第16話 A等級の紙
七月上旬、第九分署の管制室で、レンはネット記事の訂正申請先を探していた。
造成地の四級ビーストを倒したのはガイだ。
本部へ提出された討伐報告書にも、チカが入力した登録名が残っている。それなのに、記事の見出しはハウンドの激闘。本文も第七分署の連携による討伐としか書かれていなかった。
「討伐者の名前くらい載せろよ……」
レンは本部の事務画面を開いた。
査定点の訂正、成果報酬の訂正、登録情報の訂正。似たような書類が十数枚並んでいる。
報道内容の訂正申請はなかった。
「……ないのかよ」
検索条件を変えてもう一度探す。今度は報道窓口の案内が見つかった。
レンはすぐに開いた。
〈掲載内容については、各媒体へお問い合わせください〉
「いや、だから、その問い合わせ先が欲しいんですけど」
記事の末尾まで戻って確認する。
問い合わせ欄に並んでいるのは、広告掲載と利用規約についての項目だけだった。
編集部への連絡先はない。
「名前一つ直すのに、どこへ送ればいいんだよ……」
レンは椅子の背にもたれた。
公式記録が正しければ、四十点は取り消されない。自分の指揮者加算にも影響はない。
それでも、記事を読んだ人間には、グリットが何をしたのか分からない。
画面の端には、あの日の討伐記録が残っていた。
レンはそれを閉じようとして、第七分署の桐生が言った言葉を思い出した。
『来年、ここの管内もうちで見るかもしれませんね』
(……何であいつ、あんなこと言ったんだ?)
来年の管内。
第七分署との境界が変わるという話は、今まで聞いたことがない。
レンは端末で管轄図を検索したが、表示されたのは去年のものだった。
「所長に聞くか」
印刷するついでに確認すればいい。
レンは椅子から立ち上がった。
所長室には古い複合機が置かれている。
管制室の機器は何度も修理されているが、複合機だけは故障するたびに所長が部品を交換して使い続けていた。
「所長、管轄図の新しいやつ、どこにあります? 第七との境が分かるほうです」
「棚の二段目だよ。ああ、その封筒の下かな」
所長は電卓から顔を上げなかった。
机の脇には予算申請の書類が積まれている。書類の端には、赤鉛筆で数字がいくつも書き込まれていた。
レンは棚から薄い封筒を持ち上げた。
その下に、見慣れない書類が一枚あった。
〈次年度分署再編・統合先一覧〉
「……統合?」
何気なく目を走らせたレンの指が、途中で止まった。
表の左端に、第九分署の文字がある。
統合先の欄には、第七分署。
その間にある条件欄には、短い一文が記されていた。
〈所属登録ヒーロー不在の場合〉
「……所長」
「何だい」
「これ、どういう意味ですか」
所長が電卓を置いた。
「見つけたかい」
「第九が第七に統合されるって書いてありますけど」
「そうだねえ」
「いや、そうだねえ、じゃなくて!」
レンは書類を持ったまま机へ近づいた。
「所属ヒーローがいなくなった場合って……うち、ガイ一人ですよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、更新審査に落ちたら?」
「グリットの登録が抹消されるね」
「そのあと、第九もなくなるんですか」
所長はレンの持つ書類へ目を向けた。
「給水が足りなきゃ、ホースごと畳まれる」
「……たとえ話じゃなく、普通に言ってくださいよ」
「来年の机は、第七へ運ぶことになるね」
レンは書類を見直した。
何度読んでも条件は同じだった。
第九分署には登録ヒーローが一人しかいない。年度末の更新審査でガイが基準に届かなければ、その一人がいなくなる。
そして、分署ごと統合される。
「待ってください。じゃあ俺の担当実績も……」
「グリットが抹消されたら、今年の分は無効になるね」
「……嘘でしょ」
レンは所長室の扉の向こうを見た。
管制室には、一人用の古い卓がある。モニターは四面しかなく、折り畳み椅子は立ち上がるたびに床を鳴らす。
車庫には九号車があった。
壁の塗装は途中で止まり、整備台には吊りタイヤの訓練記録が残っている。
