第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴 パート1
第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴
パート1 凍てつく白闇と、導く瑠璃の目
――ゴォォォォォォォォッ……!
扉を越えた瞬間、温かな日常は吹雪の彼方へ消えた。
つい先ほどまで漂っていた、焼きたてのフレンチトーストの甘い香りさえ、もう思い出せない。
天地の境は、白と薄鈍色の吹雪に呑まれている。
そこが『氷の聖域』だった。
「くっ……息が……!」
エリアは思わず息を詰め、両腕で顔を覆った。
叩きつけられたのは、ただの風ではない。目に見えない氷の刃が、全身へ絶え間なく襲いかかってくる。
吐き出した息はたちまち白い霜の粒へ変わり、狂風の中へ吹き散らされた。
吹雪が視界を白く塗り潰し、猛烈な風切り音が聴覚まで奪っていく。
「エリア、僕の後ろへ! 決して離れないで!」
吹雪に消されそうな声を張り上げ、レオンが前へ出た。
大きな身体で風を受け、エリアを背後へ庇う。
深緑の防寒コートの裾が暴風に煽られ、激しくはためいた。マフラーを鼻元まで引き上げた顔は寒さに歪んでいたが、彼は一歩も退こうとしない。
「レオンさん! でも、背中の傷が……!」
「大丈夫だ! ……まだ、進める!」
そう答える声の端に、かすかな苦痛が滲んでいた。
昨日ノクスに引き裂かれた傷は、ようやく塞がり始めたばかりだ。冷気に筋肉が強張るたび、背中へ鋭い痛みが走っているのだろう。
レオンの足運びには、痛みをこらえる一瞬のためらいがあった。
それでも彼は、気力で押し切るように足を前へ運んでいく。
(また、私を守るために無理をしてる……)
エリアは、革手袋に包まれた拳を握った。
これは力を隠すための手袋ではない。
レオンと共に、この吹雪を進むためのものだ。
「私も隣を歩きます!」
エリアはレオンの横へ踏み出し、彼の腕をしっかりと支えた。
「レオンさん一人に、全部背負わせません!」
「エリア……」
胸元の『月響の鈴』が、二人の体温へ応えるように淡く輝いた。
海の聖域から持ち帰った瑠璃色の光が、わずかな温もりとなって二人の身体を包む。
吹雪を退けるほどの力はない。
それでも、凍えかけた指先へ、ほんの少しだけ熱が戻ってきた。
「……ありがとう。助かるよ」
レオンは痛みを隠さず、小さく息を吐いた。
二人は互いの身体を支えながら、雪の中へ足を踏み入れた。
足元にあるのは、柔らかな雪ではない。
幾重にも重なり、硬く凍りついた氷床。その表面へ薄く積もった雪が、踏み出すたびに靴底を滑らせる。
一歩。
また一歩。
慎重に進む二人を意にも介さず、吹雪はさらに激しさを増していった。
視界は白一色に閉ざされ、上下の感覚さえ曖昧になっていく。
すぐ隣を歩くレオンの姿さえ、白い渦の向こうへ消えかけていた。
分厚いブーツを突き抜けた冷気が、足の骨まで痺れさせる。
「あ……ぁ……っ」
エリアの唇が震えた。
深い赤色のダッフルコートへ積もった雪は、たちまち薄い氷となって張りついていく。白いニット帽から覗く青みがかった銀髪も、霜に覆われていた。
「……っ、はぁ……」
隣を歩くレオンの呼吸も、次第に荒くなっていく。
風を受け続けた防寒コートの前面は、凍りついた雪で硬く覆われていた。
エリアが支える腕にも、少しずつ力がかかり始める。
(だめ……このままじゃ、洞窟へ着く前に動けなくなる……!)
