第十五話 孤独な観測者と、黒猫の決意 パート2
第十五話 孤独な観測者と、黒猫の決意
パート2
光が弾け、視界が真っ白に染まった。
それも、ほんの一瞬だった。
エリアがそっと目を開ける。
そこは、先ほどまでと同じ『星詠みの塔』のはずだった。
けれど。
「……空気が、違う」
思わず呟く。
壁も天井もない星の海。
黒曜石のような石畳。
漂う無数の光。
何も変わっていないように見える。
それなのに、流れる星々は先ほどよりも青白く、どこか遠い。
まるで、長い時間の向こう側を覗いているようだった。
『――どうして』
静寂の中へ、小さな声が落ちた。
『どうして……こんな未来ばかりなのだ』
震えている。
今にも消えそうなほど、細い声だった。
「……ルナちゃん?」
エリアが視線を巡らせる。
そして。
石畳の中央に、その姿を見つけた。
「……っ」
息を呑む。
そこにいたのは、エリアの知るルナではなかった。
銀色の月光を操ることもない。
猫カフェ『ルナ』を堂々と見守る姿でもない。
首元には、今の彼女が身につけている鈴もない。
ただ。
一匹の、小さな黒猫だった。
あまりにも小さく。
今にも星の闇へ呑まれてしまいそうな身体を丸めている。
「これが……」
レオンの声が、わずかに揺れた。
二人の傍らには、現在のミラも立っていた。
彼女は幼いルナを見つめたまま、静かに答える。
「かつて、この塔へ来たルナです」
「こんなに……小さかったんだ」
エリアが手を伸ばす。
けれど。
指先はルナの身体をすり抜けた。
「……あ」
触れられない。
これは記憶そのものではない。
あの日、この塔へ残された『響き』だ。
幼いルナの目の前では、大きな星図が空中へ広がっていた。
その上を、無数の光が流れている。
赤。
青。
白。
金。
いくつもの星が枝分かれし、別々の道を作っていた。
だが。
その先で。
一つの黒い靄が、星々を呑み込んでいく。
森が闇に沈む。
街の灯りが消える。
空を覆う星まで、一つ、また一つと黒く濁っていく。
その中心で。
月のような丸い影が、ゆっくりと黒に染まった。
『……まただ』
ルナの小さな身体が震える。
『これも……』
別の星へ視線を向ける。
そこにも。
黒い靄。
さらに別の星。
そこにも。
また。
別の星。
違う道。
違う場所。
違う誰か。
それでも、いくつもの未来の先で、黒い闇が世界へ広がっていた。
「ノクス……」
エリアが息を呑む。
ミラは静かに頷いた。
「ルナがここで見たのは、世界がノクスに呑まれていく可能性でした」
「可能性……」
レオンが、その言葉を確かめるように繰り返す。
「ええ」
ミラは答える。
「確定した未来ではありません」
その言葉と同時に。
幻影の中。
若いミラが、幼いルナの隣へしゃがみ込んだ。
『ルナ』
『…………』
『見えているものは、決まった結末ではありません』
ルナは顔を上げない。
『未来には、いくつもの分かれ道があります』
ミラが星図へ手を伸ばす。
一つの光が、淡く輝いた。
そこには。
誰かと肩を寄せ合うルナの姿が映っていた。
顔は見えない。
何人いるのかも分からない。
ただ。
その未来のルナは、今よりずっと穏やかに笑っていた。
『誰かに助けを求める未来もあります』
次の瞬間。
景色が揺らぐ。
黒い靄が押し寄せた。
ルナの隣にいた誰かが、彼女を庇う。
その姿が闇へ呑まれていく。
『……っ!』
ルナが息を詰める。
星図が、また別の可能性を映す。
一人の少女。
顔は見えない。
誰かを守ろうとして伸ばした手から、眩しい光が溢れ出す。
けれど。
その光は大きくなりすぎて。
少女自身まで呑み込もうとしていた。
