【十七】-1 単独撃破
【十七】
悲しみの奔流。
前の歴史では味わうことがなかった、
自分の一部が目の前で決定的に損なわれた感覚。
かつては、これをエルシア一人に味わわせてしまっていた。
ノーマンが戻ってきた時、
彼女が放心し、半ば廃人となっていたのも頷ける。
胸を掻きむしって、そのままに蹲っていたいような脱力と、爆発の矛盾。
忍者修行から帰った時のエルシアは、
一人でどれだけ自分を責め続けたのだろうか。
今にも消えそうな背中を思い出し、
目元を拭って心を新たにする。
「そうだ。まだエルがいる」
今の彼女は完全に正気を失い、
こちらを殺そうと剣を振るわんとしている。
それでも少なくとも、
ノーマンの至宝たるエルシア・ループライトは生きている。
「せめて……あいつだけでも……」
まだすべてを喪ったわけではない。
そう強引に言い聞かせ、
萎えかける足を叱咤する。
まだ彼女は生きている。
勝てる見込みは、
限りなく薄い。
だが、やらなければゼロだ。
である以上は、
やらなければならない。
「本当は、過去に戻った時は、
強くなった大軍を率いて挑むつもりだったんだがな……
ここから領民を呼ぶわけにもいかないか」
左手にトマホークを一本握り、
口にもう一本を咥える。
右腕を喪ったことで、
身体の重心には著しいズレが生じていた。
だが、リチャードが戦っている間、
静観せざるを得なかったことで、
結果的に体力だけは回復している。
考えるべきは、
この最悪の事態を打開する唯一の一手。
エルシアを乗っ取った剣邪が、
極小の機械を使っていると分かったのなら、
狙うべきは、その機構そのものだ。
「血骸の巡礼者」
背後の人影が、
ナノマシンで構成されたエルシアの剣を受けた。
斜めに捌いて力の流れを変え、
空いた脇腹へ、
ノーマンが左手に握ったトマホークの斧頭の平を叩き込む。
剣邪の動きが、
精彩を欠いている。
リチャードとの戦いが、
肉体か、あるいはナノマシン群そのものに、
大きな負担をかけたのだろう。
そうでなければ、
巨人すら打ち倒した剣邪が放つ一撃を、
今の巡礼者が受け止めきれるわけもない。
認めたくはない。
だが、右腕を喪った直後の激痛と混乱、喪った大量の血。
戦場をリチャード一人に任せて無様に呼吸を整えたことで、
戦える程度には持ち直していた。
失った血も、
なくなった腕も戻ってはいないが、
身体を動かす余力だけは取り戻せている。
つくづく、この身体が小さすぎるのが恨めしい。
もっと早く大きくなれていたら、
どれだけのことができただろうか。
ノーマンは、口に咥えていたトマホークを、
オフィスライトを握る彼女の手首へ向け、
首のスナップだけで投擲した。
エルシアは巨大な刀身を引き戻し、
その腹でトマホークを弾く。
傷一つ与えられない。
それでも、
小回りの利かない大剣を動かさせたことで、
大きな隙が生まれた。
続けて左手のトマホークも投げ、
弾かれた方を空中で掴み、
並走する形で敵の懐に潜り込んだ。
接近するのは容易い。
しかし、近接になると
相手は大剣ではなくナノマシンの剣を振ってくる。
撹乱用の投擲したトマホークだけでは、
目眩ましにもならず、
もろともに剣で押しのけられた。
受け止めたトマホークが軋む。
しかし、折れても砕けてもいない。
間違いない。今の剣邪は力が大きく減退している。
「嫌になるよな、エル。
俺達、まだ十三歳だっていうのに」
今のエルシアは、
片手に大剣オフィスライトを、
もう片方に剣邪自身が生み出した剣を握っている。
二振りの剣を同時に使っているのが、
現在のエルシアの異常な状態だった。
二振りの剣を奪えずとも、
リチャードから受けたダメージを引きずっている今が、
父の遺した唯一の好機と見るほかない。
ナノマシンを凝集させた剣よりも強力な武器を手にしたのなら、
剣邪の性質上、オフィスライトを手放しはしないだろう。
だが、エルシアの身体では、
超大剣を扱うには体格が全く足りない。
小柄な身で巨大な武器を使えば、
動きの起点も軌道も予測しやすくなる。
オフィスライトの振り下ろしを避け、
風圧によって吹き飛ばされる勢いを、
身を捻って回転力へ変える。
「千赤忍法・血骸の巡礼者!」
回転斬りでは、
攻撃を通せるほどの威力は出ない。
だが、反応は引き出せた。
小回りの利かないオフィスライトを、エルシアはまたも盾として構えた。
その背後から、
巡礼者が剣を突き刺す。それも躱された。
だが巡礼者は、
かつての剣士としての己を再現した存在だ。
技巧もその通りになぞっている。
あらかじめ巡礼者に掴ませていたワイヤーを、
刺突に見せかけた早業で剣邪の両脚へ巻きつける。