エリアは胸元の『月響の鈴』を握った。
鈴は淡く温もっていたが、その小さな熱も、荒れ狂う吹雪の前ではあまりに頼りない。
「……にゃあっ!」
その時だった。
狂風の轟音を切り裂き、鋭く澄んだ猫の鳴き声が響く。
二人が足元へ目を落とすと、小さな白黒の影が、氷床へ爪を立てて立っていた。
ハチ割れ猫のコハクだ。
「コハク……! 大丈夫!?」
エリアが叫ぶ。
短い毛並みには粉雪がびっしりと張りついていた。
だが、コハクの身体を覆うように、瑠璃色の淡い光が揺らめいている。『真実の窓』から溢れる光が、凍気をわずかに逸らしているのだ。
コハクは長い尻尾をぴんと立て、力強く首を振った。
その立ち姿には、少しの揺らぎもない。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
左右で異なる色を宿した、神秘的な瞳。
右目の深い琥珀色は、悠久の時を閉じ込めたように静かに輝いている。
そして、次なる道を映す左目――『真実の窓』と呼ばれる瑠璃色の瞳が、カッと眩い光を放った。
――キィィィン……。
耳鳴りにも似た、澄み切った高音が響き渡る。
瑠璃の瞳から放たれた光の波紋が、網目となって吹雪の奥へ広がっていった。
「これは……コハクの『真実の窓』……?」
レオンが息を呑む。
ただの白い闇にしか見えなかった景色の中へ、無数の細い光が浮かび始めた。
渦を巻き、ぶつかり合い、複雑に絡み合う光の流れ。
レオンが『世界律』と呼ぶ、この世界を形作る響きだった。
その乱れた流れの中に、一本だけ、澄んだ瑠璃色の筋が走っている。
風が巻き込まず、凍気の澱まない細い道。
コハクは、吹雪の中にもともと存在していた正しい流れを見抜き、二人にも見える形で示しているのだ。
『真実の軌跡』だった。
「吹雪の中に……道がある……!」
エリアが目を見開く。
瑠璃色の帯へ触れた雪は、見えない壁に分けられるように左右へ逸れていく。
吹雪の中に、細い透明な道が浮かび上がっていた。
「にゃっ!」
コハクは誇らしげに鳴くと、瑠璃色の光の上へ足を踏み出した。
道へ入った途端、それまで毛並みを叩いていた雪が静まる。
すぐ脇では、なお白い嵐が唸り続けていた。
「すごい……! コハク、道を見つけてくれたんだね!」
「ああ。あの道は、コハクが作ったものじゃない」
レオンは瑠璃色の帯を見つめながら答えた。
「吹雪の流れの中に、最初から存在していた隙間だ。コハクの目が、その真実を僕たちにも見せてくれている」
レオンはエリアの手を取り、光の道へ足を踏み入れた。
「行こう。コハクの足跡を正確に辿るんだ。道から外れれば、また吹雪に呑まれる」
「はい!」
二人はコハクが示した瑠璃色の道を踏みしめ、再び歩き始めた。
道の縁では、白い嵐が地鳴りのように唸っている。
しかし、光の内側には、二人の足音さえ聞こえるほどの静けさがあった。
幅は一メートルほどしかない。
一歩でも踏み外せば、風の刃が容赦なく襲ってくるだろう。
エリアはレオンの腕を支えたまま、コハクの小さな足跡を一つずつ追った。
「はぁ……はぁ……っ」
風の圧力が弱まるにつれ、レオンの呼吸も少しずつ落ち着いていく。
彼は防寒コートの襟を緩め、エリアを振り返った。
「大丈夫かい? 手足の感覚はある?」
「はい。鈴の温かさもありますから」
エリアは頷き、レオンを心配そうに見上げた。
「レオンさんこそ……背中、痛むんですよね?」
蜂蜜色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
レオンはいつものように笑ってごまかそうとして――やめた。
「……痛むよ」
正直に告げ、困ったように笑う。
