第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴 パート3
第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴
パート3 凍りつく音叉と、空っぽな心
――ああ。
何も聞こえない。
何も感じなくていい。
レオンの意識は、深く暗い氷の底へ、ゆっくりと沈んでいた。
すぐそばで自分を呼ぶエリアの声も、コハクの鋭い鳴き声も、分厚い氷壁の向こうにある出来事のように遠い。
ただ、ノクスの囁きだけが鮮明だった。
甘く、優しく、疲れ切った心を眠りへ誘う声だった。
『そうだ。お前はもう、何もしなくていい』
氷柱の奥で、黒い靄がゆらりと揺れる。
『他人の痛みを引き受け、無理に笑い続けることに何の意味がある?』
『どれほど他者の響きを整えようと、お前自身の傷を癒やす者などいない』
『ならば、すべて凍らせてしまえ』
『何も感じなければ、他人の痛みにも、自分の罪にも苦しまずに済む』
「……そう、だね」
レオンの唇から、生気のない声がこぼれた。
「僕が……空っぽになれば……」
鏡のような氷柱には、無数のレオンが映っていた。
どんな悲しみを前にしても、穏やかに微笑むレオン。
迷い人へ紅茶を差し出すレオン。
誰かの痛みを受け止めながら、自分の苦しみだけを胸の奥へ押し込めるレオン。
『完璧な調律者』の仮面をつけた彼らが、一人、また一人と氷の中で凍りついていく。
誰かの心を整えている間だけ、レオンは自分の空虚さを見ずにいられた。
けれど氷柱の奥では、あの日の光景が何度も繰り返されている。
砕け散る家具。
床を走る亀裂。
悲鳴のような音を立て、ひび割れる銀の音叉。
目を閉じても、破壊の音は消えてくれない。
(僕は、誰も救えない)
(近づけば、また傷つける……)
蜂蜜色の瞳から、ひだまりのような光が失われていった。
その手に握られた銀の音叉もまた、主の心を映すように温かな響きを失っている。
金と銀と瑠璃色の筋は、白い霜の下へ沈み、やがて完全に見えなくなった。
ピキッ……。
乾いた音が、静かな迷宮へ響く。
「レオンさん! レオンさんっ!」
その傍らで、エリアは必死にレオンの肩を揺さぶっていた。
しかし、どれほど呼びかけても、蜂蜜色の瞳は彼女を映さない。
それどころか、エリアが掴んでいるコートの袖へ、白い霜がじわじわと広がり始めていた。
「うそ……身体まで……?」
エリアは息を呑んだ。
レオンの足元から、蔓を思わせる氷の筋が這い上がっている。
革のブーツを覆い、防寒コートの裾へ絡みつき、少しずつ彼の身体を氷柱の一部へ変えようとしていた。
「にゃあぁぁっ!」
コハクがレオンのブーツへ飛びつき、前足で氷を激しく引っかいた。
だが、侵食は止まらない。
ノクスの冷気は、レオンの中にある「もう何も感じたくない」という願いへ応えていた。
心を閉ざせば閉ざすほど、氷は彼の身体を覆っていく。
「だめ……」
エリアは凍りつきかけた手を、両手で強く握った。
「だめだよ、レオンさん……」
レオンの体温は急速に失われていた。
革手袋越しに触れているだけでも、命の気配を奪うような冷たさが伝わってくる。
「私を置いていかないで!」
エリアは銀の音叉をレオンの手から外そうとした。
けれど、凍りついた指は硬く閉ざされ、音叉を離そうとしない。
その時だった。
周囲の氷柱に映っていた黒い靄が、一斉に形を変え始めた。
鏡面から染み出すように這い出した影が、空中で幾重にも重なる。
鋭い耳。
大きく裂けた口。
霜に覆われた四肢。
やがて黒い影は、巨大な氷狼を思わせる、おぞましい姿を形作った。
『邪魔をするな、破壊の娘よ』
顔のない氷狼が、低く唸りながらエリアを見下ろす。
『この男は、何も感じないことを望んだ』
『ならば、その願いを叶えてやろう』
狼の身体を形作る氷の内側で、無数の黒い靄が蠢いている。
『空の器へ、手を伸ばす価値などない』
「違うっ!」
エリアは即座に叫び返した。
涙で滲む視界の中、レオンを庇うように前へ立ち、両腕を大きく広げる。
「レオンさんが空っぽなら、どうして私が皿を割るたび、最初に怪我を心配してくれたんですか!」
凍てついた迷宮へ、エリアの声が響き渡る。
「どうして私が泣きそうな時、何も聞かずに甘い紅茶を出してくれたんですか!」
脳裏に、猫カフェ『ルナ』で過ごした日々が蘇る。
割れた皿の前で立ち尽くす自分へ、レオンはいつも最初に尋ねてくれた。
――怪我はないかい?
