【十五】-1 文明
【十五】
それは前の歴史にだけ存在した、
今はもう世界から消え去り、
少年の胸にだけ残された思い出だった。
ループライト家に連れてこられたばかりの少年は、
贔屓目に見ても、恩知らずで強欲な餓鬼そのものだった。
筋肉など一切ついていない、針金めいた腕と脚。
周囲の誰にも気を許せず、警戒心を剝き出しにしたまま目だけをかっと見開き、
ぎょろぎょろと、絶えず周囲を睨みつけていた。
「ご飯だよ」
リチャードに付き添われ、
エルシアが食事を載せたトレイを運んできた。
卵と大豆がふんだんに入ったスープ。
硬いパンは細かく千切られ、柔らかくなるようスープに浮かべられている。
手間もコストもかかった食事だ。
立ち上がる力さえ失っていたノーマンは、
慢性的な栄養不足によって、
ろくに起き上がることもできないまま、身ぎれいにだけされて横たわっていた。
指一本、思うようには動かせない。
差し出された食事を、
しばらく獣のように威嚇していたものの、
空腹に耐えきれず、上半身ごと食事へ縋りついた。
しかし、力加減も分からない掌が、
椀を叩き落とす形になった。
木製の椀が壊れることはなかったが、
中身は床へぶちまけられた。
目の前で両親を殺された衝撃と、
誰にも顧みられず、膝を抱えて生き延びてきた半生が、
人を信用することと、与えられたもので満たされること、
何よりも言葉を発する術を忘れさせていた。
せっかくの食事が床へこぼれた。
それでもノーマンは迷うことなく寝台から身を滑らせ、
床へ落ちながら、散らばったスープへ舌を伸ばした。
「ダメッ」
血相を変えたエルシアが、
ノーマンを止めようとする。
だが、ノーマンは栄養に飢えきっていた。
獣のように唸り、残された力を振り絞って、
力の入らない腕を必死に振り回した。
今のエルシアなら、
剣を握っていなくとも容易に避けられただろう。
だが、この頃の彼女は病弱だった。
衰弱した少年の爪すら避けきれず、
手に引っかき傷を負ってしまう程度には。
「平気かい?」
リチャードが気遣わしげに、
娘の両肩へ手を置いた。
驚いたように目を丸くしていたエルシアだったが、
次の瞬間には、ノーマンの首筋へテーブルナイフをぴたりと当てていた。
反応することさえできない早業。
その一動作だけで、
半狂乱になっていた獣は命の危機を感じ取り、動きを止めた。
「ダメだよ。君は人間なんだ。
いや、ループライト家に足を踏み入れた者は、
全員が尊厳と誇りを、一本の芯として胸に通すんだ」
「…………!?」
「さあ、だからこうして──」
エルシアはそう言うと、
床へ散らばった食べ物を拾い上げ、
再び椀の中へ戻していった。
「さあ。これが最低限、人間として食べる形だよ」
その時のノーマンには、
エルシアの言葉の意味が分からなかった。
床に転がった食べ物をそのまま食べることと、
わざわざ椀へ戻してから食べること。
その二つに、
どのような違いがあるのか理解できなかった。
「スプーンだ。これを握って」
力のろくに入らない手へ、
食器を押しつけられた。
ノーマンはそれを握り、
渡された食事を、自らの手で口へ運んだ。
「いつになったら動けるようになるかな」
「まだ先だな」
「早く起きられるようになってね。
一緒に、遊びたいの」
二人は、ノーマンが言葉を知らないと思って
話しているのかもしれない。
実際には相手の言葉をしっかりと理解していた。
そのうえで、
エルシアの意図がまるで掴めなかった。
一緒に遊びたいとは、
いったいどういうことなのか。
どうにか食事を終えたノーマンは、
リチャードの手で再び寝台へ戻された。
「見ていてね」
先ほどノーマンの首筋へ押し当てたテーブルナイフ。
それを手に、
エルシア・ループライトは舞った。
「おっと、動かないでくれよ」
ノーマンが寝かされたベッドを、
リチャードが丸ごと下から持ち上げた。
天井に鼻先がぶつかりそうな高さだったが、
ノーマンはベッドと天井の隙間から顔を出し、
眼下で何が起きているのかを見下ろした。
狭い室内。
その中でエルシアは細い手足を伸び伸びと器用に動かし、
身体全体で、刃と一緒に踊っている。
スカベンジャー。
モヒカンの死体からも、
襲われた人々の死体からも持ち物を漁り、
それを売り捌いて生計を立てる、
モヒカンの中でも最も卑しい種類の者たち。
それがノーマンの両親だった。
死体の懐を探り、
死にかけている者をつけ回し、
金になると見れば、自ら死へ追い込むことさえあった。
そして息子にも、
それこそが正しい生き方なのだと教えていた。
だからこそ、
その時に見たエルシアは、ノーマンにとって初めての美だった。
初めて触れた豊かな感情であり、
初めて心を動かされたものだった。
後になって色々なことを知れば、
ただエルシアが趣味で剣を振り回していただけだと分かる。
それでも当時のノーマンにとって、
彼女こそが初めて触れた『文明』と呼べるものだった。
「どうかな。
ただ危ないだけに思えるなら、すまないね。
娘がどうしても君に見せたいと言って、聞かないんだ」
「ど……」
両親が死んで以来、
初めてノーマンが自ら口を開いた。
「どうやるの?」
ノーマンはこの日、
エルシアの剣を通して初めて、
モヒカンから文明へと足を踏み入れた。
それは彼にとって、
何物にも代えがたい、とても大切な思い出だった。
その刃は、
ノーマンを人間へと引き上げてくれた。