さらに巡礼者がワイヤーを引き上げ、
そのままエルシアの両腕までまとめて拘束した。
「御免!」
ノーマンの手刀が、
エルシアの首筋を叩く。
人体の経絡を正確に打った。
人としての神経が残っているのなら、
これでしばらくは動きを封じられる。
リチャードが消耗させる前なら、
これくらいをやったところで動きは一切鈍らなかっただろう。
しかし、今ならそれだけでも動きを遮ることができる。
リチャードとの共闘で、
剣邪にはナノマシンという極小の機械が関わっていると分かった。
リチャードが巨大鎧を纏い、
広範囲攻撃を幾度も浴びせたことで、
剣邪を構成するナノマシンの群体にも、
相当な負担がかかっている。
自己修復機能があるにしても、
まだ完全には修復を終えていないと見ていい。
忍法の中には、実践したこともなく、
成功するかどうかすら全く分からないものがある。
その一つを、ノーマンは思い出していた。
──これは、我らに反逆した、目に見えないほど小さな機械を停止させる周波数だ。人間の感情や思考は、生体電流が運ぶ情報によって形作られている。その電流を訓練で強め、指向性を持たせ、特定の波へ整えるのだ。
──習う意味ないでしょう、それ。目に見えないものをどうやって認識しろと。使われた時点で終わりじゃないですか。
──誰も使ったことはないが、必ず修めよとの伝承だ。それだけの価値を、先達は見いだしていたのだろう。
「本当に使う日が来るとはね」
皮肉に口元を歪める。
リチャードとの共闘時に使わなかった最大の理由は、
そもそも効果があるという確信を持てなかったからだ。
だが、それを除いても、
いくつかの実戦面における理由がある。
一つは、発動までに時間がかかること。
ノーマンは、左手に残していたトマホークも足元へ落とした。
こめかみを左人差し指で、
一定の拍子を刻むように三度叩く。
それによって、脳が発する電流を特殊な波へ変える。
高速かつ広範囲な破壊の中を縫わなければならなかった先ほどの戦闘では、
実行することなど不可能だった。
もう一つは、
相手に対して完全に無防備な姿を晒すことだ。
失敗すれば、そのまま斬られて終わる。
リチャードが亡くなった以上、
安全な成功というのはなくなった。
やるしかない。
エルシアの未来、生命、幸福は、
ノーマンのすべてを捧げてでも求めるものだ。
ただの機械に好き勝手される人形になるくらいなら、
少年の残りの命を全額ベットしてでも取り戻す。
手遅れになれば、
ノーマンには、もう生きる理由がない。
やる以外の選択肢は、
どこにも残されていなかった。
左の掌を、
エルシアの額へ押しつける。
そして最後の理由は、理論だけを修め、
一度も使ったことがないということだ。
なぜなら、生体電流を特殊な波へ変え、
他者へ流そうとすると、
自分の脳細胞や内臓まで焼かれる危険がある。
しかも、そこまでして電流を流したところで、
ダメージのみならボウガンや手裏剣を放った方が遥かに強い。
「忍法・粒子破壊!!」
脳から脊髄へ。
脊髄から左腕へ。
人体の内側を通り抜け、
特殊な波を持つ電流がエルシアへ流れ込んだ。
予想以上の異常な負荷が、意識へ襲いかかる。
喉の奥に、身体の内側が焦げた臭いがせり上がった。
脳や内臓を含め、身体の内側の組織へ、
いくつもの焼けつくような激痛が走った。
実際に、何箇所かが熱によって損傷したことも、
感覚だけで分かる。
発動した瞬間に意識を失わず、
即死もしなかったこと自体が奇跡的な幸運だった。
それだけは、はっきりと断言できる。
「おいたはここまでだ、お嬢様」
エルシアを剣邪たらしめていた純白が、
モザイク状の霧となって膨らみながら、
その輪郭を失ってほどけていく。
それを構成するものすべてが、
個別に命令を実行する機械だという。
かつての文明が、
どれほど想像を絶する領域へ到達していたのかが分かる。
だが、今のエルシアは、
ついに完全な無防備となった。
ナノマシンで構成されていた剣は、
純白の霧とともに崩れ去る。
ノーマンはワイヤーを締め直してエルシアの全身を拘束し、
巡礼者と力を合わせ、
彼女の身体をオフィスライトから遠くへ引き離した。
さらに、周囲へ落ちた二本のトマホークを巡礼者に蹴り飛ばさせ、
巡礼者自身が握る剣も消す。
一切の刃物を、
彼女の手が届かない場所へ遠ざけた。
いずれナノマシンが再起動すれば、
剣も再び構成されるだろう。
手足を縛った程度では、
永遠に封じ込めておくことなどできない。
それでも、彼女を屋敷へ連れ帰るだけの時間は稼げるはずだ。
「さあ、帰るぞ。エル。
まだ帰る場所は残ってるんだ。
前の歴史と違って──」




