第20話 七語目の向こう
八月七日の朝、第九分署に、旧市街の住宅が内側から割れたという通報が入った。
レンは現場写真を拡大した。
二階建ての家の外壁に、殴られた跡はない。ところが、柱の途中から木が裂け、屋根が片側へ大きく傾いている。
案件票の等級は三級。
能力欄には、破砕とあった。
触れた物を内側から壊す能力。硬い装甲で防いでも、接触された部分そのものが壊される。
ガイの能力では、その衝撃を溜められない。
「……よりによって、これですか」
レンは医療記録を開いた。
昨日の四級ヴィランとの交戦で、ガイは左上腕を四針縫っている。右肩の炎症も、先週より悪くなっていた。
そんな状態で三級を相手にすれば、何が起きるか分からない。
レンは端末を持ち、車庫へ向かった。
整備台の横で、ガイは既に九号車の点検を終えていた。
「手、貸せ」
「……今日は特に確認しますからね」
レンは黒い手袋を外し、差し出された右手首を握った。
一秒目に心拍。
二秒目に前腕の張り。
三秒目には、右肩の奥に残る熱が伝わってきた。
昨日より良くなったところは見当たらない。左上腕には新しい包帯があり、以前八針縫った左前腕にも傷跡が残っている。
「正直、出動させたくないんですけど」
「現場を見る」
「見るだけですよ。相手は三級ですし、能力も厄介です。破砕は打撃じゃないから、肩で受けても溜まりません」
「おう」
「現場を見て無理そうなら、すぐ帰ってきてください。今回は点数の問題じゃありませんから」
ガイは右腕を下ろし、左肩をゆっくり動かした。
レンは端末を構えた。
「肩の動きも記録しておきます。前へ上げて、戻してください」
ガイは言われたとおりに腕を動かした。
肩当てを着ける前の動作を撮っておけば、交戦後と比べられる。レンは画面の中央に左肩を収め、数秒間撮影した。
その端に、下ろした右手も映っていた。
指先が小さく動く。
レンは左肩の角度を確かめ、撮影を止めた。
「……昨日と大して変わりませんね」
ガイは胸の登録章を斜め下から二度叩いた。
紺色の外装が身体を覆い、二・八秒後に古い装甲がかみ合う。
レンは肩当ての留め具を確かめた。昨日、爪で削られた縁には補修が施されているが、重さも当たり面も以前と変わらない。
「あと、七語目。覚えてますよね」
ガイは胸ポケットのあたりに手を当てた。
「預かってる」
「……俺が言ったら、ちゃんと使ってくださいよ」
ガイは何も答えず、九号車へまたがった。
エンジンが掛かる。
レンは車庫を出ていく背中を見送り、管制室へ戻った。
管制卓の二面には、旧市街の交差点が映っていた。
問題の住宅の前に警察車両が止まり、隣家の住民が道路へ集まっている。
警官たちは住民を下がらせていた。ところが、家の正面に立つ男が動くたび、周囲の人たちが足を止めてしまう。
男は作業着の上から古い胸甲を締めていた。
その右手が、門柱に触れる。
石の表面に細い筋が走った。
次の瞬間、門柱が内側から砕け、外側の石がまとめて崩れ落ちた。
「……触っただけで、あれかよ」
レンは九号車の位置を確かめた。
現場は屋上射出機の射程内にある。ただ、住宅の周囲には警官と住民がいて、遮断板を落とせる場所が少ない。
捕縛網を使っても、男が触れば留め具ごと壊される可能性がある。
レンは射出アイテムの一覧を開いたまま、無線をつないだ。
『グリット、正面の男が三級です。今、門柱を内側から壊しました。触れるだけで破砕する可能性があります』
『分かった』
『相手の手が届く距離には入らないでください。今の装備では受けられません』
『おう』
九号車の位置表示が住宅街の入口で止まった。
レンは息を吐いた。
今日は、まず相手の動きを確認する。接近しない方法を探し、無理なら応援を待つ。
それでいいはずだった。
そのとき、住宅の二階で何かが動いた。
レンは固定カメラの映像を拡大した。
