第10話 九秒の沈黙
五月下旬の午後、第九分署の管制卓に、五級の通報が二件続けて入った。
一件目は旧市街の商店。男が店先のガラスを割り、店内へ押し入っている。
二件目は道路を挟んだ向かいの駐車帯。別の男が、停車中の車を拳で壊していた。
「二人組かよ……」
レンは二件の案件票を並べた。
警察から届いた画像には、二人が連れ立って歩く姿が写っている。どちらも五級の腕力強化。外装や武器の使用は確認されていない。
場所は近い。一人のヒーローでも、道路を渡れば両方へ向かえる距離だった。
だが、同時には動けない。
レンは二件とも受諾し、車庫へ呼び出しを送った。
『こちらグリット』
「旧市街で五級が二人です。片方は商店内、もう片方は向かいの駐車帯。二人とも腕力強化で、今のところ武器はありません」
『おう』
ガイの出動準備が始まった。
レンは固定カメラを切り替えた。
商店では、男が出入口近くの棚を蹴り倒している。店員らしい人影が奥へ下がったが、倒れた棚に隠れて見えなくなった。
もう一方の画面では、男が車の側面を殴っていた。
窓ガラスが砕ける。歩道にいた人が驚いて車道へ飛び出し、走ってきた車が急ブレーキをかけた。
「危なっ……!」
レンは屋上射出機の画面を開いた。
残弾は三発。
捕縛網で一人を押さえれば、ガイがもう一人を確保できるかもしれない。
だが、商店の入口へ網を落とせば、中から逃げてくる店員まで巻き込む。
車道側には遮断板を使える。けれど、歩行者の動きが読めない。設置場所を間違えれば、かえって逃げ道を塞いでしまう。
レンは商店の映像を拡大した。
棚の向こうに人影はない。
いや、見えないだけだ。
車道側の画面を大きくする。男が別の車へ歩き始めている。警官が通行人を遠ざけようとしていた。
(先にどっちだ?)
商店には逃げ遅れた店員がいるかもしれない。
車道では、今も通行人が危険にさらされている。
商店を選べば、車道が手薄になる。車道を選べば、店内の人を男と二人きりにしてしまう。
レンは射出地点の指定欄へ指を動かした。
商店。
車道。
もう一度、商店。
どちらにも決められなかった。
『グリット、二件とも位置は近いです。まずは――』
そこで言葉が止まった。
折り畳み椅子の脚が床を鳴らす。
画面の中では、二人の男がまだ動いている。
『天城』
ガイの声だった。
レンは口を開いた。
何か答えなければならない。どちらを優先するのか。網を使うのか。板を使うのか。
考えるほど、間違えたときの光景が浮かんだ。
『商店へ行く』
九号車の位置表示が曲がった。
ガイは車道側の交差点を通り過ぎ、商店の裏へ向かっている。
「……グリット、商店側ですね」
レンはようやく声を出した。
「奥に店員がいる可能性があります。先に安全を確認してください。車道側の男は、こちらで位置を追います」
『分かった』
返事は短かった。
レンは車道側のカメラを監視しながら、射出位置を指定し直そうとした。
だが、男は車の陰を移動している。
網を落とす場所が定まらない。
発射ボタンには、まだ触れられなかった。
*
商店の裏手で九号車を止めたガイは、店内から響く金属音へ顔を向けた。
車庫で展開した紺色の外装には、タイドから譲られた肩当てが付いている。
左腕を前へ出すと、肩当ての下端が背中側の装甲に触れた。前のものより重く、受ける姿勢を取るたびにわずかな引っかかりがある。
胸元のボディカメラでは、赤い録画灯が点いていた。
ガイは裏口から店へ入った。
床には壊れた箱と商品の袋が散らばっている。倒れた棚の向こうで、若い男がレジ台を持ち上げようとしていた。
「誰だ、てめえ!」
男がレジ台から手を放した。
その奥に、伏せた人影が見える。
棚の下ではなく、棚と壁の間だ。店員らしい男が頭を抱えている。
「そこにいろ」
ガイが声を掛けると、店員は小さく頷いた。
「無視してんじゃねえ!」
男が拳を振り上げた。
狭い店内だ。ここで暴れさせれば、棚の陰にいる店員まで巻き込まれる。
ガイは通路を塞ぐ位置へ進んだ。
相手は腕力強化。拳による面の打撃なら、衝撃を溜められる。
男が踏み込む。
ガイは左肩を前へ出した。
肩当ての下端が背中の装甲を押す。
拳が当たった。
衝撃が肩から胸へ沈む。ガイは左足を踏みしめ、入ってきた力を逃がさずに受けた。
男の拳が離れる。
その瞬間、ガイは身体を前へ出した。
受けた衝撃を、そのまま相手へ返す。
かつて何度も繰り返した動きだった。
だが、腕が届かない。
