第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き パート4
第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き
パート4
雲の切れ間から差した一筋の光が、透明になった氷を通して迷宮へ広がっていく。
青白い氷柱はその光を受け、淡い七色を床へ落としていた。
先ほどまで冷たく恐ろしい鏡の迷宮だった場所が、今では息を呑むほど美しい光の回廊へと姿を変えている。
「すごい……きれい……」
エリアは、しばらく言葉を忘れたように周囲を見渡していた。
肌を刺していた凍気はすっかり和らぎ、代わりに、澄んだ冬の朝を思わせる空気が満ちている。
「……空気まで変わったみたいだね」
隣に立つレオンが、静かに息を吸った。
「本当に……穏やかだ」
その声を聞いた途端、エリアははっと我に返った。
「レオンさん!」
勢いよく振り向く。
「背中の傷は!? それに寒さは大丈夫ですか? 魔法もいっぱい使ってましたし……!」
「大丈夫……とは、言い切れないかな」
レオンは少し困ったように眉を下げた。
「傷はまだ痛むよ。さすがに、ちょっと疲れた」
「やっぱり!」
「でも」
レオンは小さく笑った。
これまでの、誰かを安心させるための笑顔とは少し違う。
無理に痛みを隠さず。
それでも、戻ってこられたことを心から喜んでいるような笑みだった。
「さっきまでみたいな寒さは、もう感じない」
レオンはエリアを見る。
「君が手を離さなかったから、僕は戻ってこられた」
「レオンさん……」
レオンは胸元の『銀の音叉』へ、そっと指を添えた。
その表面には、金と銀と瑠璃色の筋が傷跡として残っている。
消えなかった亀裂。
けれど、それはもう壊れた証ではない。
傷を消さずに抱えながら、それでも響き続けると決めた証だった。
「もし君がいなかったら、僕はあのままノクスの囁きに呑まれていたと思う」
レオンは少しだけ視線を伏せた。
「だから、これからは無理な時にはちゃんと頼るよ」
そして、もう一度エリアを見る。
「……相棒だからね」
「相棒……」
その言葉を、エリアは胸の中で繰り返した。
じんわりと、温かいものが広がっていく。
ずっと、自分は守られる側だと思っていた。
壊すことしかできない自分の力は、レオンの優しい調律の邪魔になる。
どこかで、そう思っていた。
けれど。
今回は違った。
自分の力で、守るべきものを傷つけず、壊すべき殻だけを選べた。
レオンを救うこともできた。
ノクスの悲しみへ、道を作ることもできた。
「はいっ!」
エリアは大きく頷いた。
「私、もっともっと上手になりますから!」
少しだけ目尻に涙を浮かべながら、それでも明るく笑う。
「だから……これからも、いっぱい頼ってくださいね」
「うん。約束するよ」
もう、何でも一人で抱え込む必要はない。
違う痛みを持ったまま。
違う力を持ったまま。
それでも、必要な時には手を伸ばせる。
二人の間には、そんな関係が生まれていた。
「にゃあ」
足元から、小さな声がした。
見ると、コハクが誇らしげに尻尾を立てている。
「ふふっ。もちろん、コハクもね」
エリアはしゃがみ込み、ハチ割れ模様の額を優しく撫でた。
「最高の案内役だったよ」
「にゃ~ん」
コハクは目を細め、エリアの手へ頭を擦りつける。
その仕草に、エリアも思わず笑った。
胸元では、『月響の鈴』が心地よい重みを持って揺れている。
深い『海の響き』。
そして新しく加わった、澄んだ『氷の響き』。
二つは同じ音ではない。
それでも、一つの鈴の中で互いを消すことなく、静かに響き合っていた。
――チリン……。
「さあ、帰ろうか」
レオンが言う。
「まずは君の手を温めないと」
「レオンさんの背中の包帯も巻き直さないとですよ」
「それもお願いしたいな」
「任せてください!」
「ただし、無理はしないこと」
「それ、レオンさんに言われたくないです」
「……耳が痛いね」
二人の間に、小さな笑い声が落ちた。
頭の中に浮かぶのは、温かな猫カフェ『ルナ』。
きっと心配して待っているルナたち。
甘い紅茶。
柔らかな毛並み。
帰る場所。
二人の頭にはもう、カフェへ戻ることしかなかった。
しかし。
「……にゃん」
先頭へ立とうとしたコハクが、不意に足を止めた。
「コハク?」
出口とは反対側。
洞窟の奥にある、つるりとした氷壁へ向かって歩いていく。
