第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き パート2
第十四話 溶けゆく孤独と、氷の響き
パート2
エリアの指先が、黒く歪んだ響きへ触れた。
その瞬間――。
――ガァァァァァァァッ……!!
悲鳴にも似た咆哮が、鏡の迷宮を震わせた。
氷狼が怯えたように大きく身をのけぞらせる。
黒い靄が逆巻き、その巨体から凍てつく冷気が一気に噴き出した。
白い霧が広がった瞬間、空気中に細かな氷晶が生まれる。
パキッ。
パキパキッ……。
だが、本当に恐ろしいのは寒さではなかった。
その冷気には、触れた心から誰かを求める熱そのものを奪い去る、凍てついた『拒絶』が宿っていた。
(来ないで)
エリアの胸へ、声にならない叫びが流れ込んでくる。
(私に触らないで)
(触れたら、また傷つけられる)
(また、独りぼっちになる……!)
「……っ」
エリアは息を呑んだ。
痛いほど分かった。
これは怒りではない。
――恐怖だ。
誰かを傷つけたいから、牙を剥いているのではない。
もう傷つきたくない。
もう悲しい思いをしたくない。
だから近づくものすべてを凍らせ、遠ざけようとしている。
(……私と、同じだ)
かつてのエリアもそうだった。
自分の力は、触れたものを壊してしまう。
誰かへ近づけば、その人を傷つけてしまう。
そう思い込み、白い布手袋の中へ両手を隠して、世界との間に壁を作っていた。
「エリア!」
背後から、レオンの声が響いた。
黄金の波紋が追いつき、エリアの身体を包む。
レオンの調律が、押し寄せる拒絶の不協和音を一つずつほどいていく。
それでも――。
「くっ……!」
至近距離にいるエリアまでは、守り切れない。
防寒コートの表面がみるみる白く凍りつく。
青みがかった銀髪にも、まつ毛にも霜が張りついた。
そして、むき出しの両手。
指先を刺していた痛みは、すでに遠のき始めている。
感覚が、ほとんどない。
『無駄だ、破壊の娘よ』
吹き荒れる白い冷気の中から、ノクスの囁きが響いた。
『その手にできるのは、壊すことだけだ』
『殻を砕けば、その内側にある脆い心まで壊れる』
黒い靄がエリアの腕へ絡みつく。
『引け』
『さもなくば、お前も何も感じない氷となれ』
薄い氷の膜が、エリアの指先を覆い始めた。
「……違う」
エリアは、凍りつきかけた指を懸命に動かした。
痛い。
冷たい。
もう、うまく指が動かない。
それでも胸の奥には、消えないものがある。
割れたカップを一緒に片付けてくれた手。
失敗しても、まず怪我を心配してくれた声。
不格好に淹れた紅茶を、嬉しそうに飲んでくれた笑顔。
そして。
何度物を壊しても、エリアを怖がることなく、いつもそばへ来てくれたルナたち。
「私の手は、もう……何もかも壊す手じゃない!」
――チリン。
胸元で、『月響の鈴』が鳴った。
薄い氷の下から、琥珀色の光が滲み出す。
ピキッ。
指先を覆っていた氷へ、細い亀裂が走った。
「レオンさんが教えてくれた」
エリアは顔を上げる。
「ルナちゃんたちも、ずっとそばにいてくれた」
もう一度、鈴が鳴る。
「何を壊して、何を残すのか――私が選んでいいんだって!」
琥珀色の光が、氷の膜だけを内側から押し割った。
パキンッ――。
砕けた氷片が宙へ散る。
エリアは一歩、さらに氷狼へ近づいた。
「にゃあっ!」
後方で、コハクの左目――『真実の窓』が瑠璃色に輝いた。
その光が見抜くのは、荒れ狂う冷気の中に残された、ほんのわずかな隙間。
エリアが踏み込むための『真実の軌跡』。
そして、胸元の『月響の鈴』は別のものを示していた。
氷狼の身体へ絡みつく、無数の響き。
冷たい怒り。
恐怖。
悲しみ。
その中に混じる、ひときわ黒く濁った不協和音。
ノクスの孤独を閉じ込め、拒絶を増幅させ続けている響きだった。
コハクが、進むべき道を見つける。
鈴が、壊すべき響きを示す。
あとは――。
エリアが選ぶ。
「……見つけた」
凍える指先の向こう。
黒い不協和音の奥に、小さく震える光があった。
エリアの目には、それが膝を抱えて泣く誰かの姿のように見えた。
暗闇の中で。
誰にも見つけてもらえず。
ずっと一人で。
「ノクス」