窓ガラスの向こうに、小さな手が見える。
「……人?」
女が子どもを抱いていた。
二人とも窓のそばにいる。女は片手で窓枠を押しているが、枠が歪んで開かないらしい。
レンは住宅の配置図を呼び出した。
二階から外へ出られる場所はないか。隣家との距離はどれくらいか。消防が到着するまで、あと何分掛かるのか。
次々と画面を切り替える。
しかし、現場の情報は足りなかった。
住宅の正面では、警官が男へ向かって声を張っている。
男はその声を無視し、家へ顔を向けた。
二階の窓が再び揺れる。
女が子どもを抱き寄せた。
レンは共有回線を開き、近くの救助隊を探した。
消防車両の到着予定が表示される。現場までの道路は、避難する住民と警察車両で狭くなっていた。
「……待ってくれよ」
男が片手を、家の柱へ伸ばした。
画面の端で、ガイの位置表示が動いた。
住宅の正面ではなく、隣家との間を通る道へ向かっている。
『グリット、行くな』
レンは七語目を使った。
無線は開いたままだった。
『そこは破砕の範囲です。今入ったら、アンタまで巻き込まれます。ほかの隊が来るまで待ってください!』
ガイの位置は止まらなかった。
家の側面を回り、裏手へ進んでいく。
『グリット!』
レンはもう一度、短い言葉を口にした。
『行くな!』
返事はない。
管制卓では、ガイの蓄積値がほとんど動いていなかった。
住宅に近づく位置表示だけが、少しずつ進んでいった。
崩れかけた住宅の裏手で、ガイは隣の車庫を見上げた。
二階の窓まで、車庫の屋根が続いている。外階段も途中までは残っていた。
ガイは階段に足を掛けた。
金属の段が小さく揺れる。手すりを確かめ、体重を掛けても動かない場所を選んで上がった。
九号車を降りたときから、二階の声は聞こえていた。
子どもの泣き声だ。
ガイは最後の段から屋根へ手を掛け、身体を引き上げた。
古い瓦が数枚割れている。軒先には、住宅の壁から落ちた木片も散っていた。
ガイは屋根の固い場所を踏み、窓へ近づいた。
「おい。聞こえるか」
窓の向こうで女が振り返った。
「助けてください! この子だけでも!」
ガイは窓枠へ手を掛けた。
歪んだ木は動かない。
「窓から離れろ」
女が子どもを抱え、後ろへ下がる。
ガイは肩当てを窓の端へ合わせ、ガラスを割った。残った破片を外へ落とし、木枠の一部を引き抜く。
部屋の中が見えた。
家具が倒れ、廊下へ続く扉が押し潰されている。女の片脚は、横倒しになった戸棚の下に挟まっていた。
「動けるか」
「足が抜けなくて……!」
ガイは窓を越えて部屋へ入った。
床が傾いている。
廊下の向こうから、木の割れる音が続いた。
ガイは女のそばで片膝をついた。
「子どもを先に出す」
「お願いします。この子だけでも――」
「両方だ」
女は口を閉じ、子どもを差し出した。
ガイは子どもを受け取り、窓の外へ身体を向けた。
車庫の屋根には、警官が梯子を掛けて上がってきていた。ガイが窓から子どもを差し出すと、警官が両腕を伸ばした。
「受け取れ!」
「はい!」
警官が子どもを抱えた。
子どもは母親の姿を探し、泣きながら身をよじっている。
ガイは室内へ戻った。
戸棚の側面へ手を掛ける。
左腕を添え、右手で角を持ち上げた。
肩当ての内側に重さが掛かる。昨日の負担が残る右肩も硬くなり、左上腕の傷が引きつった。
それでも、戸棚の下に隙間ができた。
「足、抜け」
女が身体をひねった。
靴が戸棚の下に残ったが、脚は抜けた。
「立てるか」
「……はい。何とか」
ガイは戸棚を下ろした。
床にぶつかる音が響く。
正面の柱が割れ、部屋全体がわずかに傾いた。
ガイは女の腕を肩へ回させ、窓まで歩いた。
女が片足を屋根へ出したところで、住宅の奥から大きな音が鳴った。
裏側の柱が、内側から裂けた。
『グリット! 対象が家の裏へ回りました!』
レンの声が無線から届く。
『南側です。そちらへ向かっています!』