男の拳はもう引かれていた。返そうとした上体だけが遅れて前へ流れ、右手が相手の脇を空振りする。
足元で木片が砕けた。
「何だよ、それ!」
男が笑った。
ガイは踏み直そうとしたが、左肩が思うように動かなかった。
肩当てが装甲に引っかかり、受けた衝撃の重さだけが残っている。
もう、返せる間合いではない。
男が二発目を振った。
ガイは顔を引いて避けた。拳が棚の角を砕き、木片が頬の横を飛んだ。
左肩の奥が熱い。
昔なら、最初の一発で終わっていた。
今は違う。
身体が動き出すまでの、ほんのわずかな遅れ。その間に、相手は次の動作へ移っている。
ガイは肩を使う構えをやめた。
男が三発目を振り上げる。
ガイはその腕の外へ回り込み、肘を押さえた。相手の勢いに合わせて一歩引くと、男の肩が前へ流れる。
「うおっ!」
体勢を崩した男の膝が床についた。
ガイは背中側へ回り、片腕を押さえた。腰のホルダーから拘束帯を抜き、手首へ掛ける。
男が身体をねじる。
ガイは逃げ道を塞ぎ、帯を引き締めた。
「離せ、この野郎!」
「動くな」
男の腕が止まった。
店の奥から、押し殺したような息が聞こえる。
ガイは店員へ目を向けた。
「けがは」
「……大丈夫、です」
「そこにいろ。警察が来る」
男がもう一度暴れようとしたが、立ち上がるための腕を使えなかった。
『グリット、商店内の対象はどうなっていますか。車道側の男が南の路地へ移動しています』
『一人押さえた』
『警察が到着します。引き渡しをお願いします』
直後、裏口から警官が二人入ってきた。
ガイは拘束帯を押さえる手を離さず、男の位置を伝えた。警官が両腕を確保したのを見てから、ようやく立ち上がる。
店員が棚の陰から出てきた。
割れた商品を踏まないように、足元を見ながら歩いている。
ガイは通路を空けた。
「もう出ていい」
「……ありがとうございました」
店員は警官のほうへ向かった。
ガイは左肩を一度回した。
装甲の内側で、鈍い痛みが残っていた。
*
商店の外へ出ると、道路には車の窓ガラスが散らばっていた。
車道側の男はもういない。
警官が通りの先を指す。
「あっちの路地へ逃げました! 南側です!」
『グリット、最後の固定カメラでは南の路地へ入っています。その先は死角です』
ガイは路地へ向かった。
曲がり角を一つ越える。
その先で道が三つに分かれていた。左右の通路には裏口が並び、奥の道は別の商店街へつながっている。
足音は聞こえなかった。
ガイは立ち止まり、周囲を見た。
走れば追いつけたかもしれない。
だが、店内の男を放置していれば、あの店員は逃げることもできなかっただろう。
『対象一人が逃走。警察へ捜索を引き継ぎます』
『おう』
ガイは来た道を戻った。
左肩が動くたび、厚い肩当てが背中の装甲をこすった。
*
夕方、第九分署の車庫でレンは九号車の帰りを待っていた。
ガイが停車すると、すぐに近づく。
「先にカメラを外します。録画、止めてませんよね」
「触ってねえ」
レンは外装の胸からボディカメラを取り外した。
録画灯を確認して停止し、端末へ接続する。
ガイはそれを待ってから登録章を操作した。紺色の外装が収納され、皺の付いた作業着に戻る。
レンは出動記録を開いた。
確保、一人。
逃走、一人。
査定見込み、十点。
年度の累計は五十四点になった。
「……一人逃げました」
「おう」
「確保一人で十点です。二人なら二十点だったんですよ」
ガイは九号車の鍵を抜いた。
「分かってる」
「だったら、何で勝手に商店へ行ったんですか」
レンは端末を持ち上げた。
「こっちは両方のカメラを見て、射出先を考えてたんです。車道には通行人だっていました。せめて、どっちを優先するか確認してから動いてくれれば……」
「天城」
ガイが鍵をポケットへ入れた。
「管制室に、何人いる」
「……一人ですけど」
「お前が黙ったからだ」
レンは言葉に詰まった。
「そういう話じゃないでしょう!」
端末には、二件の受付時刻が並んでいる。
ほぼ同時だった。どちらを先にするか判断する時間くらい、あってもいいはずだ。
「判断してる途中だったんですよ。俺が指示を出す前に、そっちが動いたんじゃないですか」
ガイは言い返さなかった。
車庫の壁からタオルを取る。
左腕を上げたところで、動きが止まった。少し待ってから右手に持ち替え、首の汗を拭う。
レンはその動きを見た。
端末には、ボディカメラから取り込んだばかりの録画がある。
「それと、もう一つ」
レンは商店内の映像を再生した。
男の拳が迫り、画面が大きく揺れる。