エリアの声が、吹雪の中へ静かに溶けていく。
「痛かったよね」
氷狼の赤黒い瞳が揺れた。
「寂しかったよね」
『…………』
「誰にも触ってほしくないくらい、怖かったんだよね」
氷狼がわずかに後ずさる。
その表情に、先ほどまでの怒りはなかった。
エリアが伸ばす手に、拒絶の響きがないことを感じ取ったかのように。
「でも」
エリアは震える指先をまっすぐ伸ばした。
「壊すのは、あなたじゃない」
氷狼の胸へ、そっと触れる。
冷たい。
あまりにも冷たい。
だが、手を離さない。
その瞬間、『月響の鈴』に導かれた琥珀色の光だけが、分厚い氷の装甲の奥へ細く潜り込んでいった。
身体を壊すためではない。
悲しみを消すためでもない。
ただ、その悲しみを世界から隔てている黒い不協和音だけを目指して。
「もう、一人で凍えなくていいよ」
エリアは、祈るように囁いた。
そして。
指先へ、ほんの少しだけ力を込める。
――カツン。
小さな音がした。
驚くほど、ささやかな音だった。
かつてエリアが緊張しながら、お冷のグラスをテーブルへ置いた時のような。
猫カフェ『ルナ』の日常にありふれた、小さな音。
けれど。
黒い不協和音へ、一本の琥珀色の亀裂が走った。
ピシッ――。
「……あ」
一本が、二本へ。
二本が、四本へ。
細い亀裂は静かに枝分かれしながら、黒い響きだけを選んで伝っていく。
そのすぐ内側で震える小さな光には、決して触れない。
『やめろ……』
ノクスの声が震えた。
先ほどまでの威圧は、もうそこにはなかった。
『それを壊せば……私は……』
「大丈夫」
エリアは手を離さない。
「悲しいなら、悲しいままでいいんだよ」
ピキッ。
パキンッ。
黒い殻へ、次々と亀裂が広がる。
「泣きたいなら、泣いていい」
『…………!』
「だから、もう……一人で閉じ込めなくていいんだよ」
――パキィィン……。
澄んだ破砕音が、洞窟に響いた。
黒い『孤独の殻』だけが、細かな光となって砕けていく。
内側の小さな光を避けるように。
傷つけることなく。
ただ、閉じ込めていた壁だけを。
「……あ……」
氷狼の巨体が、ぴたりと止まった。
全身を覆っていた鋭い氷の装甲が、力を失ったように崩れ始める。
ゴトッ。
パキン。
氷片が、一つずつ氷床へ落ちていく。
荒れ狂っていた吹雪も、次第に勢いを失った。
やがて。
静寂が戻る。
けれど、それは先ほどまでの、すべてを拒絶する冷たい静寂ではなかった。
『……ぁ……』
氷狼の身体から、黒い靄がほどけ始める。
巨大だった輪郭が揺らぎ、崩れていく。
その奥から聞こえてきたのは――。
『……う、ぁ……』
小さな泣き声だった。
『あぁ……ぁぁ……』
それはもう、誰かを遠ざけるための咆哮ではない。
長い間。
あまりにも長い間、押し殺し続けていた泣き声だった。
黒い靄が次々とほどけていく。
押し込められていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出す。
『寂しい……』
『怖い……』
『置いていかないで……』
エリアの胸が締めつけられた。
「……うん」
冷え切った両手を胸元へ引き寄せながら、ゆっくりと頷く。
「もう、ちゃんと聞こえてるよ」
「……すごいよ、エリア」
背後から、荒い息遣いとともに穏やかな声がした。
振り返る。
レオンが銀の音叉を手に、静かに立っていた。
顔色はまだ悪い。
背中の傷も痛んでいるのだろう。
けれど、その蜂蜜色の瞳は、目の前で泣き続けるノクスから逃げなかった。
エリアが壊すべきものは、もう砕けた。
けれど、悲しみそのものは残っている。
消してはいけない。
無理に笑顔へ変える必要もない。
泣きたいのなら。
まずは、泣けばいい。
レオンはゆっくりと銀の音叉を構えた。
金と銀と瑠璃色の傷跡が、淡い光を宿している。
「今度は……僕の番だね」
エリアがレオンを見る。
レオンは、小さく微笑んだ。
「この悲しみを消すんじゃない」
銀の音叉を握る手は、まだ少し震えている。
それでも、もう目を逸らさない。
「ちゃんと、悲しめる響きに調えよう」
目の前では、殻を失ったノクスが、子どものように泣き続けていた。
レオンはその泣き声を受け止めるように、静かに音叉を掲げた。