ガイは窓から下を見た。
古い胸甲を着た男が、住宅の支柱へ手を伸ばしている。
警官は屋根の上で女を支えていた。子どもを抱いた別の警官は、既に梯子を下り始めている。
全員が下りるには、まだ時間が掛かる。
「おい!」
ガイは男へ声を張った。
男が顔を上げる。
「何だよ、お前! 邪魔すんじゃねえ!」
男は支柱から手を離した。
住宅の裏庭を横切り、車庫の外階段へ向かってくる。
ガイは女の背中を押した。
「先に下りろ」
「でも、あなたは……」
「行け」
警官が女を支え、梯子へ向かわせた。
ガイは屋根の端へ移った。
男は階段を駆け上がっている。残った手すりに触れた瞬間、金属が内側から裂け、階段の上半分が崩れ落ちた。
男は屋根の縁へしがみつき、身体を引き上げる。
ガイは距離を取った。
破砕は打撃ではない。
触れられれば、装甲の内側から壊される。
ガイの肩では受けられない。
男が屋根へ上がると、ガイは一歩横へ動いた。
その先には、まだ女がいた。
梯子へ足を掛けたところで動けなくなっている。警官が下から支えているが、痛む脚をうまく下ろせないらしい。
男が車庫の壁へ手を当てた。
壁の内部で木が割れる音が続く。
屋根が沈んだ。
ガイは女のほうへ身体を向け、崩れた屋根材を肩で受けた。
平らな面が装甲に当たる。
その衝撃だけは溜まった。
ガイは重さを脚へ送り、足場の残った場所へ踏み直した。
女が梯子を下りる。
警官が下から手を伸ばし、身体を受け止めた。
ガイはそれを見届けた。
次の瞬間、男の手が胸元へ伸びた。
避けようとしたが、足場が沈んでいる。
ガイの右足が動かなかった。
男の手のひらが、外装へ触れる。
胸の内側で何かが割れた。
息が止まった。
肋骨の下へ鋭い痛みが走る。装甲の表面が裂け、胸甲の内側から破片が押し出された。
蓄積値は増えない。
男がもう一度、手を伸ばす。
今度は左肩だった。
ガイは身体を引いたが、肩当ての端に指が触れた。
装甲の下で硬い音が鳴る。
左肩に痛みが走り、腕が落ちた。
持ち上げようとしても、動かない。
「何だよ。さっきまで偉そうにしてたくせに!」
男が足を踏み出す。
ガイは右足を引き、残った屋根の縁へ身体を移した。
先ほど溜めた衝撃を脚へ流し、車庫から道路へ下りる。
着地した瞬間、胸の奥が痛んだ。
膝が折れ、片手を地面につく。
男は追ってこなかった。
屋根を越え、住宅の向こうへ走っていく。
『対象、裏路地へ逃走! 警察が追跡します!』
レンの声が届いた。
『グリット、もう追わないでください! その場で待ってください!』
ガイは顔を上げた。
道路の向こうで、女が座り込んでいる。
子どもは警官の腕から下ろされ、母親へ向かって走ろうとしていた。
警官が手を添え、二人を引き合わせる。
女は子どもを抱き寄せた。
ガイはそれを見てから、地面についた右手へ力を込めた。
立ち上がろうとする。
しかし、息が吸えなかった。
胸を動かすたび、内側が鋭く痛む。
外装の警告音が耳の奥で鳴った。蓄積値はほとんど残っていないのに、呼吸の数値だけが乱れている。
警官が駆け寄ってきた。
「グリットさん! 動かないで!」
ガイは返事をしようとした。
口は開いたが、声が出なかった。
その背後で、住宅の二階が崩れた。
さっきまで母親と子どもがいた窓が、屋根と一緒に沈んでいく。
土ぼこりが道路へ広がり、警官が母子を抱えて下がった。
ガイは崩れた家を見た。
窓のあった場所に、もう人影はない。
胸を押さえていた右手を離すと、指先が細かく震えていた。
夜、町の病院で、レンは診断書を受け取った。
肋骨の骨折、三本。
左肩関節周辺の損傷。
呼吸に負担を掛ける運動の制限。
全治六週間。
「……六週間?」
レンは診断書を持つ手を止めた。
医師は外装の損傷写真を開いた。
胸甲の内側に複数の亀裂が走り、左肩の装甲も内側から壊れている。外から強い打撃を受けたときとは、まるで違う壊れ方だった。