ガイが前へ出た瞬間、男の身体が横へ外れた。
「ここです」
レンは一時停止した。
「受けたあと、何かしようとしてますよね。前に聞いた『返し』ってやつですか」
ガイはタオルを畳んだ。
「昔はな」
「昔は?」
レンは画面を見直した。
最初の拳を受けたところまで戻し、速度を落とす。
男の腕が引かれる。
少し遅れて、ガイの身体が前へ動いた。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬で相手は間合いの外へ出ている。
「……今はできないってことですか」
返事はなかった。
「できないなら、試さないでくださいよ」
レンは思わず声を強めた。
「あそこで姿勢が崩れなければ、もっと早く確保できたかもしれない。そうしたら、もう一人のほうへ回れた可能性だってあります」
ガイは黙っている。
「それに肩当て。やっぱり合ってないじゃないですか。前に確認したとき、引っかかるって言ってましたよね」
「言ったな」
「だったら、出動前に外しておけば――」
「天城」
ガイは畳んだタオルを棚へ戻した。
「今日は終わりだ」
出口へ向かう。
レンは端末を整備台へ置いた。
「ちょっと、待ってください」
片方の手袋を外す。
黒い布が整備台に落ちた。
レンはガイの腕を素手で掴んだ。
触れた瞬間、手のひらへ重さが流れ込んだ。
「……え?」
外から見れば、ただの太い腕だった。
だが、内側では筋肉が細かく震えている。力を抜いたと思った場所が、すぐに張り直される。
肩から背中にかけて、いくつもの筋肉が同時に緊張していた。
まっすぐ立っているだけなのに、身体のあちこちが余計な力を使っている。
レンは指を離せなかった。
左肩には今日の打撃による熱が残っている。
それとは別に、右肩の奥にも深い熱があった。
今日できたものではない。
もっと前から、そこにある。
ガイが少し動いた。
その小さな動きだけで、腕の内側が強く張った。
レンの指先まで痺れが伝わる。
(……何だよ、これ)
さっきの映像が頭に浮かんだ。
拳を受けてから、前へ出ようとした動き。
遅れた一瞬。
肩が動かなかったのではない。
動かすために、あれだけの負担がかかっていた。
「……いつから、こんな」
言いかけたところで、声が出なくなった。
ガイは腕を引かなかった。
レンが手を離すまで、そのまま待っていた。
やがてレンは指をほどき、整備台の手袋を拾った。
はめ直そうとしても、指がうまく入らない。
「帰るぞ」
「……どうぞ」
ガイは車庫を出ていった。
レンは見送らず、手袋の縫い目をしばらく押さえていた。
*
夜の管制室で、レンは二件の出動記録を開いた。
商店への侵入。
車道での器物破損。
ほとんど同じ時刻に発生した二つの案件票が、画面に並んでいる。
確保一件、十点。
逃走一件、加点なし。
年度累計、五十四点。
レンは数字を閉じた。
代わりに、最初の無線記録を再生する。
『グリット、二件とも位置は近いです。まずは――』
自分の声が途切れた。
そのあと、短い沈黙がある。
『天城』
ガイの呼びかけ。
返事はない。
固定カメラには、商店の男が棚を倒す姿が映っている。もう一方では、車道の男が次の車へ歩いていた。
レンは再生を止めた。
椅子を引き寄せ、時刻の表示を拡大する。
もう一度再生した。
今度はガイの位置表示を追う。
九号車が交差点へ近づいている間も、自分は何も言っていなかった。
『商店へ行く』
ガイが先に行き先を決めた。
そのあとで、ようやく自分の声が入る。
『……グリット、商店側ですね』
レンはそこで映像を止めた。
三度目は、音を消して再生する。
二件の通報。
固定カメラの切り替え。
発射地点を行き来する照準。
そして、何も選ばれないまま止まった自分の指。
射出機の使用履歴も開いた。
出動前、三発。
出動後、三発。
一発も使っていない。
網も板も、使える状態だった。
ただ、撃つ場所を決められなかった。
レンは机に手を置いた。
ガイの言葉を思い出す。
『お前が黙ったからだ』
勝手に商店へ向かったのは、確かにガイだった。
だが、自分が先に指示を出していれば、ガイは別の動きをしたかもしれない。
網を使えたかどうかは分からない。
二人とも捕まえられたとも限らない。
それでも、指揮者として何も決められなかった時間だけは、記録から消せなかった。
レンは無線が途切れた時刻と、最初の指示が入った時刻を並べた。
一度、数字を確かめる。
間違いではなかった。
レンの指示が出るまでに、九秒かかっていた。




