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第十五話 孤独な観測者と、黒猫の決意 パート1

第15話 孤独な観測者と、黒猫の決意


パート1




扉をくぐり抜けた瞬間、エリアは言葉を失った。


氷の聖域の凍気も。


海の聖域の、波さえ忘れたような静寂もない。


そこにあるのは、ただ――どこまでも続く星空だった。


「……わぁ」


思わず、小さな声が漏れる。


壁も、天井も見当たらない。


黒曜石のような滑らかな石畳だけが、星の海を裂くように足元から伸びている。


その左右に境界はなく、一歩踏み外せば、そのまま無数の星の中へ落ちていってしまいそうだった。


けれど、不思議と恐怖はない。


見渡す限りの闇の中を、大小さまざまな光がゆっくりと流れていた。


青。


白。


淡い金。


時折、紫がかった光。


星々は決められた場所に留まることなく、生き物のように弧を描きながら漂っている。


エリアの頭上を一つの光が横切った。


尾を引きながら遠ざかっていくその星を、エリアは呆然と見送る。


「これが……あの塔の中……?」


外から見た時には、天を衝くほど巨大な塔だった。


だが、ここには階段も柱もない。


上も下も分からないほどの星空だけが、果てしなく広がっている。


「塔の中というより……」


レオンも珍しく、目を丸くしていた。


「星の海そのものだね」


足元では、コハクが石畳を慎重に踏みしめている。


右の琥珀色の瞳。


左の瑠璃色の『真実の窓』。


そのどちらも、周囲を警戒するように細められていた。


「にゃ……」


「コハクでも、よく分からない場所みたいですね」


「そうみたいだ」


レオンは苦笑しながら答えた。


そのすぐ横を、小さな青い光がゆっくりと流れていく。


「……これ、本当に星なのかい?」


レオンが手を伸ばした。


指先が光へ触れる。


――はずだった。


「……あれ?」


手は何の抵抗もなく、その星をすり抜けた。


水面を揺らすように青い光がわずかに歪み、尾を引きながら二人の横を通り過ぎていく。


「幻……?」


エリアが首を傾げた、その時。


「星ではありません」


静かな声が、背後から響いた。


「……っ!」


エリアとレオンが同時に振り向く。


コハクが素早く二人の前へ出た。


「フーッ……!」


低い威嚇の声が響く。


けれど、そこにいた人物は動じなかった。


石畳の少し先。


いつからそこにいたのか。


一人の女性が、星明かりの中に立っている。


夜空をそのまま布へ織り込んだような、深い青のドレス。


腰まで届く銀色の髪は、重さを忘れたようにゆるやかに広がっていた。


腕には、古びた大きな星図を抱えている。


そして何より目を引いたのは、その瞳だった。


淡い銀色。


星々の光が、その奥でゆっくり瞬いている。


「ここに浮かんでいるものは――未来の残響です」


女性は、先ほどレオンが触れた青い光を見つめた。


「未来の……残響?」


エリアが聞き返す。


女性は小さく頷いた。


「選ばれた可能性も、選ばれなかった可能性も。強い想いを残した未来は、この場所で星の姿を取ります」


青い星が、遠くで静かに明滅した。


「じゃあ……」


エリアは周囲を見渡す。


数え切れないほどの星。


「これ全部が……未来?」


「正確には、その可能性が残した響きです」


「可能性……」


エリアは胸元の『月響の鈴』へ、そっと手を添えた。


響き。


その言葉は、なぜか胸へ引っかかった。


一つの未来ではない。


無数の未来。


選ばれたもの。


選ばれなかったもの。


まだ、どちらにもなっていないもの。


「……あなたは?」


レオンが尋ねた。


女性はそこで初めて、二人へ視線を向ける。


そして。


ほんのわずかに微笑んだ。


「私はミラ」


腕に抱えていた星図へ手を添える。


「この『星詠みの塔』で、未来の星を見守っています」


「星詠みの塔……」


エリアが繰り返す。


ようやく、あの巨大な塔の名前を知った。


「未来を見る人……なんですか?」


「見るだけです」


ミラは静かに答えた。


「未来を選ぶことはできません」


その言葉が、妙に重く響いた。


「選ぶのは、いつだって――その未来を生きる者ですから」


エリアは少しだけ目を見開いた。


ミラの視線が、エリアからレオンへ。


そして。


二人の足元にいるコハクへと移る。


銀色の瞳が、わずかに細くなった。


「……なるほど」


「にゃ?」


「その子の目……」


コハクの左目。


瑠璃色に輝く『真実の窓』を、ミラはじっと見つめていた。


やがて。


どこか懐かしむように、小さく息を吐く。


「あなたたちは、あの頑固な黒猫の仲間なのですね」


「……え?」


エリアが瞬きをする。


次の瞬間。


「ルナちゃんのことですか!?」


