第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き パート3
第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き
パート3
「う、ぁぁ……あぁぁぁ……っ」
鏡の迷宮に響いていたのは、もう恐ろしい獣の咆哮ではなかった。
『孤独の殻』を失い、黒い靄の輪郭すら保てなくなったノクス。
その中心から聞こえてくるのは、ただひたすらに泣き続ける声だった。
張り詰めていた糸が切れ、迷子の子どもがようやく泣き崩れたような、あまりにも無防備な声。
誰も傷つけたくない。
それでも、一人は寂しい。
その矛盾を抱えたまま、ノクスは長いあいだ凍りついていた。
誰にも言えず。
誰にも触れられず。
泣くことさえ忘れるほどに。
「……もう、隠さなくていいよ」
レオンが静かに歩き出した。
一歩。
また一歩。
目の前から溢れ出す悲しみは、凍気とは違う重さで彼の胸へ押し寄せてくる。
「……っ」
視界がわずかに揺れた。
背中の傷が、歩くたびにじくじくと痛む。
他者の感情へ触れることへの恐怖も、消えたわけではない。
以前のレオンなら、これほどの悲しみに呑まれまいと、自分の心から熱を抜いていただろう。
相手の痛みと、自分の痛みの間に壁を作り。
ただ穏やかに笑いながら、乱れた響きだけを処理していた。
けれど。
今は違う。
レオンは立ち止まらなかった。
めまいに足元が揺れても。
傷が痛んでも。
ノクスの泣き声から、目を逸らさなかった。
その手には、傷跡の残る『銀の音叉』がある。
セレスの『月律』と『海の響き』によってつなぎ止められた、金と銀と瑠璃色の筋。
消えなかった傷。
けれど、その傷があるからこそ生まれた、新しい響き。
レオンはノクスの前で立ち止まった。
「ずっと、寒かっただろう」
黒い靄が小さく揺れる。
「ずっと……怖かっただろう」
『……ぁ……』
レオンは蜂蜜色の瞳を細めた。
「泣いていいよ」
ノクスの声が止まる。
「僕も、今度は目を逸らさない」
『…………』
「君の悲しみを、消そうともしない」
レオンは銀の音叉をそっと掲げた。
「ちゃんと、ここで響かせよう」
大きく息を吸う。
そして。
音叉の先端を、指先で静かに弾いた。
――チィィィン……。
細く震える音だった。
決して大きくはない。
圧倒的でもない。
それでも、その響きは逃げることなく、ノクスの泣き声へ寄り添っていった。
銀の音叉から、金色の波紋がゆっくりと広がる。
その中へ、傷跡に残る銀と瑠璃色の光が淡く重なった。
波紋はノクスを包み込もうとはしない。
押さえつけようともしない。
ただ。
『泣いていい』
そう告げるように。
悲しみを追い払わず、その震えと並んで響いていく。
『……う……』
黒い靄は、すぐには消えなかった。
音の波紋が触れるたび、その濁りが一枚ずつ薄れていく。
泣き声も、まだ止まらない。
『あぁ……ぁ……』
けれど。
先ほどまでのような、すべてを拒絶する叫びではなかった。
誰かへ届くことを恐れながらも。
それでも、届いてほしいと願っている声だった。
「そうだよ」
レオンは小さく頷いた。
「悲しいなら、悲しいって言っていい」
――チィィン……。
音叉が、もう一度静かに鳴る。
「寂しいなら、寂しいって言っていい」
『……さみ、しい……』
エリアが息を呑んだ。
ノクスの声だった。
かすれて。
震えて。
それでも確かに、自分の気持ちを言葉にした声。
『……こわかった……』
「うん」
レオンの声も、わずかに震えた。
「僕も、怖かったよ」
エリアがレオンを見る。
蜂蜜色の瞳には、悲しみが映っている。
それを無理に消そうとはしていない。
「誰かに近づくのが怖かった」
レオンは続けた。
「また傷つけるかもしれないって思ってた」
銀の音叉を握る手が、わずかに震える。
「でも」
レオンは、後ろにいるエリアを一度だけ振り返った。
エリアは黙って頷いた。
その足元で、コハクも静かに尻尾を揺らす。
「一人で抱えなくてもいいって、僕も教えてもらったんだ」
『…………』
「だから、君も」
