第十六話 灰色の谷と、日常の響き パート1
第十六話 灰色の谷と、日常の響き
パート1
銀青色の『星路』の果てに待っていたのは、まばゆい光の扉だった。
エリア、レオン、そしてコハク。
二人と一匹がその光をくぐり抜けた瞬間。
全身を包んでいた星海の淡い気配が、唐突に途切れた。
「……っ」
エリアは思わず目を閉じる。
足の裏へ、ざらついた感触が戻ってくる。
それから。
恐る恐る目を開いた。
「……なに、ここ……」
そこにあったのは。
色という色を奪われた、死んだような世界だった。
空は灰色。
地面も灰色。
遠くまで続く、立ち枯れた巨木の森も。
すべてが同じ色に沈んでいる。
青も。
緑も。
土の茶色さえない。
どこを見ても。
ただ。
灰色。
エリアは一歩、前へ踏み出した。
ざり。
――と鳴るはずだった。
けれど。
「……え?」
砂利を踏んだ感触だけが足裏へ残る。
音は。
途中で消えていた。
まるで。
分厚い灰に包み込まれたように。
「レオンさん……」
自分の声さえ。
ひどく遠い。
口から出たはずなのに。
耳へ届く前に、どこかへ吸い込まれていく。
風は吹いている。
枯れた枝も、わずかに揺れている。
それなのに。
葉擦れの音も。
木々が軋む音も。
ほとんど聞こえない。
静かだった。
けれど。
星詠みの塔の静寂とは違う。
あちらは、音が生まれる前の静けさだった。
ここは。
生まれた音が。
途中で死んでいく。
そんな静けさだった。
「……嫌な感じ」
エリアは胸元へ手を添えた。
『月響の鈴』は、そこにある。
深い『海の響き』。
澄んだ『氷の響き』。
二つの音を宿しているはずなのに。
今は。
――……。
かすかな震えすら。
ほとんど感じられない。
「にゃ……」
足元で、コハクが低く鳴いた。
けれど。
その声さえ、すぐに灰色の空気へ呑まれていく。
エリアはコハクを見下ろした。
「コハク……?」
右の琥珀色の瞳。
左の瑠璃色の『真実の窓』。
普段なら。
隠されたもの。
本当はそこにある道。
紛れ込んだ偽り。
そうしたものを見抜く瑠璃の左目に。
薄い灰色の膜がかかったように見えた。
光が消えたわけではない。
けれど。
何かに邪魔されている。
「見えないの……?」
「にゃ……」
コハクは答えるように短く鳴く。
そして。
前方へ視線を向けた。
道がないのではない。
あるはずのものが。
見えにくくされている。
そんなふうに見えた。
「エリア」
レオンの声がした。
いつもより低い。
「僕のそばから離れないで」
エリアが振り返る。
レオンは『銀の音叉』を手にしていた。
金と銀と瑠璃色の傷跡が残る、あの音叉。
指先で。
軽く弾く。
――チィン……。
響きは生まれた。
けれど。
「……?」
エリアが眉を寄せる。
いつもなら。
澄んだ音が空間へ広がり。
周囲の響きを拾いながら、金色の波紋を生む。
しかし。
今は。
音がほとんど伸びない。
レオンの手元から少し離れたところで。
泥へ沈められたように。
重く。
鈍く。
消えていった。
レオンの表情が険しくなる。
「……音が拾えない」
もう一度。
音叉へ指を添える。
――チン……。
今度はさらに短い。
「いや」
レオンが目を細めた。
「違う」
「何がですか?」
「拾えないんじゃない」
音の消えた空間を見る。
「音そのものが……弱くされてる」
エリアの背筋を。
冷たいものが走った。
「弱く……」
「うん」
レオンは周囲を見回す。
「ここでは、響こうとするもの自体が……押さえ込まれてるみたいだ」
その言葉を聞いた瞬間。
エリアは。
なぜか胸の奥が重くなった。
怖い。
はずだった。
けれど。
その感情さえ。
すぐに。
どうでもよくなっていく。
「……あれ?」
エリアは瞬きをした。
何かがおかしい。
さっきまで。
あれほど。
ルナを連れて帰ると決めていた。
絶対に。
いや。
絶対ではなくても。
