第二話 満月の夜と、隠された階段 パート3
第二章 黒猫の予言
第二話 満月の夜と、隠された階段
パート3
「……未来が、また軋んだ」
ルナの言葉が神殿に落ちた瞬間、鏡のように静まり返っていた『記憶の泉』の水面に、かすかな波紋が広がった。
アルカディアの巨大な瞳が、すっと細められた。神殿を満たしていた穏やかな空気が、にわかに重く沈む。
「視たのだな。……『黒い月』を」
「ああ。昼下がり、雨の森の奥深くでだ。ただの幻影ではない。はっきりと、世界律のひずみを感じた」
ルナは首元に巻かれた深い青の首輪――そこに結ばれた小さな銀の鈴へ、そっと前足を添えた。
「そして、これが鳴った。数百年の間、ただの飾りだったこの鈴が、世界律の軋みに共鳴して震えたのだ」
その報告を聞き、アルカディアは深く、あまりにも深い溜め息をついた。
その吐息だけで、神殿の中に一陣の風が吹き抜ける。白竜がまとう響きには、長い時を生き抜いた者だけが背負う、深く重い後悔の色が混じっていた。
「……ノクス。世界の底に沈められた、誰にも聞き届けられなかった悲しみの泥水。その封印が、いよいよ限界を迎えようとしているか」
ノクス。
怒りや悲しみ――行き場を失った感情が、長い時間をかけて澱み、意思を持った影の群れ。
彼らは、世界を滅ぼしたいわけではない。
ただ、誰にも受け止められなかった痛みを、世界中に響かせようと泣き叫んでいるだけなのだ。
「かつて我らアルテミアの民は、世界の痛みを直視しきれず、それを黒い湖へと封じ込めた。私の知恵が、あの悲しき影たちを怪物に変えてしまったのだ」
「己を責めるな、アルカディア。あれは……あの時代では、それが限界だった」
悔恨を滲ませる師を、ルナは静かに、けれど力強く遮った。
「封印が綻び、世界がまた黒く染まろうとしているのなら――私が食い止める。月の守護者として、この命に代えても」
ルナの脳裏に浮かんだのは、温かい紅茶の匂いと、足裏にやさしい古木の床だった。
そして、傷ついた客のためにそっと音を整えるレオンの後ろ姿と、割れたカップを前に慌てふためくエリアの姿だった。
あの騒がしくて愛おしい居場所を、不協和音の波に呑ませるわけにはいかなかった。
「一人で背負うつもりか、ルナ。あの黒い月を視たのならわかるはずだ。今度のひずみは、お前がこれまで鎮めてきたような、小さなノクスではないぞ」
「わかっている。だが……」
ルナは、金色の瞳をきゅっと伏せた。
無意識のうちに、尻尾の先が不安げに揺れている。
「あの二人だけは、巻き込めない」
それは、何百年も孤独に世界を見守り続けてきた守護者がこぼした、たった一つの弱音だった。
ひどく不器用で、人間くさい弱音だった。