レオンは再びノクスへ向き直る。
「もう、一人で凍えなくていい」
――チィィィン……。
三度目の響きが、迷宮の奥まで伸びていった。
黒い靄の色が、ゆっくりと薄れていく。
漆黒の中へ、淡い群青が混じった。
群青の奥へ、透き通るような青銀色が現れる。
それでも、すべてが金色へ変わることはなかった。
悲しみは消えない。
怖かった記憶も。
寂しかった時間も。
それらは確かに残っている。
ただ。
もう、誰にも届かない咆哮ではなかった。
悲しみは悲しみのまま。
誰かへ届く、静かな響きへ変わっていった。
『……ありがとう……』
ふいに。
その言葉が、レオンとエリアの胸の奥へ届いた。
短い。
ただ一言だけ。
レオンはゆっくりと息を吐いた。
「……おやすみ」
銀の音叉を下ろす。
「今度は、独りじゃない夢を」
黒い靄が、最後に一度だけ揺れた。
そして。
ほどけるように、静かに消えていった。
残された青銀色の光の粒が、ゆっくりと宙へ舞い上がる。
それは、凍りついた雪が逆さに空へ還っていくようだった。
「わぁ……」
後方で見守っていたエリアが、小さく声を漏らした。
刺すようだった冷気が和らいでいく。
凍え切っていた身体へ、少しずつ感覚が戻ってきた。
特に、むき出しの指先。
最初に戻ってきたのは、温かさではなく痛みだった。
「いっ……たぁ……」
エリアが顔をしかめる。
じんじんと。
凍えていた指先へ、針で刺されるような痛みが走る。
それを見たレオンが、思わず眉を下げた。
「エリア、その手……」
「だ、大丈夫です。たぶん……」
「たぶんは大丈夫じゃないよ」
いつもの穏やかな声だった。
けれど、その中にははっきりとした心配がある。
エリアは少しだけ笑った。
「……戻ったら、ちゃんと温めます」
「約束だよ」
「はい」
足元では、コハクがようやく緊張を解いたように目を細めた。
「にゃあ……」
小さく鳴き、尻尾を一度だけ揺らす。
その時。
宙を舞っていた青銀色の光が、少しずつ一か所へ集まり始めた。
渦を巻くこともない。
激しく輝くこともない。
ただ、静かに。
誰かの声が一つの言葉へまとまっていくように。
やがて。
そこに、小さな青銀色の結晶が残った。
透き通る氷のような姿。
けれど、触れなくても分かる。
そこに宿っているのは、冷たさではなかった。
凍りついていた悲しみが、誰かへ届く声へ変わった証。
――『氷の響き』。
「これが……」
エリアが胸元の『月響の鈴』へ手を添える。
すると。
『氷の響き』が、鈴に応えるように淡く明滅した。
――チリン……。
月響の鈴が一度鳴る。
青銀色の結晶はゆっくりと宙を漂い、吸い寄せられるように鈴へ近づいていった。
そして。
光となって、静かに溶け込む。
――チリン。
――カラン……。
二つの音が重なった。
これまで鈴の奥に宿っていた、深い『海の響き』。
そこへ、新しい音が加わる。
澄み切った冬の朝を思わせる、青銀色の響き。
冷たいだけではない。
寂しさを知っているからこそ、誰かの声へ耳を澄ませるような音だった。
「レオンさん……」
エリアは鈴を両手で包みながら、振り返る。
「私たち、できましたね」
レオンも、ゆっくりと息を吐いた。
肩から、ようやく少しだけ力が抜ける。
「ああ」
エリアを見る。
それからコハクへ視線を落とす。
「……みんなのおかげだね」
「にゃっ」
コハクが当然だと言わんばかりに短く鳴いた。
エリアはくすりと笑う。
その時だった。
――サァァァ……。
頭上から、柔らかな音が降ってきた。
「……え?」
エリアが見上げる。
青白い氷に閉ざされていた洞窟の天井が、少しずつ透明になっていた。
分厚かった氷の向こう。
これまで見えなかった空が、ゆっくりと姿を現す。
外を覆っていた吹雪は、もうない。
厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。
淡い。
けれど確かな光。
その光は、透明になった氷を通り抜け、迷宮の中央へ静かに落ちてきた。
光を受けた『月響の鈴』が、小さく揺れる。
――チリン……。
氷の聖域に。
初めて、朝のような音が響いた。