思わず一歩、身を乗り出した。


ミラの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「ええ」


「ルナちゃんを知ってるんですか!?」


「知っています」


短い答えだった。


だが、それだけでエリアの胸が大きく鳴った。


「ルナは、ずっと昔にこの塔へ来ました」


「ルナが……ここへ?」


レオンの表情も変わる。


ミラは、周囲に漂う星々へ視線を向けた。


「まだ今のような大きな力も」


少し間を置く。


「守るべき店も持っていなかった頃に」


エリアの脳裏に、猫カフェ『ルナ』での黒猫の姿が浮かんだ。


いつだって堂々として。


何か問題が起きれば、誰より早く気づいて。


銀色の月明かりのような力で、店とみんなを守ってきたルナ。


エリアの知るルナは、いつだって守る側だった。


誰かに守られる姿など、考えたこともなかった。


「その頃のルナちゃんって……」


エリアは恐る恐る尋ねる。


「どんな子だったんですか?」


ミラは少しだけ目を細めた。


「……頑固でした」


「そこは昔からなんですね」


思わずエリアが答える。


レオンの口元にも、小さな笑みが浮かんだ。


ミラも、ほんのわずかに笑った。


けれど。


その表情は、すぐに寂しげなものへ変わる。


「ただ――」


銀色の瞳が、一つの遠い星を見つめた。


「今より、ずっと小さな黒猫でした」


エリアの笑みが消えた。


「小さな……」


「一匹で、この塔へやってきたのです」


その一言に。


なぜか、氷の聖域で聞いた泣き声が重なった。


独り。


また、その言葉だ。


エリアは無意識に隣を見た。


レオンも何も言わない。


ただ、ほんの少しだけ目を伏せていた。


一人で抱え込むことが、どれだけ苦しいのか。


二人はもう知っている。


「ルナは、ここで一つの星を見ました」


ミラが静かに続ける。


「星……?」


「ええ」


「それって……未来、ですよね?」


ミラは答えなかった。


ただ。


その沈黙だけで、エリアの胸が不安に締めつけられる。


「その星を見た日から」


ミラの声が、少しだけ低くなった。


「ルナは、誰にも頼らなくなりました」


「……!」


エリアの指が、胸元の鈴を握る。


「どうして……」


声が震えた。


「どうして、そんな……」


ミラは何も言わない。


「教えてください、ミラさん!」


エリアは一歩、前へ出た。


「ルナちゃんは、ここで何を見たんですか?」


星々の間に、エリアの声が響く。


「何を……ずっと一人で抱えてきたんですか?」


長い沈黙が流れた。


ミラはエリアを見つめる。


その瞳には、拒絶はなかった。


けれど。


簡単には言葉にできないものを前にしたような、深い迷いがあった。


やがて。


「……私の口から説明するより」


ミラは、抱えていた星図へ視線を落とした。


「あなたたち自身の目で見たほうがいいでしょう」


「見る……?」


「ここに残っているのは、出来事そのものではありません」


ミラはゆっくりと星図を開く。


古びた紙の上へ、無数の銀色の線が浮かんでいく。


「誰かが未来を見た時」


一点。


また一点。


星図の上へ、小さな光が灯る。


「強い感情は、この塔へ響きを残します」


レオンが静かに星図を見つめる。


「つまり……記憶そのものではなく、その時に残った『響き』をたどるのか」


「ええ」


ミラが頷いた。


「見えるものが、すべて事実とは限りません」


その言葉に、エリアは息を呑む。


「恐怖は、景色を暗く見せます」


一つ。


星図の光が強くなる。


「悲しみは、未来を一つしかないように見せることもある」


二つ。


三つ。


無数の星が、星図の上でつながっていく。


「だから、忘れないでください」


ミラが二人を見る。


「あなたたちがこれから見るものは、確定した未来ではありません」


エリアの琥珀色の瞳が揺れた。


「……可能性」


「そうです」


ミラは静かに微笑んだ。


「未来は、見るものではあっても――決められるものではありません」


胸元で。


――チリン……。


『月響の鈴』が小さく鳴った。


エリアはその音を聞きながら、強く頷いた。


「お願いします」


ミラが星図を掲げる。


「では、お見せしましょう」


銀色の光が、紙面から溢れ出した。


「ルナが、誰にも見せなかった――最初の夜を」


――パァァ……。


光が視界を覆う。


エリアは思わず目を閉じた。


足元の感覚が消える。


星々の音が遠ざかる。


そして。


次に目を開いた時。


そこにいたのは、今のルナではなかった。


果てしない星空の下。


小さな黒猫が、一匹。


震える前足で石畳を歩いていた。

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