この数か月、少しずつ使い方を覚えてきた場所だ。
「俺はどうなるんですか」
「本部から次の配属が来るだろうね」
「……また更新審査が近いヒーローですか」
「その可能性は高いねえ」
レンは口を閉じた。
ようやくガイの動きが少し読めるようになった。前回は初めて、実戦で「今」の合図も合った。
ここまで積み上げたものが、次の職場で使えるとは限らない。
(最初から、そう言ってくれよ)
所長は書類を受け取り、折れた角を指で直した。
「管轄図なら、これだよ」
封筒の横から一枚抜いて差し出してくる。
「第七との境は去年と同じだ」
「……それじゃ、桐生が言ってたのは」
「来年の話だろうねえ」
レンは地図を受け取った。
「所長、これ、いつから知ってたんですか」
「通知が来たときからだよ」
「何で教えてくれなかったんです?」
所長は電卓へ手を戻した。
「千点取る仕事は、変わらないからね」
レンはしばらく、その手元を見ていた。
確かに必要な点数は変わらない。
だが、失敗したときに失うものが増えた。
「……俺にとっては、結構違いますけど」
所長は何も言わず、電卓を打ち始めた。
レンは管轄図を持って所長室を出た。
昼過ぎ、ガイが通院から戻ると、レンは医療費の処理画面を開いていた。
ガイの左前腕には、まだ保護用の包帯が巻かれている。
先月の四級ヴィランに切られ、八針縫った場所だ。造成地ではその腕をかばって動き、肩にも負担を増やしていた。
「診療記録、届いてます。傷の処置は機関負担なんで、俺のほうで入力しておきます」
「おう」
「次の出動は、傷が落ち着いてからにしてくださいよ」
ガイは椅子を引かず、机の横に立った。
「あの子、どうなった」
「……あの子?」
「怪我は」
レンの指が止まった。
ガイは自分の腕ではなく、壁のモニターを見ている。
そこには、造成地のネット記事が残っていた。
「ハウンドですか?」
「おう」
「今の公開情報だと療養中です。脚の詳しい結果は出てませんけど、命に別状はないそうですよ」
「そうか」
ガイは缶コーヒーを机に置いた。
レンは記事の画面を閉じる。
「アンタのこと、散々馬鹿にしてたじゃないですか。『ロートルは下がれ』とか。そこまで気にする相手です?」
「怪我したんだろ」
「……まあ、そうですけど」
レンは言い返しかけて、やめた。
ガイが気にしているのは、ハウンドの言動ではないらしい。
現場で誰かが怪我をした。そのことだけを聞いている。
「先に自分の腕を気にしてください。縫い目、まだ塞がりきってないでしょう」
ガイは包帯を見下ろした。
「使える」
「使えるのと治ってるのは、別です」
レンは医療費の確認欄を押した。
そのとき、本部からの案内が添付文書として開いた。
〈登録ランク別・医療支援のご案内〉
E・Dランクは一般医療。C・Bランクは専門施設での処置。
A・Sランクの欄には、再生医療と書かれていた。
レンは画面を下へ送った。
そこにある小さな文字で、指が止まる。
〈適用する医療等級は、担当ヒーローと指揮者のうち、高い方の登録ランクを採用する〉
「……え?」
レンは説明欄を広げた。
A等級では、古い骨折によって変形した骨や、腱、神経の損傷にも処置が可能と書かれている。
レンはガイの右手を見た。
薬指と小指が曲がったままになっている。初日の握手で触れた、あの硬い指だ。
今も、きちんと拳を握ることができない。
「これ……古い骨折も治るって書いてます」
「おう」
「……知ってたんですか」
「知ってる」
レンは画面を指で押さえた。
「だったら何で。前はBランクだったんでしょう? Aの指揮者が付けば、治療を受けられたんじゃないですか」
ガイは包帯のない右手を開いた。
曲がった二本の指が、ほかの指に遅れて動く。
「順番が来なかった」
「……順番?」
ガイはその手で缶コーヒーを持った。
「午後、車庫にいる」
それだけ言って、管制室を出ていった。
レンは返事ができなかった。
扉が閉まってから、もう一度医療案内を見る。
条件は変わらない。
