第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴 パート2
第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴
パート2 心を殺す囁きと、鏡の迷宮
ヒタ……。
ヒタ……。
氷の洞窟の奥から、静かな足音が近づいてくる。
外で荒れ狂っていた吹雪が嘘のように、洞窟の内部は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
だが、それは決して安らぎをもたらす静けさではない。
「ここは……」
エリアは息を呑み、周囲を見渡した。
広大な洞窟には、床から天井まで届く巨大な氷柱が無数に林立し、天然の迷宮を形作っていた。
長い年月をかけて生まれた氷は、不純物一つ含まない。磨き上げられた鏡のように澄み切り、淡い青白い光を反射し合っている。
氷柱の表面には、存在しない通路がいくつも映り込んでいた。
エリアとレオン、そしてコハクの姿も幾重にも分かれ、どれが本物なのか見失いそうになる。
風がないぶん、身体を押し戻されることはなくなった。
それでも、氷床から這い上がる底冷えは、外の吹雪よりも鋭く、骨の髄まで染み込んでくる。
「レオンさん、迷路みたいですね……。コハクの道しるべがなかったら、すぐに迷っちゃいそうです」
エリアは、少し前を歩くレオンへ呼びかけた。
いつもなら、すぐに穏やかな返事が戻ってくるはずだった。
『そうだね。はぐれないように気をつけよう』
そんな、ひだまりのような声が。
けれど――。
「…………」
レオンから返事はなかった。
少し前屈みになったまま、ただ黙々と、コハクの瑠璃色の光が示す道を辿っている。
その足取りはどこか覚束なく、まるで深い夢の中を歩いているようだった。
「……レオンさん?」
エリアの胸を、冷たい不安がよぎった。
背中の傷が痛むのだろうか。
それとも、猛吹雪の中を歩き続けたせいで、体力が限界に近づいているのか。
エリアが駆け寄ろうとした、その時。
レオンがふらりと立ち止まり、右手で頭を強く押さえた。
「くっ……ぁ……」
喉の奥から、苦痛を押し殺すような呻きが漏れる。
「レオンさん!」
だが、レオンを蝕んでいるのは、傷の痛みや疲労だけではなかった。
他者の感情を『音』として感じ取り、乱れた響きを整える『調律』の力。
その力が今、迷宮を満たす感情を拾い上げ、彼の精神へ流し込み続けていた。
耳を澄ませば、静寂の底に一つの響きがある。
――諦め。
傷つくことに疲れ果て、他者との関わりを拒み、自らの心まで凍らせてしまおうとする、深く果てしない『孤独』。
その負の響きが氷柱から氷柱へ反射し、逃げ場のない囁きとなって、レオンの心へ押し寄せていた。
普段のレオンなら、自分と他者の感情を隔てる薄い境界を保つことができる。
相手の痛みを感じながらも、それが自分の痛みではないと理解するための境界だ。
だが、今の彼は負傷と疲労によって、その境界を保てなくなっていた。
ヒタ……。
再び、足音が響いた。
レオンが弾かれたように顔を上げる。
正面に立つ鏡のような氷柱。
その表面に、黒い靄がゆっくりと浮かび上がった。
靄は氷の奥で人影のように揺らめき、無数に映るレオンの姿の間から、彼だけを見つめ返している。
『――苦しいだろう、調律者よ』
「……っ!」
声は耳から聞こえたのではない。
冷たく湿った囁きが、レオンの心へ直接染み込んできたのだ。
『他人の痛みを感じるから苦しい。他人の響きを受け入れるから、お前の心はすり減っていく』
「違う……。僕は……」
レオンは後ずさり、氷壁へ背を預けた。
『何が違う?』
黒い靄が、鏡の中で嗤うように揺れた。
『他者へ寄り添いすぎた末に、何が起きたのか。お前は忘れていないはずだ』
氷柱の表面が、波紋のように揺らいだ。
そこへ、過去の光景が浮かび上がる。
「これは……」
遅れて駆け寄ったエリアも、その映像を目にした。
映っていたのは、今よりも若いレオンだった。
蜂蜜色の瞳にはまだ危ういほどの熱が宿り、目の前で泣き崩れる一人の迷い人へ、必死に手を差し伸べている。
当時のレオンは、他人の悲しみと自分の痛みを分けることができなかった。