怖くても。
進むと決めていた。
なのに。
「……別に」
小さな声が漏れる。
「ここまで来なくても……よかったのかな」
「エリア?」
レオンが振り向く。
エリア自身が。
その言葉に驚いていた。
「ち、違います」
慌てて首を振る。
「私、そんなこと……」
言いたかったわけじゃない。
それなのに。
胸の中から。
何かが。
少しずつ。
薄くなっていく。
ルナを助けたい。
帰りたい。
紅茶を飲みたい。
猫たちを撫でたい。
そんな気持ちの輪郭が。
灰色の霧に溶かされるように。
ぼやけていく。
「……エリア」
レオンの声も。
少しだけ遠い。
「レオンさん……?」
見ると。
レオンも。
いつの間にか、ほんの少し俯いていた。
銀の音叉を持つ手が下がっている。
「……調律して」
小さく呟く。
「それで……何になるんだろう」
「レオンさん!」
エリアが声を上げる。
レオン自身も。
はっとした。
「……っ」
蜂蜜色の瞳が揺れる。
「僕……今……」
「変です」
エリアが言う。
「ここにいると……」
言葉を探す。
悲しい。
違う。
怖い。
それとも違う。
寂しいでもない。
もっと。
平らで。
重くて。
「何も……したくなくなる」
その言葉に。
レオンが静かに息を呑んだ。
「……そうか」
ゆっくり。
音叉を握り直す。
強くではない。
ただ。
落とさないように。
「これは」
レオンが呟く。
「悲しみじゃない」
「……はい」
「怒りでも」
「はい」
「何も感じたくない……とも、少し違う」
しばらく。
二人とも黙る。
やがて。
レオンが、かすれた声で言った。
「感じることそのものが……面倒になるんだ」
エリアの胸が。
ぎゅっと縮む。
「……嫌です」
「うん」
「それ……すごく嫌です」
「僕も」
短いやり取り。
それだけ。
けれど。
その言葉があるだけで。
少し。
自分たちの輪郭が戻ってくる気がした。
足元で。
「にゃ」
コハクが鳴く。
弱い声。
それでも。
ちゃんと。
聞こえた。
エリアはしゃがみ込み。
コハクの背中へ、そっと触れた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように。
「まだ、聞こえる」
コハクの小さな体温。
柔らかな毛並み。
その感触に。
ほんの少しだけ。
色が戻ったような気がした。
「……進みましょう」
エリアが立ち上がる。
「ゆっくりでいいから」
「うん」
レオンも頷く。
背中の傷はまだ痛む。
エリアの指先にも。
氷の聖域で凍えた痛みが残っている。
連戦の疲労も。
消えてはいない。
そのせいか。
二人の歩みは。
自然と遅くなった。
でも。
止まらなかった。
一歩。
また一歩。
灰色の谷を進む。
その時だった。
――どくん。
「……っ?」
エリアが足を止める。
「今の……」
音ではない。
足裏へ直接。
低い震えが伝わってきた。
一度。
深く。
まるで。
この谷そのものが。
眠ったまま脈を打ったように。
――どくん。
二度目。
今度は。
レオンもはっきりと感じたらしい。
「下だ」
銀の音叉を構える。
コハクが低く身を伏せた。
「フー……!」
地面が。
ゆっくりと。
盛り上がる。
灰色の土。
泥。
霧。
どれとも言えないものが。
地面の亀裂から滲み出す。
そして。
寄り集まり。
形を作り始めた。
人でもない。
獣でもない。
ただ。
大きな灰色の輪郭。
それが。
谷を塞ぐように。
ゆっくり。
ゆっくりと。
立ち上がる。
「……なに、あれ」
エリアの声が震える。
返事はない。
灰色の影には。
目も。
口も。
顔すらない。
なのに。
その中心から。
かすかな声がした。
『……もう……いいだろう……』
「……え?」
エリアの琥珀色の瞳が見開かれる。
その声は。
知らない誰かのものではなかった。
ひどく疲れた。
自分自身の声に。
よく似ていた。