ヒーロー本人か担当指揮者のどちらかがAに達すれば、再生医療を受けられる。
ただし、治せるのは損傷だ。
年齢による反応速度の低下まで、元に戻せるわけではない。
レンはガイの担当履歴を開いた。
登録番号が何行も並んでいた。
着任した指揮者。異動した指揮者。別の分署へ移った指揮者。
昇格履歴をたどっても、ガイを担当していた間にAへ到達した者はいない。
「……何人いたんだよ」
ガイは三十八歳だ。
十八歳で登録してから二十年。その間に、何人もの指揮者が入れ替わっている。
ガイは、その全員を見送ってきた。
そして、指は曲がったままだ。
レンは自分の登録情報を開いた。
Eランク。
画面の一番下に、小さな印が付いている。
(俺がAになれば……)
ガイの指を治せる。
その事実だけは分かった。
だが、今の自分はEランクだ。
更新審査まで残り八百六十六点。まずは年度末を越えなければ、第九分署そのものがなくなる。
Aランクなど、まだ先の先だ。
「……遠すぎるだろ」
レンは医療案内を閉じかけた。
途中で手を止める。
少し考えてから、A等級のページだけを印刷した。
複合機から出てきた紙は、まだ温かかった。
夜、駅前のラーメン屋で、レンは同期の宮田と向かい合っていた。
「お前から飯に来るとか、マジで珍しいじゃん」
「お前が毎回うるさいからだろ。今日で一回消化したことにして」
「ポイントカードかよ」
宮田は笑いながら箸を割った。
レンも箸を手に取ったが、すぐには食べなかった。
「そういや、お前んとこのグリット、四級倒したんだって?」
「ああ」
「記事見たけど、名前なかったな」
「記録にはある。ハウンドの指揮者がちゃんと書いてくれた」
「へえ。ならよかったじゃん」
「記事がそのままだと、何も知らないやつには分かんねえだろ」
宮田は箸を止めた。
「お前、そういうの気にするんだ」
「俺の査定まで消えるのが嫌なだけ」
「報告書が正しいなら消えないだろ」
「……まあな」
レンは麺をすすった。
宮田はスープを一口飲み、スマホを伏せる。
「でさ。お前、受け直さないの?」
「何を」
「ヒーローの試験」
レンの箸が止まった。
宮田はそのまま続けた。
「三年間、あっちの課程にいたんだろ。実技は駄目だったかもしれないけど、現場の動きは分かるじゃん」
「……何が言いたいんだよ」
「管制一本で行くのかなって」
レンは丼を見た。
湯気が上がっている。
三年前、レンはヒーローになるつもりで養成課程へ入った。
最後の実技試験で、目の前の要救助者へ向かうことができなかった。
二階の窓。赤いヘアゴム。
助けを呼ぶ声がしていた。
八分間、足が動かなかった。
「お前んとこ、指揮者三人いるんだろ」
「え?」
「俺に一人くれよ。一人くらい余るだろ」
「余らねえよ。ゼファーが動くとき、三人で手いっぱいだもん」
宮田は苦笑した。
「……話、ずらしたな」
「ずらしてない。人手不足の話だろ」
「そういうことにしとくか」
宮田はまた麺をすすった。
レンも箸を動かした。
「……伸びる麺、先食えよ」
「もう伸びてるって」
宮田はそれ以上、試験のことを聞かなかった。
帰宅したレンは、部屋の小さな机に医療案内を広げた。
椅子に掛かっていた洗濯物を移し、紙の四隅を手で伸ばす。
〈A・S 再生医療〉
右端には、治療できる損傷が並んでいた。
骨。腱。神経。
その下には、加齢による反応速度の低下は対象外と記されている。
ガイの反射は〇・三秒。
返しに必要な〇・一秒には届かない。
仮に指が治っても、それだけで昔の技を取り戻せるわけではなかった。
それでも、拳を握れるようにはなる。
レンは自分の財布を開いた。
交通系のカードと、ボディカメラを買った日のレシートが入っている。
札入れの奥は薄いままだ。
今日、所長室で見つけた統合先一覧を思い出す。
まずは千点。
それを越えたとしても、Aランクまでは長い。
レンは紙のA等級の欄を、もう一度指でなぞった。
そこへ印を付けようとして、やめた。
印がなくても、もう覚えている。
レンはA等級の案内の紙を折って、財布に入れた。