別の星。
一人の青年。
誰かの悲しみに寄り添い続け。
やがて、自分の響きを見失うように、その姿が冷たい闇へ沈んでいく。
「……」
エリアの胸が締めつけられる。
どこか。
自分たちに似ている気がした。
けれど。
顔は見えない。
名前も分からない。
本当に自分たちなのかどうかさえ、分からない。
ただ。
ルナの目には。
“大切な誰かが、自分のために傷つく未来”
だけが、鮮明に見えていた。
『……だめだ』
ルナが後ずさる。
『こんなもの……だめだ』
『ルナ』
『だめだ!』
小さな頭を、激しく振る。
『誰かが我を守って傷つくなど……そんな未来、いらぬ!』
若いミラが、静かにルナを見つめる。
『これは、数ある未来の一つです』
『…………』
『彼らと力を合わせれば、滅びを退けられる可能性もあります』
『だが……傷つくのだろう』
『その可能性はあります』
ルナの金色の瞳が揺れる。
『死ぬ者も……いるかもしれぬのだろう』
ミラは、すぐには答えなかった。
やがて。
『あります』
静かに告げる。
『けれど、それもまた一つの可能性にすぎません』
『…………』
『未来は、まだ選ばれていません』
ルナは星図を見る。
明るい未来。
誰かと笑う未来。
支え合う未来。
そのすべてが確かにある。
けれど。
その隣には。
失う未来もあった。
傷つく未来も。
泣く未来も。
守ろうとした誰かが、自分のせいで倒れる未来も。
ルナの小さな身体が震える。
『……嫌だ』
声は、あまりにも幼かった。
『そんなのは……嫌だ』
エリアの胸が痛んだ。
英雄の声ではない。
ただ。
大切なものを失うのが怖い。
小さな黒猫の声だった。
若いミラが、そっと言う。
『ルナ』
『一人で背負う必要はありません』
『誰かと共に選ぶこともできます』
しばらく。
ルナは何も言わなかった。
ただ。
いくつもの未来を見つめ続けていた。
やがて。
小さな身体を、ゆっくりと起こす。
金色の瞳には、まだ恐怖が残っている。
震えも止まっていない。
それでも。
その奥に、小さな決意が宿った。
『……ならば』
エリアが息を呑む。
『我ひとりでいい』
「……!」
レオンの表情が揺れた。
若いミラも、目を見開く。
『ルナ、それは――』
『誰かが傷つくくらいなら、我ひとりでいい』
『…………』
『あの者たちは……笑っていた』
ルナは、先ほど見えた未来へ視線を向ける。
誰かと並んで。
穏やかに笑う未来。
『ならば、それでいい』
小さな前足が、石畳を踏みしめる。
『こんな闇まで、背負わせる必要などない』
『ルナ』
『我が封じる』
『…………』
『我が、全部やる』
その声は。
決して強くなかった。
身体も震えている。
怖くないはずがない。
それでも。
ルナは一人で背負う道を選んだ。
『誰かを失うくらいなら』
一度だけ。
ルナが目を閉じる。
『我だけでいい』
「ルナちゃん……」
エリアの頬を、涙が伝った。
ようやく。
少しだけ。
分かった気がした。
何かにつけて、
「危ないから下がっていろ」
「お前たちは余計なことをするな」
そう言って、自分たちを危険から遠ざけようとしてきたルナ。
その言葉の奥には。
ずっと。
こんな恐怖があったのかもしれない。
「……ルナも」
レオンが、かすれた声で呟いた。
エリアが隣を見る。
レオンは幻影のルナを見つめていた。
「僕と同じだったんだ」
「レオンさん……」
「誰にも見せなければ、誰も巻き込まずに済むと思ってた」
銀の音叉へ、そっと手を添える。
「自分一人が傷つけばいいって」
レオンは目を伏せた。
けれど。
その表情に、自分を責める色はなかった。
ただ。
