第十五話 孤独な観測者と、黒猫の決意 パート3
第十五話 孤独な観測者と、黒猫の決意
パート3
ミラが空中へ広げた星図は、先ほどまでのものとは明らかに違っていた。
無数に枝分かれしていたはずの星々。
青。
白。
金。
それぞれ異なる光を宿していた未来の残響が、今は黒い靄に覆われつつある。
一つの星が、赤黒く濁る。
そして。
――すぅ……。
音もなく、消えた。
「……また」
エリアの胸がざわめく。
別の星も暗くなる。
その隣も。
その向こうも。
まるで黒い波が、星の海そのものを少しずつ呑み込んでいるようだった。
「これって……」
エリアが息を呑む。
星が一つ消えるたび、胸の奥を冷たい風が通り抜けていく。
ミラは星図を見上げたまま、静かに口を開いた。
「ルナは長いあいだ、一人でこの流れを遠ざけ続けていました」
「一人で……」
「ええ」
銀色の瞳が、黒く沈みつつある星々を映す。
「けれど、彼女が倒れた今――多くの可能性が、同じ暗い方向へ傾き始めています」
レオンが目を細めた。
「……全部ではないんだね」
ミラが、わずかにレオンを見る。
「はい」
星図の端。
ほとんど黒に呑まれかけた未来の中に、まだ小さく光る星が残っている。
弱い。
今にも消えそうな光。
けれど。
確かに、まだ消えてはいない。
「未来は、まだ一つではありません」
ミラが告げる。
「ですが、このまま何も変わらなければ――」
指先が、星図の一点へ触れた。
景色が揺らぐ。
そこに浮かび上がったのは。
「……カフェ」
エリアの声が掠れた。
猫カフェ『ルナ』。
見慣れた古い建物。
けれど、その周囲を取り囲む銀葉の森は黒く枯れ始めている。
地面を這う靄が根を覆い。
木々の光を奪い。
ゆっくりと、カフェへ近づいていた。
窓の向こうには、ぼんやりと温かな灯りが見える。
その光さえ。
今にも黒い闇へ呑まれそうだった。
「そんな……」
エリアの肩が震える。
焼きたての菓子の匂い。
甘い紅茶。
窓辺で丸くなる猫たち。
くだらないことで笑った時間。
失敗しても、帰ってこられた場所。
全部。
あそこにある。
「このまま流れが変わらなければ」
ミラの声が静かに響く。
「あなたたちの帰る場所も、いずれノクスに呑まれるでしょう」
エリアが唇を噛む。
「それが……ルナちゃんの見た未来……?」
「正確には」
ミラが首を横に振る。
「ルナが、ずっと恐れていた未来です」
その言葉に。
レオンが、ほんの少し目を伏せた。
「……そうか」
銀の音叉へ、そっと指を添える。
金と銀と瑠璃色の傷跡。
その光が、淡く揺れた。
「ルナが本当に怖かったのは」
レオンは星図を見つめたまま呟く。
「世界そのものが滅びることより……大切な誰かを失うことだったんだね」
ミラの銀色の瞳が、わずかに揺れる。
「ええ」
短い答えだった。
「彼女にとって守りたい『世界』は、決して大きなものではありませんでした」
星図の中。
猫カフェ『ルナ』の窓明かりが、小さく揺れている。
「自分のそばで笑っている者たち」
ミラは続ける。
「帰る場所」
「毎日の、ささやかな時間」
エリアの胸が締めつけられる。
「……ルナちゃんらしい」
泣きそうになりながら、それでも少し笑った。
レオンも。
ほんのわずかに口元を緩める。
「うん」
それから。
銀の音叉を握り直した。
強くではない。
自分の手の中にある重みを、確かめるように。
「だったら」
レオンが顔を上げる。
「僕たちは、別の未来を選ぼう」
エリアが隣を見る。
「ルナが一人で抱えてきたものを、僕たちが代わりに背負うんじゃない」
蜂蜜色の瞳には、静かな光があった。
「もう、一人にはしない」
「レオンさん……」
「痛みを半分もらうんじゃない」
レオンは続ける。
「悲しみまで奪うんじゃない」
その言葉は。
ノクスと向き合った時に、ようやく辿り着いた答えだった。
「ただ、隣に立つ」
「一人で抱えなくていいって、何度でも伝える」
エリアの琥珀色の瞳に、光が戻る。
「……はい」
ミラが二人を見つめる。
「それでも」
その声は冷たくはなかった。
ただ。
あまりにも多くの未来を見てきた者の、静かな重さがあった。
「進むのですか?」
「はい」
レオンは迷わなかった。
ミラの視線が、銀の音叉へ落ちる。
「ノクスの悲しみに触れれば、再び自分と他者の境を見失うかもしれません」
