第十六話 灰色の谷と、日常の響き パート2
第十六話 灰色の谷と、日常の響き
パート2
谷に広がっていた灰色の泥が、ゆっくりとうねり始めた。
地面そのものが。
息をするように。
重く。
鈍く。
持ち上がっていく。
灰。
泥。
霧。
どれとも言えないものが寄り集まり。
やがて。
人でも。
獣でもない。
巨大な灰色の輪郭となって、エリアたちの前へ立ち塞がった。
顔はない。
目もない。
口もない。
それなのに。
見られている。
そんな感覚だけが、じわじわと胸へ染み込んでくる。
「……これが」
エリアが息を呑む。
これまで向き合ってきたノクスとは、何かが違った。
咆哮しない。
怒らない。
悲鳴も上げない。
ただ。
そこにいるだけで。
自分たちの中にあるものを、少しずつ灰色にしていく。
『――もう、いいだろう』
声ではなかった。
冷たい泥水のような思念が、直接胸の奥へ染み込んでくる。
『もう、頑張らなくていい』
エリアの指先が、わずかに震えた。
『帰らなくてもいい』
「……っ」
『守らなくてもいい』
胸の奥。
ルナの顔が。
一瞬。
ぼやけた。
『何も望まなければ』
灰色の影が、わずかに揺れる。
『失うこともない』
「……やめて」
エリアが小さく呟く。
けれど。
敵は止まらない。
『喜ばなければ、失っても苦しまない』
『愛さなければ、傷つけられない』
『期待しなければ、裏切られない』
『もう』
一拍。
『何も、しなくていい』
その言葉は。
脅しではなかった。
怒鳴り声でも。
呪いでもない。
疲れ切った者へ差し出される。
柔らかな毛布のようだった。
だからこそ。
怖かった。
エリアの肩から。
少しずつ。
力が抜けていく。
(だめ……)
分かっている。
これは罠だ。
それなのに。
(ちょっとくらい……)
そんな考えが浮かぶ。
(休んでも……)
ルナを助ける。
カフェへ帰る。
みんなで笑う。
そのために。
ここまで来た。
なのに。
その理由さえ。
どうでもよくなっていく。
「エリア!」
レオンの声がした。
「……っ」
エリアが顔を上げる。
レオンは『銀の音叉』を構えていた。
けれど。
その手も。
わずかに震えている。
「僕の声、聞こえる?」
「……はい」
「なら」
レオンは息を整える。
「まだ、大丈夫だ」
自分自身にも言い聞かせるように。
そう言って。
銀の音叉を弾いた。
――チィン……。
澄んだ音。
けれど。
いつものように広がらない。
金色の波紋が生まれる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
灰色の影へ届く前に。
光は。
すぅ、と。
灰へ染み込む水のように。
消えた。
「……やっぱり」
レオンの表情が曇る。
「響きが、届かない」
もう一度。
音叉を弾く。
――チン……。
今度は。
さらに短い。
「レオンさん……」
「ノクスを調える以前の問題だ」
レオンは唇を噛んだ。
「音そのものが、ここでは長く残れない」
灰色の影から。
また思念が流れ込んでくる。
『無駄だ』
『響かせても』
『誰にも届かない』
レオンの手が。
一瞬だけ下がる。
「……誰にも」
その言葉に。
エリアの胸が跳ねた。
「レオンさん!」
「……っ」
レオンが我に返る。
蜂蜜色の瞳が揺れている。
怖い。
疲れている。
痛い。
全部。
隠していない。
だから。
まだ戻れる。
「だったら……」
エリアは一歩前へ出た。
「私が」
右手を伸ばす。
「壊すべきものを見つけます!」
琥珀色の光が、指先へ集まる。
これまでなら。
壊すべき核。
殻。
歪んだ結び目。
そうした「違う響き」を探せた。
けれど。
「……ない」
エリアの目が見開かれる。
どこを見ても。
同じだった。
灰色。
泥。
影。
すべてが。
同じ鈍い響き。
「どこ……?」
手を向ける。
右。
違う。
左。
そこも。
同じ。
「どこを壊せば……」
琥珀色の光が。
狙いを失う。
やがて。
細い光の粒となって。
灰の中へ散っていった。
『無駄だ』
敵の声が。
今度は。
少しだけ近く感じた。
『お前の手にも』
『もう』
『意味はない』
「……っ」
エリアの指先から。
力が抜ける。
悲しい。
はずだった。
悔しい。
はずだった。
でも。
その感情さえ。