ルナの痛みを知ってしまった者の、静かな悲しみがあった。
「……あの子も、怖かったんだね」
エリアは、何も言えなかった。
その時。
幻影の中の若いミラが、ルナへ一歩近づく。
『待ってください、ルナ』
しかし。
ルナは振り返らない。
『未来は一つではありません』
『…………』
『あなた一人で背負う未来だけが、正しいわけではない』
ルナの足が、一瞬だけ止まる。
けれど。
『……知っている』
小さな声だった。
『それでも』
振り返らないまま。
『我には、選べぬ』
ミラの表情が揺れた。
『大切な誰かが死ぬかもしれぬ未来など』
ルナは、ほんの少しだけ首を振る。
『我には、選べぬ』
そのまま。
小さな黒猫は、星図から離れていった。
一匹で。
長い石畳の向こうへ。
やがて。
その姿が星の光へ溶けていく。
幻影が、ゆっくりと薄れ始めた。
「……私は」
現在のミラが呟いた。
エリアとレオンが振り返る。
ミラの銀色の瞳は、消えていく幼いルナを見つめていた。
「私は、あの日のルナを止められませんでした」
「ミラさん……」
「私は観測者です」
静かな声。
「未来を見ることはできます」
一つ。
幻影の星が消える。
「可能性を示すこともできます」
また一つ。
「けれど」
ミラの手が、わずかに握られる。
「最後に選ぶのは、その未来を生きる者です」
銀色の瞳に。
ほんの一瞬。
長い時間を抱えてきたような寂しさが滲んだ。
「私は……ただ見送ることしかできなかった」
未来を見ることができても。
代わりに選ぶことはできない。
誰かが傷つく可能性も。
間違った道を選ぶ瞬間も。
ただ、見届けるしかない。
エリアはようやく気づいた。
一人で未来を見続けることもまた、ひどく孤独なことなのだと。
幻影が完全に消えた。
星詠みの塔へ、現在の静寂が戻る。
エリアはその場に膝をついた。
止めようとしても。
涙が次々と頬を伝っていく。
「私……何にも知らなかった」
猫カフェで。
カップを割って落ち込んでいた時も。
自分の力が怖くて泣きそうだった時も。
ルナは、いつもそばにいた。
何も言わず。
呆れたような顔をして。
それでも。
ずっと店を見守っていた。
「あの時も……ルナちゃんは、こんなものを一人で抱えてたんだ……」
レオンが、そっとエリアの肩へ手を置く。
「エリア」
「……はい」
「僕たちは、知らなかった」
「…………」
「でも」
レオンは、幻影の消えた場所を見つめた。
「今は、知った」
エリアが顔を上げる。
「なら、今度は」
蜂蜜色の瞳に、静かな意志が宿る。
「一人で抱えなくていいって、僕たちが伝えよう」
「……はい」
エリアは涙を拭った。
そして、ゆっくり立ち上がる。
「今度こそ」
琥珀色の瞳をまっすぐ上げる。
「ルナちゃんにも、頼ってもらわなくちゃ」
ミラが二人を見つめる。
その表情に。
ほんのわずか。
安堵のようなものが浮かんだ。
だが。
すぐに消える。
「……それなら」
ミラの表情が静かに引き締まった。
抱えていた星図を、もう一度開く。
「もう一つ、見ていただかなければなりません」
「もう一つ……?」
「ルナが一人で選んだ道」
銀色の光が、星図の上へ広がる。
「その先で」
ミラは二人を見る。
「今、この世界がどこへ向かおうとしているのか」
エリアとレオンの表情が変わる。
星図の上へ、現在につながる無数の星が浮かび上がった。
青。
白。
金。
さまざまな光。
けれど。
その多くが。
ゆっくりと。
黒く沈み始めていた。
「……これ……」
エリアの声が震える。
一つの星が消える。
また一つ。
その向こうで。
まだかすかに残っている光へも。
黒い靄が、静かに近づいていた。




