には?」
レンは口を閉じた。
直接、九件すべてについて聞いたわけではない。
「……本人に聞かなくても、記録は残ってます」
「そうかい」
「何ですか、その顔」
「いや。よく数えたと思ってね」
所長はそれ以上言わず、別の書類を手に取った。
机の端には、来年度の分署再編に関する資料が積まれている。
第九分署の所属ヒーローがいなくなれば、第七分署へ統合される。ガイの更新審査に失敗すれば、この建物も今のままでは残らない。
レンは予測表を持ち上げた。
「俺、数字でしか説明できないんですよ」
「そうかい」
「数字で説明できるなら、合わせるしかないでしょう」
所長は印鑑を押す手を止めた。
何か言いかけたようにも見えたが、結局、書類をそろえるだけだった。
レンは紙を抱え、管制室へ戻った。
机の端には、六月の訓練で作った符丁の一覧があった。
ガイとの無線連絡を短くするため、二人で決めた六つの言葉だ。
受けるな。
今。
捨てろ。
人。
任せる。
下がれ。
紙の角は折れ、何度も手袋で押さえた部分が黒ずんでいる。
レンは最後の言葉を指でなぞった。
「下がれ」。
危険な状況から離れるための指示だ。ガイは以前、この言葉には従うと約束している。
だが、今回の問題には使いにくい。
ガイが誰かを助けようとして、別の道へ向かったとする。そのとき「下がれ」と言えば、危険な場所から退避する意味に聞こえてしまう。
レンが求めているのは、その前の段階だった。
予定にない場所へ向かわないこと。
指揮者が判断するまで、今の行動を変えないこと。
レンは六語の下に、紙片を一枚置いた。
幅を合わせ、余った端を切り落とす。
黒いペンを取ろうとして、やめた。
机の引き出しから赤ペンを出し、紙片の中央へ字を書いた。
行くな。
書き終えたところで、レンは紙を持ち上げた。
短い言葉だった。
「下がれ」と違って、危険が起きているかどうかは関係ない。レンがその言葉を使えば、ガイは今向かおうとしている場所へ行かない。
それだけでいい。
少なくとも、レンが考えた使い方はそうだった。
レンは紙片を裏返してテープを貼り、六語の下へつなげた。
七つ目だけが赤い。
ほかの言葉は、現場で何をするかを短く伝えるために作ったものだった。
今回は違う。
ガイがしようとしていることを、止めるための言葉だった。
夕方、車庫ではガイが九号車のチェーンを拭いていた。
整備台には工具が並び、使いかけの布が一枚置かれている。車庫の入口からは、まだ熱の残る風が入っていた。
「ガイさん、ちょっといいですか」
ガイは手を止めた。
左前腕の包帯は以前より薄くなっている。それでも、布を置く動きは少し硬い。先月八針縫った傷は、まだ完全には治っていなかった。
レンは出動一覧を整備台へ置いた。
「七月の記録、全部調べました。俺が送った経路から外れたのが九回あります」
ガイは紙を見下ろした。
「九回?」
「はい。先週の五級ヴィラン二件でも、一件は途中で経路を変えてます」
レンはバス停の記録を指した。
「転んだ人を助けた日です。あのあと対象を確保できたからよかったですけど、もし見失ってたらどうするつもりだったんですか」
「人がいた」
「そこは分かってます」
レンは声が強くなったことに気づき、一度息を吐いた。
「俺が言いたいのは、先に知らせてほしいってことです。現場に人がいたなら、こっちで状況を確認できます。警察を呼ぶことも、別のヒーローに頼むこともできます」
ガイは紙を見ている。
「俺が見た」
「だから、その情報を俺にも送ってくださいよ。ガイさんだけが見えてても、管制室からは分からないんです」
レンは端末を開き、二つの地図を並べた。
一つは予定した経路。もう一つは、実際に九号車が走った道だ。
「例えばこの日、俺は南側に遮断板を落とす準備をしてたんです。なのに、ガイさんが反対へ曲がったら、着地点から考え直しになります」
ガイの視線が地図へ移った。