レオンの指が、わずかに止まる。
氷の迷宮。
黒い囁き。
自分自身を失いかけた感覚。
それはまだ。
消えたわけではない。
「……怖いよ」
レオンは静かに答えた。
エリアが目を見開く。
レオンは小さく笑った。
「今だって、怖い」
「でも」
銀の音叉へ残る傷跡へ、そっと親指を滑らせる。
「怖くないふりをして、一人で全部抱えるほうが……もう、ずっと怖いからね」
ミラは何も言わなかった。
代わりに。
今度はエリアへ視線を向ける。
「あなたは?」
「私?」
「また、壊すべきものを間違えるかもしれません」
エリアの指先が、わずかに震えた。
凍えた手。
壊してしまったもの。
触れることを怖がっていた時間。
全部、覚えている。
それでも。
エリアは拳を握りしめなかった。
ゆっくりと。
手のひらを開く。
「だったら」
自分の手を見る。
「今度も、ちゃんと見つけます」
「……何を?」
エリアは顔を上げた。
「壊すべきものを」
胸元で。
――チリン……。
『月響の鈴』が鳴った。
「悲しみそのものは壊しません」
『海の響き』。
『氷の響き』。
異なる二つの音が、鈴の奥で静かに重なる。
「誰かを独りに閉じ込めている殻だけを、私が壊します」
ミラの瞳が細められる。
「そして」
エリアは隣のレオンを見る。
「その先で、レオンさんが悲しみを消さずに、ちゃんと響ける音へ調えてくれます」
「うん」
レオンが頷く。
「今度は、一人でやらないよ」
「はい!」
エリアも大きく頷いた。
それから。
少しだけ胸を張る。
「だって私たちは――」
一度、息を吸って。
「猫カフェ『ルナ』の仲間ですから!」
星詠みの塔へ、エリアの声が響いた。
「仲間が一人で潰れそうなら、今度は私たちが手を伸ばす番です!」
しばらく。
ミラは何も言わなかった。
ただ。
二人を見つめている。
やがて。
「……まったく」
小さな吐息。
銀色の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「あの子は、本当に厄介な仲間を見つけたようですね」
「それ、褒めてます?」
エリアが首を傾げる。
「どうでしょう」
「えぇ……」
レオンが思わず小さく笑った。
コハクも足元で。
「にゃ」
と、短く鳴く。
張りつめていた空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
そして。
ミラは抱えていた星図を、そっと宙へ放した。
古びた紙が、音もなく浮かび上がる。
銀色の文字。
細い線。
無数の星。
それらが一つずつ光の粒へ変わり。
星図そのものが、夜空へ溶けていった。
「未来を見るだけでは」
ミラが静かに言う。
「何も変わりません」
エリアとレオンが顔を上げる。
「けれど」
暗く沈んでいた星々の間で。
一つの銀青色の光が灯った。
「見たあとで」
二つ。
三つ。
小さな光がつながっていく。
「何を選ぶかは、変えられる」
やがて。
光は一本の細い道となった。
瑠璃色ではない。
月明かりと星明かりが混じったような、銀青色の道。
無数の可能性の間を縫いながら。
エリアたちの足元から、遠い闇の奥へ続いている。
「……道」
エリアが呟く。
「星路です」
ミラが答えた。
「私が未来を選ぶことはできません」
銀色の瞳が、二人を見つめる。
「ですが――残っている可能性が、どちらへ続いているかを示すことはできます」
コハクが一歩前へ出た。
右の琥珀。
左の瑠璃。
二つの瞳で、銀青色の星路を見つめる。
「にゃ……」
『真実の窓』が淡く光った。
けれど。
道そのものを作ることはない。
ただ。
そこに確かに道が存在していることを、静かに確かめているようだった。
「この先に」
ミラが言う。
「世界の、もっと深い場所へ続く扉があります」
「もっと深い場所……」
レオンが問う。
ミラは、星路の果てを見た。
そこは。
光さえ呑み込むほど暗い。
けれど。
その闇の中に。
ほんのわずか。
脈打つような銀色の光が見えた。
「かつて」
ミラの声が低くなる。
「ルナが、一人で向かった場所です」
エリアの胸元で。
『月響の鈴』が震えた。
――チリン……。
その音は。
まるで遠いどこかから返された返事のように。
星詠みの塔の奥へ、長く響いていった。