「肋骨は三本折れています。肩の損傷もあるので、安静が必要です。当面の出動は認められません」
「……本部の医療施設なら、もっと早く治せるんじゃないですか」
「現在の適用等級では、こちらでの治療になります」
レンは口を閉じた。
高い等級の医療施設を使うには、ガイか自分のランクを上げる必要がある。
以前、ガイの右手を治せると知って印刷した医療案内が、頭をよぎった。
今は、それを考えている場合ではなかった。
「六週間、出動できないんですね」
「少なくとも、今の診断ではそうなります」
レンは診断書を受け取り、病室へ向かった。
ガイはベッドに横になっていた。
上体を起こそうとして看護師に止められ、背中を下ろす。息を吸うたび、掛け布団が胸のあたりでわずかに動いた。
「……母子は無事だそうです」
レンはベッドの横に立った。
「二人とも検査を受けましたけど、大きな怪我はなかったって」
「そうか」
「ヴィランは逃げました。警察が追跡したけど、まだ見つかってません」
ガイは窓の外を見ている。
レンは端末を開いた。
「三級の確保なら百二十点でした。でも、今回は救助の三十点だけです。年度累計は二百八十点。まだ七百二十点も必要なんですよ」
言い終わってから、レンは診断書へ目を落とした。
全治六週間。
その数字が、査定点よりも大きく見えた。
「……六週間も動けなかったら、残りをどうするんですか」
ガイは答えなかった。
レンは端末を閉じた。
「それに、言いましたよね」
ガイの視線が戻る。
「行くなって。あれ、先月ちゃんと説明したでしょう。紙にも書きましたし、確認欄にも了承って入れました」
レンは声を抑えようとした。
だが、次の言葉は少し大きくなった。
「どうして聞かなかったんですか」
返事はなかった。
ベッドの横で、医療機器の小さな音が続いている。
「……あの家に人がいたのは分かります。でも、ほかの隊が来るまで待つ方法だってあったでしょう」
ガイは右手を動かした。
掛け布団の端に指が触れる。
何かをしようとして、途中でやめた。
レンはその手を見た。
今朝、三秒握った手首だった。
あのときも右肩の熱が残っていた。昨日の傷も、治ったわけではなかった。
それでも、出動を止めなかった。
「……今日は、もう帰ります」
「おう」
レンは端末を持ち、病室を出た。
廊下の椅子へ座ると、手元には診断書と出動記録が残った。
録画専用のボディカメラは、壊れた胸甲と一緒に回収されている。破損する前までの映像は保存されていた。
レンはそのデータを開いた。
画面が揺れる。
家の裏手へ回る途中の映像だ。
二階の窓が映り、女の腕が伸びてくる。ガラスの向こうから、子どもの泣く声が聞こえた。
画面はそのまま窓へ近づいていく。
やがて、ガイが子どもを抱き上げた。
レンは再生を止めた。
病室の中から、看護師が薬について説明する声が聞こえてくる。
レンは別の記録を開いた。
管制室の無線だ。
『グリット、行くな』
自分の声が流れた。
そのあとにも、もう一度同じ言葉が入っている。
『行くな!』
返事はない。
レンは無線の記録を閉じた。
現場で何が起きていたか、ボディカメラには残っている。それでも、なぜガイが止まらなかったのかは分からなかった。
端末の一覧を下へ動かす。
朝の車庫で撮影した、左肩の動作記録があった。
レンはそれを開いた。
ガイが左腕を前へ上げ、戻す。
肩の動きは硬い。
昨日と大して変わらない。朝にもそう判断した映像だった。
レンは再生を止めようとして、画面の端に目を留めた。
右手が映っている。
もう一度、最初から再生した。
ガイの右腕は下ろされたままだった。
左肩を動かす間、右手の指先が小さく動いている。
レンは映像を止めた。
少し戻し、拡大する。
もう一度再生した。
ガイの指は、出る前から震えていた。