相手の絶望を受け止め、そのすべてを自分の中へ取り込み、無理にでも整えようとしていた。
『僕が全部受け止める』
氷柱の中の若いレオンが言う。
『だから、もう苦しまなくていい』
次の瞬間、別の氷柱へ映像が移った。
重なりすぎた悲しみが、不協和音へ反転する。
銀の音叉が悲鳴のような音を上げ、破壊の波が周囲へ弾けた。
窓が割れた。
家具が砕けた。
床へ幾筋もの亀裂が走った。
その中心で、若いレオンが呆然と立ち尽くしている。
彼の手に握られた銀の音叉には、深いひびが刻まれていた。
『僕が……壊した……』
鏡の中から、若いレオンの震える声が響く。
『救おうとしたのに……僕のせいで……』
現在のレオンの唇も、同じ言葉をなぞるように動いた。
「僕が寄り添えば……また壊してしまう……」
「レオンさん、それは――」
「誰かを救おうとするほど、僕は周りを傷つける……!」
レオンは両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。
けれど、囁きは耳を塞いでも消えない。
それ以来、レオンは誰かの感情に呑まれないよう、自分の心から少しずつ熱を抜いていった。
他人の悲しみと自分の痛みの間に、決して越えない距離を置いた。
どんな悲しみを前にしても穏やかに笑う、『完璧な調律者』を演じ続けた。
誰かの心を整えている間だけ、自分の空虚さを見なくて済んだから。
『――そうだ』
黒い靄が、甘く酷薄に囁く。
『お前の中身は空っぽだ』
氷柱に映る無数のレオンが、一斉に同じ言葉を口にした。
『空っぽだ』
『何もない』
『誰も救えない』
「やめて……」
エリアが声を震わせた。
鏡に映されたレオンの過去は、自分の傷とあまりにも似ていた。
自分もまた、触れれば誰かを傷つけると思い込み、白い布手袋で世界から距離を置いていた。
壊すことを恐れ、何も選ばないことで、誰も傷つけずに済むと思っていた。
レオンも同じだったのだ。
優しい笑顔の奥で、誰かへ近づくことを恐れ続けていた。
『ならば、すべて凍らせてしまえ』
ノクスの声が、洞窟全体から響く。
『何も感じなければ、もう誰も傷つけない』
『お前自身も、二度と傷つくことはない』
囁きが、レオンの心から熱を奪っていく。
「何も……感じない……」
蜂蜜色の瞳から、ひだまりのような光が消えていった。
「僕が空っぽになれば……」
まるで、彼自身が鏡の迷宮を形作る氷柱の一つへ変わってしまうかのように。
「レオンさん!」
エリアの声が洞窟へ響く。
だがレオンには、分厚い氷の壁を隔てた向こうから呼ばれているようにしか聞こえなかった。
「レオンさん、しっかりしてください!」
エリアは駆け寄り、彼の腕を掴んだ。
「……っ!」
レオンの身体は、まるで氷の塊のように冷たかった。
コート越しに触れているだけなのに、革手袋の中まで冷気が突き刺さってくる。
「にゃあぁぁっ!」
コハクが鋭く鳴き、レオンのブーツへ前足を叩きつけた。
それでもレオンは反応しない。
うつろな瞳のまま、コートのポケットへゆっくりと手を伸ばした。
取り出したのは、セレスの『月律』と『海の響き』によってつなぎ止められた銀の音叉だった。
金と銀と瑠璃色の筋を宿した、レオンの大切な相棒。
しかし、それを握る指は小刻みに震えていた。
指先から漏れ出す響きは、いつもの温かな調律ではない。
触れるものを拒み、凍らせる不協和音へ変わっていた。
ピキッ……。
白い霜が、音叉の表面へ張りついた。
「嘘……」
ピキキキッ……。
霜は瞬く間に広がり、修復された光の筋まで覆い隠していく。
銀の音叉は、硬い氷に包まれ始めていた。
音叉を覆う氷は、レオンの心がノクスの響きへ染まり始めた証だった。
彼が他者だけではなく、自分自身の感情まで拒絶しようとしている。
「僕が……空っぽになれば……」
レオンの唇から、白い息がこぼれた。
「もう、誰も傷つけずに……済む……」
「違います!」
エリアは叫び、レオンの腕をさらに強く掴んだ。
けれど、蜂蜜色の瞳は彼女を映していない。
レオンの心は、鏡の迷宮の奥深くへ沈み込もうとしていた。
誰の声も届かない、凍てついた孤独の底へ。
その手に握られた銀の音叉から、最後に残っていた瑠璃色の光が、今にも消えようとしていた。