「でも、君に支えてもらっているから歩ける。本当に助かっているよ」
「だったら、もっと頼ってください」
エリアはレオンの腕を抱え直した。
「私、もう守られてるだけじゃありませんから」
「ああ。そうだったね」
レオンの表情に、わずかな安堵が戻った。
「それに、コハクがいなければ、あと何歩進めたか分からない」
「にゃあ!」
先頭を歩くコハクが、任せておけと言わんばかりに尻尾を揺らした。
エリアはその姿に少しだけ笑い、胸の奥でそっと息をついた。
瑠璃色の道は緩やかな傾斜を上り、巨大な氷柱が連なる山脈の裂け目へ続いていた。
やがて、白い闇の向こうに、巨大な洞穴が口を開ける。
「あそこです! 洞窟があります!」
洞穴を囲む氷壁には、幾何学的な紋様が淡い青色の光を放っていた。
かつて古代文明アルテミアが刻んだものと、よく似た紋様だ。
「氷の聖域の遺跡……あそこが入り口だ!」
「にゃあん!」
コハクは最後の光の帯を駆け抜け、洞窟の滑らかな床へ飛び込んだ。
エリアとレオンもそれに続く。
転がり込むように洞窟へ足を踏み入れた途端、吹雪の轟音が一枚の壁を隔てたように遠のいた。
――ドサッ。
「はぁっ……はぁっ……! た、助かった……」
エリアは膝へ手をつき、荒い息を吐いた。
冷え切った身体を両腕で抱きしめる。
洞窟の中も凍えるほど寒かったが、肌を削る吹雪が遮られただけでも、身体への負担はまるで違っていた。
「お疲れさま、エリア。よく頑張ったね」
レオンは優しく声をかけ、エリアの肩へ積もった雪を革手袋で丁寧に払った。
その動きで背中が痛んだのか、一瞬だけ眉を寄せる。
今度は隠そうとせず、ゆっくりと息を整えた。
エリアも何も言わず、彼の背中へそっと手を添える。
それからレオンは足元へしゃがみ込み、すり寄ってきたコハクの頭を優しく撫でた。
「君も、本当にありがとう、コハク。君の目が道を見つけてくれなければ、僕たちはここまで来られなかった」
「にゃ~ん」
コハクは得意げに目を細め、喉を鳴らしながら、レオンの手袋へ頭を擦りつけた。
そのハチ割れ顔には、「任せておけ」とでも言いたげな頼もしさが漂っている。
エリアは微笑み、それから洞窟の奥へ視線を向けた。
外の吹雪が遠ざかった洞窟の内部は、静まり返っていた。
頭上には、青い剣を思わせる巨大な氷柱が幾重にも垂れ下がっている。
壁も床も、千年の時を閉じ込めたような深い蒼色の氷に覆われていた。
そして、奥から漂ってくる冷たさは、肌を刺す凍気だけではなかった。
(……何だろう、この感じ……)
エリアは胸元の『月響の鈴』を握った。
海の聖域に満ちていた、波のない静寂とは違う。
この冷たさは、胸の内側へ染み込み、心の奥にある温もりまで奪おうとしてくる。
そこにあるのは、命のぬくもりを拒むような、深い『孤独』だった。
「レオンさん……ここ、何か変です」
「……ああ」
レオンの蜂蜜色の瞳が、すっと細められた。
先ほどまでの穏やかな表情が消え、調律者の鋭い顔つきへ変わっていく。
「この奥に、ノクスがいる」
静まり返った暗闇を見据え、低い声で続ける。
「僕たちの心まで凍らせるほど、深い孤独を抱えたノクスが」
レオンはコートのポケットへ手を伸ばした。
指先が触れたのは、セレスの『月律』と『海の響き』によってつなぎ止められた銀の音叉だ。
金と銀と瑠璃色の筋が残るその表面を、確かめるように握る。
洞窟の奥から、何かが氷床を這うような気配が近づいていた。
ヒタ……。
ヒタ……。
静かな足音が、暗闇の奥で響く。
エリアとレオンは顔を見合わせた。
コハクも耳を立て、低く身構える。
身体を凍らせる吹雪は越えた。
だが、この先で待っているのは、心の温もりを奪う氷の迷宮だった。