「前にも言いましたけど、射出してから着弾するまで時間が掛かります。途中で進む方向が変わったら、間に合わないことだってあるんです」
レンはそこで画面を閉じた。
「だから、符丁を増やします」
七語になった紙を取り出し、整備台へ広げる。
ガイは布で手を拭き、紙へ顔を近づけた。
レンは一番下の赤い文字を指した。
「これです。『行くな』」
ガイは声に出さず、文字を読んだ。
「この言葉が出たら、今向かおうとしている場所には行かないでください。寄り道が必要かどうかは、俺が確認します」
レンは九つの赤い丸が付いた一覧を横へ寄せた。
「近くに人がいるなら、位置を教えてください。ほかの隊を回すべきなら、俺が連絡します。ガイさんが行く必要があると判断したら、そのときはちゃんと言いますから」
ガイは紙を手に取った。
上から順に目を通し、六つ目の言葉で指を止める。
「『下がれ』とは違うんだな」
「違います。『下がれ』は危険なときに退避するための言葉です。『行くな』は、その前に使います」
レンは赤い文字をもう一度指した。
「予定にない行動をする前に止めるんです。これなら、俺も余計な確認をしなくて済みます」
ガイは黙ったまま、紙を見ている。
レンはその横顔を確かめた。
出動前なら、手首を三秒握るだけで身体の張りを感じ取れる。肩の熱や腕の疲れも、前の日と比べられる。
だが今、確かめたいのは身体の調子ではなかった。
この言葉を使ってくれるかどうか。
レンが知りたいのは、それだけだった。
「……どうです?」
ガイは紙を折り目に沿って畳んだ。
「預かる」
そう言って、作業着の胸ポケットへ入れた。
赤鉛筆の隣だった。
レンは胸の奥の力が抜けるのを感じた。
「……じゃあ、次からお願いしますよ。こっちも出動前に最善の順番を考えてるんですから」
ガイは整備台へ向き直り、置いていた布を手に取った。
レンは端末を持ち直した。
九つの予定外行動をどう減らすか、今日はそのために来た。
新しい符丁も渡せた。あとは実際の出動で使えばいい。
「それと、明日の朝、肩の状態を見せてください。先月より出動が増えてるんで、確認だけはしておきたいです」
「おう」
ガイはチェーンの続きを拭き始めた。
レンは整備台の紙を回収し、管制室へ戻った。
夜になっても、分署の管制卓には明かりがついていた。
レンは七語目の符丁を登録するため、管理画面を開いた。
もとの六語には、六月の確認日が入っている。
新しく作った七語目の行は、まだ空欄だった。
レンは今日の日付を入力し、確認者の一覧からグリットの登録番号を選ぶ。
続いて〈了承〉を押した。
画面に、七つの符丁が並んだ。
「……これでよし」
レンは出動予定表へ戻った。
来月の候補は既に選んである。四級の獣が一件、五級が二件。近場の救助案件も一つ入れられそうだった。
これまでは、途中で別の場所へ行く可能性を考え、各案件の間に余分な時間を設けていた。
その時間を少し削れば、もう一件受けられる日が増える。
レンは予定表の数字を調整した。
移動時間を短くし、空いたところへ案件を一つ追加する。
年度末の到達見込みを示す線が、わずかに上がった。
「……いける」
千点まで、あと七百九十点。
決して簡単な数字ではない。それでも、今日までに積み上げた実績がある。
ガイは強い。相手を選べば四級にも勝てるし、レンの指示が攻撃のタイミングと合えば、短時間で決着をつけられる。
足りなかったのは、出動を予定どおりに進めることだった。
そこが直れば、もっと点を取れる。
レンは七語目の確認欄をもう一度開いた。
〈了承〉
文字はほかの六語と同じ色で表示されている。
六月の訓練では、「下がれ」を使うと決めたとき、ガイははっきり答えた。
今日も、新しい言葉を書いた紙を持っていった。
それなら、次から使えるはずだ。
レンは管理画面を閉じ、翌週の予定表を保存した。
ガイは「分かった」とは言わなかった。




