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第十六話 灰色の谷と、日常の響き パート3

第十六話 灰色の谷と、日常の響き


パート3




――ことん。


また。


カップを置く、小さな音がした。


灰色の谷では、音はすぐに薄れてしまう。


それなのに。


その音だけは消えなかった。


――カラン。


スプーンが、カップの縁に触れる音。


「……紅茶、飲みたいな」


レオンが、かすかに笑った。


「私が淹れます」


「それは、ちょっと不安かな」


「ひどいです!」


弱々しい声だった。


それでも。


確かに二人の間を行き来した。


エリアは、胸元の『月響の鈴』へそっと手を添える。


――チリン……。


今度は。


その音に重なるように。


胸の奥から、別の音が蘇ってきた。


『……ありがとう。ここに来て、なんだか少しだけ元気が出ました』


「……あ」


エリアが目を見開く。


雨の日だった。


濡れた服のまま店へ入ってきた女性。


温かい紅茶を両手で包み。


しばらく猫たちを眺めたあと。


帰り際に、少しだけ笑ってくれた。


扉が開く音。


雨上がりの店先へ遠ざかっていった、軽い足音。


「覚えてる……」


――チリン。


また。


鈴が鳴る。


『……猫は何も言わないから、全部聞いてくれる』


今度は。


少年の声。


「ノアくん……」


迷い込むように、猫カフェ『ルナ』へやって来た少年。


最初は。


うつむいてばかりだった。


何を話せばいいのか分からないように。


それでも。


猫の隣に座って。


少しずつ。


ぽつり、ぽつりと。


自分のことを話し始めた。


鉛筆が紙を走る、かすかな音まで。


なぜだか。


思い出せるような気がした。


『ここの紅茶は、不思議と落ち着くね』


『また来ちゃったよ』


『今日は、この子空いてる?』


『この前より、ちょっとだけ元気になった』


次々と。


言葉が蘇る。


大きな出来事ではない。


誰かの運命を変えたわけでもない。


世界を救ったことなんて。


一度もない。


ただ。


疲れて来た誰かが。


少し休んで。


猫を撫でて。


紅茶を飲んで。


ほんの少しだけ。


来た時より軽い顔で、店を出ていった。


それだけだった。


それだけの。


小さな日々だった。


「……私たち」


エリアの声が震える。


琥珀色の瞳から。


涙が一粒、こぼれた。


「ちゃんと……何かできてたんですね」


灰色の地面へ。


涙が落ちる。


音はしなかった。


それでも。


胸の奥に生まれたものは。


もう、消えなかった。


「大きなことじゃなくても」


エリアは続ける。


「誰かがちょっと笑って帰ってくれたなら」


もう一粒。


涙が落ちる。


「それで……よかったんですね」


隣で。


レオンが、ゆっくりと息を吐いた。


「うん」


背中へ痛みが走ったのか。


一瞬。


顔をしかめる。


それでも。


銀の音叉を杖代わりにはせず。


自分の足で。


ゆっくりと立ち上がった。


「僕たちがやってきたこと」


蜂蜜色の瞳が。


灰色の向こうを見る。


「ちゃんと、誰かの中に残ってたんだね」


エリアも。


地面へ手をつく。


腕に力を込める。


すぐには立てなかった。


足は重い。


指先も痛む。


身体は。


もう、とっくに疲れている。


灰色の囁きも。


まだ消えていない。


『無駄だ』


低い思念が。


また胸へ染み込んでくる。


『いずれ失う』


『いずれ忘れる』


『何も残らない』


エリアの動きが。


一瞬だけ止まる。


けれど。


今度は。


それだけだった。


「……そうかもしれない」


『…………』


灰色の影が。


わずかに揺れた。


エリアは。


ゆっくりと顔を上げる。


「いつか忘れられるかもしれない」


手のひらへ。


力を込める。


「お店だって、ずっと同じままじゃないかもしれない」


レオンが。


静かにエリアを見る。


「でも」


エリアは。


膝を立てた。


「だからって」


もう片方の足も。


地面を踏みしめる。


「今、笑ったことまで無駄になるわけじゃない」


そして。


立った。


ふらつく。


それでも。


立っていた。


『月響の鈴』へ。


そっと手を添える。


「美味しいって言ってもらえたこと」


――ことん。


「また来るねって言ってもらえたこと」


――カラン。


「猫を撫でて、少しだけ笑ってくれたこと」