「そっちは出口じゃないよ?」
エリアの声にも応えず、コハクは氷壁の前へちょこんと座った。
右の琥珀色。
左の瑠璃色。
二つの瞳が同時に光を宿す。
そして。
前足を上げた。
シャリ。
シャリ。
氷の壁を、ゆっくりと引っかき始める。
「あれは……」
レオンの表情が変わった。
その仕草に、見覚えがあった。
コハクが、普通では見えない『道』を見つけた時の仕草だ。
シャリィィン……。
爪が氷をなぞるたび。
そこには存在しなかったはずの輪郭が、氷壁の表面へ浮かび上がっていく。
縦長の枠。
古びた取っ手。
やがて姿を現したのは――。
「……扉?」
エリアが目を見開く。
見慣れた、猫カフェ『ルナ』の古い木の扉だった。
けれど。
いつもとは、何かが違う。
扉の隙間から漏れてくるのは、温かなランプの光ではない。
銀葉の森の柔らかな月明かりでもない。
冷たくはない。
けれど、ひどく深い。
夜そのものを閉じ込めたような、澄み切った気配だった。
「……にゃ」
コハクが前足を伸ばす。
古い扉が、わずかに開いた。
――ギィィ……。
その瞬間。
エリアとレオンは、同時に息を呑んだ。
「……なに、これ……」
扉の向こうにあったのは、カフェではなかった。
銀葉の森でもない。
地平さえ見えないほどの――星空。
無数の星が、視界を埋め尽くしている。
足元には、星明かりを映して淡く光る黒い石畳。
その道は、暗い空間の彼方へまっすぐ伸びていた。
そして。
遠く。
星々を背負うようにして、一つの巨大な影がそびえている。
塔だった。
天へ届きそうなほど高く。
静かに。
まるで、ずっと誰かを待っていたように。
塔の表面には、淡い青白い紋様が浮かんでいる。
それを見たレオンの目が、わずかに細められた。
「アルテミアの紋様……?」
だが、それ以上のことは分からない。
何の塔なのか。
なぜ、こんな場所へ道が開いたのか。
答えは、まだ何一つなかった。
その時。
――チリンッ!
エリアの胸元で、『月響の鈴』が激しく鳴った。
「っ……!」
エリアは思わず胸を押さえる。
――カラン。
――チリィィン……!
『海の響き』でもない。
『氷の響き』でもない。
もっと遠く。
もっと古い。
胸の奥を締めつけるような、寂しい音。
「これ……」
鈴の震えと同時に。
知らないはずの情景が、エリアの脳裏へ一瞬だけ流れ込んだ。
果てしない星空。
黒い石畳。
その中央に。
小さな黒猫が、一匹だけ座っている。
ただ、空を見上げていた。
誰もいない場所で。
たった一匹で。
「ルナ……ちゃん……?」
情景は、それだけだった。
すぐに消える。
けれど。
胸の奥に残った感情だけは、消えなかった。
寒さではない。
拒絶でもない。
ずっと誰にも言えなかったものを抱え続けたような、深い孤独。
「ここ……」
エリアは星空を見つめたまま呟く。
「ルナちゃんが、ずっと一人で見ていた場所なの……?」
「分からない」
レオンが答えた。
その声は、いつになく慎重だった。
「でも……」
銀の音叉へ、そっと指を添える。
「ここに、ルナが一人で抱えてきたものの始まりがあるのかもしれない」
エリアは黙って塔を見つめた。
あの向こうに、何があるのか。
ルナは何を見たのか。
なぜ、あんなに寂しい響きが残っているのか。
まだ何も分からない。
分からないからこそ。
行かなければならない気がした。
「……にゃあ」
コハクが扉の向こうへ一歩だけ踏み出した。
そして振り返る。
右の琥珀。
左の瑠璃。
二つの瞳が、二人を静かに見つめていた。
「帰るのは……もう少し先になりそうですね」
エリアは苦笑した。
それから。
凍えて赤くなった両手を、ぎゅっと胸元で握る。
「ルナちゃんが一人で抱えてきた重たい荷物」
星空の向こうへ目を向ける。
「今度は、私たちにも持たせてもらわなくちゃ」
レオンが、静かに笑った。
「ああ」
そして、塔を見据える。
「ルナが見た未来を、それだけが答えじゃないと確かめるために」
エリアは頷いた。
扉の向こうに広がる、果てしない星空。
その中心に立つ、名も知らない塔。
帰るはずだったカフェは、少しだけ遠くなった。
それでも。
今のエリアには、帰る場所がある。
だから。
未知の夜を前にしても、もう怖くはなかった。
胸元で、『月響の鈴』が小さく鳴る。
――チリン……。
二人はまだ扉を越えず。
星明かりの向こうにそびえる塔を、静かに見上げた。