長く続かない。
『楽になれ』
『立たなくていい』
『帰らなくてもいい』
『忘れてしまえ』
灰色の影が。
ゆっくりと二人へ近づく。
足元の泥が。
まとわりつくように這ってくる。
「……くっ」
レオンの膝が。
ゆっくりと地面についた。
「レオンさん!」
背中の傷。
連戦の疲労。
そして。
谷そのものが押しつけてくる、重い倦み。
それらが。
少しずつ。
立ち続ける理由を奪っていく。
「……僕」
レオンがかすれた声で呟く。
「どうして……立ってるんだろう」
「……!」
エリアの胸が締めつけられる。
それは。
敵の言葉なのか。
レオン自身の言葉なのか。
もう。
分からなかった。
エリアも。
足に力が入らなくなる。
膝が落ちる。
ざり。
音は。
やはり途中で消えた。
二人は。
並ぶように。
灰色の地面へ膝をついた。
「……私たち」
エリアが呟く。
「何しに……来たんでしたっけ」
その言葉を口にして。
自分で。
怖くなった。
でも。
怖いという感情さえ。
すぐに。
薄れていく。
『それでいい』
灰色の影が。
満足したように。
わずかに揺れた。
『何も思わなくていい』
『何も望まなくていい』
『そのまま』
『眠ればいい』
灰色の泥が。
地面を這う。
ゆっくり。
ゆっくり。
二人の足元へ。
逃げなければ。
そう思う。
なのに。
身体が動かない。
いや。
違う。
逃げたいと思うことすら。
薄くなっている。
足元では。
コハクも。
低く身を伏せていた。
瑠璃色の『真実の窓』は。
灰色の膜に覆われ。
ほとんど光を失っている。
「コハク……」
エリアが手を伸ばそうとする。
けれど。
途中で。
腕が落ちた。
『もう』
『いいだろう』
灰色の泥が。
いくつもの細長い影となって立ち上がる。
触手のように。
ゆっくり。
音もなく。
二人へ伸びてくる。
エリアは。
目を閉じかけた。
その時だった。
――ことん。
「……え?」
エリアの瞼が止まる。
あまりにも。
小さな音だった。
戦いの音ではない。
魔法の音でもない。
剣も。
雷も。
咆哮も。
何もない。
ただ。
木のテーブルへ。
カップを置いた時のような。
そんな音。
「……カップ?」
胸元。
『月響の鈴』が。
ほんのわずかに揺れていた。
――ことん。
もう一度。
今度は。
はっきり聞こえた。
灰色の谷では。
音はすぐに消える。
なのに。
その小さな音だけは。
消えなかった。
――カラン。
次に。
細い金属音。
スプーンが。
カップの縁へ触れたような。
懐かしい音。
エリアの琥珀色の瞳が。
わずかに開く。
「……これ」
胸の奥に。
何かが浮かぶ。
木のテーブル。
湯気。
紅茶。
蜂蜜。
不格好なスコーン。
窓辺。
猫。
「……ルナ」
声が。
出た。
『月響の鈴』が。
また。
揺れる。
――ころん。
何かが。
床を転がる音。
猫のおもちゃ。
――にゃあ。
遠くから。
聞こえた気がした。
――ふふっ。
誰かの笑い声。
――お待たせ。
別の声。
――今日は割らなかったね。
「……っ」
エリアの胸が。
ぎゅっと。
痛くなる。
今度は。
その痛みが。
消えなかった。
「……帰りたい」
ぽつり。
エリアが呟く。
灰色の影が。
初めて。
わずかに揺れた。
『…………』
「私……」
エリアは胸元の鈴へ。
そっと手を添えた。
「帰りたい」
もう一度。
今度は。
少し強く。
「カフェに」
レオンが。
ゆっくりと顔を上げる。
蜂蜜色の瞳が。
まだ灰色に曇っている。
けれど。
そこに。
ほんの少しだけ。
光が戻っていた。
「……紅茶」
かすかな声。
「飲みたいな」
エリアが。
泣きそうな顔で笑った。
「はい」
――ことん。
また。
カップの音。
「私が淹れます」
「……それは」
レオンの口元が。
ほんの少しだけ。
動く。
「ちょっと不安かな」
「ひどいです!」
その声は。
弱い。
けれど。
確かに。
谷へ響いた。
灰色の影が。
再び揺れる。
今度は。
明らかに。
戸惑うように。
エリアの胸元で。
『月響の鈴』が。
小さく。
小さく。
鳴り続けていた。
それは。
新しい魔法の音ではなかった。
世界を救うための。
偉大な響きでもなかった。
ただ。
帰りたい場所にあった。
ありふれた。
日常の音だった。