――にゃあ。


今度は。


すぐ近くから。


本物の声がした。


「……コハク」


足元で。


コハクが立ち上がっていた。


まだ。


脚には力が入りきっていない。


左の瑠璃色の『真実の窓』も。


灰色の膜を完全には振り払えていない。


けれど。


その奥へ。


少しずつ。


瑠璃色の光が戻り始めている。


「にゃあ!」


もう一度。


力強く鳴く。


エリアは涙を拭った。


「……うん」


笑う。


「無駄じゃないよね」


コハクは。


「にゃっ」


と。


短く答えた。


その横で。


レオンが小さく笑う。


「コハクも、そう言ってるみたいだね」


「ですよね」


エリアも。


少し笑った。


灰色の影が。


目の前で蠢く。


その身体から。


いくつもの細い触手が伸びている。


先ほどまで。


二人を呑み込もうとしていたもの。


けれど。


今は。


ほんの少しだけ。


動きが鈍っていた。


止まってはいない。


消えてもいない。


ただ。


エリアたちの中へ入り込んでいた灰色の倦みが。


少しだけ。


押し返されている。


『なぜだ』


初めて。


灰色の思念に。


小さな揺らぎが混じった。


『いずれ失う』


『いずれ終わる』


『それでも』


『なぜ、望む』


エリアは。


その問いを聞いた。


しばらく。


考える。


それから。


胸元の鈴へ触れたまま。


答えた。


「……分かりません」


「エリア?」


レオンが。


少しだけ驚いた顔をする。


エリアは。


困ったように笑った。


「だって」


肩をすくめる。


「美味しい紅茶を飲みたいのに、そんなに立派な理由って要ります?」


レオンが。


目を瞬く。


そして。


小さく吹き出した。


「……確かに」


「猫だって撫でたいです」


「うん」


「ルナちゃんには、ちゃんと文句も言いたいです」


「それは、かなりあるね」


「レオンさんにもです」


「僕も?」


「いっぱいあります」


「そんなに?」


二人の声が。


灰色の谷へ落ちる。


大きくは響かない。


すぐに。


音は薄れていく。


それでも。


今度は。


途中で全部が消えることはなかった。


ほんの少しだけ。


残る。


「だから」


エリアは。


灰色の影を見上げた。


「帰りたいんです」


大声ではない。


叫びでもない。


ただ。


自分の気持ちを確かめるように。


「みんなのいる場所へ」


胸元で。


――チリン。


『月響の鈴』が鳴った。


『海の響き』。


『氷の響き』。


そして。


エリア自身の胸に残っていた。


ありふれた日常の記憶。


それらが。


一つの音になるわけではない。


違う音のまま。


ただ。


同じ場所で響いている。


エリアの周囲に。


眩しい光は生まれなかった。


灰色の闇が。


一瞬で晴れることもなかった。


それでも。


足元に。


ほんのわずかな変化があった。


灰一色だった小石の一つに。


淡い茶色が戻っている。


「……色」


エリアが息を呑む。


レオンも見る。


「戻ってる……?」


ほんの小さな石だった。


世界を変えるには。


あまりにも小さい。


けれど。


確かに。


灰色ではなかった。


灰色の影が。


ゆっくりと身じろぎする。


『…………』


レオンは。


銀の音叉を持ち直した。


傷の残る表面へ。


指先を添える。


「まだ」


エリアが彼を見る。


「うん」


レオンは頷いた。


「まだ、このノクスをどうすればいいのかは分からない」


音を弾いても。


吸われる。


エリアの『破壊』にも。


壊すべき輪郭が見つからない。


何一つ。


解決してはいない。


それでも。


レオンの蜂蜜色の瞳には。


確かな光が戻っていた。


「でも」


銀の音叉を。


静かに構える。


「もう、『どうでもいい』とは思わない」


「はい」


エリアも。


灰色の影を見上げる。


敵を倒す方法は。


まだ分からない。


壊すべきものも。


まだ見えていない。


それでも。


二人は。


もう一度。


並んで立っていた。


足元にはコハク。


胸元には『月響の鈴』。


そして。


心の中には。


帰りたい場所の音がある。


灰色の谷の中で。


ほんの小さな日常だけが。


まだ。


消えずに響いていた。

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