責めるより先に、エリアの指先を心配してくれた。
恐怖に押し潰されそうな夜には、何も聞かず、甘いミルクティーをそっと差し出してくれた。
砂漠の廃都では、自分の前に立ち、迷うことなく告げてくれた。
――僕が必ず調えるから。
「レオンさんの心は、空っぽなんかじゃない!」
エリアは振り返り、氷に覆われていくレオンを見上げた。
「私がもらった温かさは、全部本物です!」
その声は、分厚い氷の向こうへ沈んだレオンにも、かすかに届いた。
暗い意識の底で、小さな光が揺れる。
カウンター越しに笑うエリア。
初めて紅茶を淹れたと、誇らしげに笑う琥珀色の瞳。
冷え切った自分の手を、ためらわず包んでくれた素手。
「エ……リア……?」
レオンの唇が、わずかに動いた。
「レオンさん!」
エリアが身を乗り出す。
だが、黒い氷狼は二人の間へ割り込むように、巨大な前足を氷床へ叩きつけた。
ズンッ――!
床へ幾筋もの亀裂が走る。
『愚かな』
氷狼の口元へ、凍てつく白い霧が集まり始めた。
『この共鳴は、お前の粗暴な破壊などでは砕けない』
『力任せに壊せば、この男の心まで傷つけるだけだ』
エリアは唇を噛んだ。
ノクスの言葉は正しい。
氷をただ叩き割るだけでは、レオンを救えない。
この氷は、彼自身の「もう何も感じたくない」という願いと結びついている。
外側だけを砕いても、心が閉ざされたままなら、何度でも凍りついてしまう。
どうすればいい。
どうすれば、レオンを閉じ込めている氷だけを壊せるのか。
その心を傷つけることなく、こちらへ連れ戻せるのか。
(違う……)
エリアは胸元の『月響の鈴』を握った。
(壊したいのは、レオンさんの心じゃない)
鈴の奥で、『海の響き』がかすかに揺れた。
レオンの心を凍らせているノクスの囁き。
彼の諦めへ絡みつき、孤独へ閉じ込めている歪んだ共鳴。
それだけを見極め、断ち切る。
(壊すんじゃない)
(届けるんだ)
(私がもらった、一番温かいものを――)
エリアの中に、一つの答えが浮かんだ。
彼女は視線を下げ、自分の両手を見つめる。
そこには、カフェを出る前にレオンが渡してくれた、厚手の革手袋がはめられていた。
猛吹雪からエリアを守り、ここまで連れてきてくれた大切な装備だ。
けれど、このままではレオンへ直接触れられない。
彼の心の響きを、指先で感じ取ることができない。
エリアは右手で、左手の手袋の指先を掴んだ。
迷いはなかった。
勢いよく引き抜く。
続いて右の手袋も口にくわえ、乱暴に外した。
白い両手が、極寒の空気へさらされる。
「エリア……?」
意識の底から、レオンの微かな声が聞こえた。
冷気が素肌へ容赦なく突き刺さる。
指先から、たちまち感覚が失われていった。
それでも、エリアは手を引かなかった。
カフェで初めて、素手のまま紅茶を淹れた時の温もりが蘇る。
壊さずに触れられた。
自分の気持ちを、一杯の紅茶に込めて届けられた。
あの時、自分の手は誰かを傷つけるためではなく、温めるために動いた。
「私の力は、壊すものを選べる」
エリアは凍りつくレオンを真っ直ぐに見上げた。
琥珀色の瞳に、もう迷いはない。
「レオンさんの心は、絶対に壊さない」
素手を固く握りしめる。
「今度は私が壊します」
レオンへ一歩近づく。
「あなたを孤独へ閉じ込めている氷を」
さらに一歩。
氷狼が唸り声を上げ、口元の吹雪を膨れ上がらせる。
それでもエリアは止まらない。
「ノクスとレオンさんをつないでいる、この歪んだ共鳴を!」
凍える素手を伸ばし、氷像と化しつつあるレオンへ向かって、ためらうことなく踏み込んだ。




