第十二話 帰還と、解けた緊張 パート4
第十二話 帰還と、解けた緊張
パート4
翌朝。
銀葉の森は、雲一つない澄み切った青空に恵まれていた。
木々の隙間からこぼれる朝日が、猫カフェ『ルナ』を柔らかく包んでいる。
「ふふっ……きれい」
誰もいないフロアで、エリアはほうきを片手に目を細めた。
昨日まで無残なひびに覆われていた、店の象徴である丸窓。今ではセレスの『月律』と『海の響き』によって、波模様の美しいガラスへと生まれ変わっていた。
そこを透かした朝日は、浅瀬に揺れる光の網のような瑠璃色を、床一面に描いている。
「おはよう、エリア。すっかり早起きだね」
カウンターの奥から、聞き慣れた穏やかな声がした。
振り返ると、新しいエプロンを身につけたレオンが、コーヒーポットを片手に微笑んでいる。
「レオンさん! もう起きて大丈夫なんですか? 背中の傷は……」
「うん。まだ少し突っ張るけれど、痛みはだいぶ引いたよ。君が手当てしてくれたおかげだ」
そう答えながらも、レオンはポットを置く際、背中をかばうようにわずかに肩を強張らせた。
顔には昨日のような土気色こそ残っていないが、無理をしていい状態ではないことくらい、エリアにも分かる。
「本当に、無茶はしないでくださいね」
「分かっているよ。だから、旅立つ前にまずは朝食だ」
レオンはエリアを安心させるように微笑んだ。
「今日は、とびきり甘いフレンチトーストを焼こうと思うんだけど、どうかな」
「わぁっ! 食べます、絶対食べます!」
エリアが身を乗り出すと、レオンはくすりと笑った。
二人のやり取りを聞きつけたのか、寝床のクッションから三毛猫のニケが欠伸交じりに「にゃあ」と顔を出す。
茶トラのマロンはすでに、「ご飯の匂いがするぞ」とでも言いたげに、レオンの足元へ身体を擦りつけていた。
カウンターの奥に積まれた毛布の中では、ルナがまだ静かな寝息を立てている。
小さな背中が規則正しく上下しているのを確かめ、レオンは優しく目を細めた。
「ルナも、しばらくはゆっくり休めそうだ。……さて、それじゃあ僕たちは――」
レオンが言葉を続けようとした、その時だった。
――タッ、タッ、タッ。
軽やかな足音が、古木の床を鳴らす。
白黒のハチ割れ猫、コハクだ。
コハクは迷いのない足取りで店を横切り、重厚な木の扉の前にちょこんと座った。
前足で扉をカリカリと引っかき、振り返って二人を見上げる。
「コハク……。そうか、次の場所が分かったんだね」
エリアとレオンは顔を見合わせ、すぐにコハクのもとへ向かった。
顔の中央でくっきりと分かれたハチ割れ模様。
その右目には、悠久の時を封じ込めたような深い琥珀色が宿っている。
そして、次なる道を映す左目――『真実の窓』と呼ばれる透き通った瑠璃色の瞳。
その奥に映る光景を目にして、エリアは息を呑んだ。
「レオンさん、これ……」
「ああ。……猛吹雪だ」
昨日まで映っていた『波なき海』は、跡形もなく消えていた。
代わりに荒れ狂っているのは、視界を真っ白に塗り潰す吹雪と、天を突くように連なる巨大な氷柱だ。
瞳の中の景色に過ぎないはずなのに、見つめているだけで肌を刺す凍気が伝わってくる。
「次は『氷の聖域』か」
レオンは瑠璃色の瞳を見つめたまま、静かに呟いた。
「波ひとつなかった海とは正反対だ。厳しい旅になりそうだね」
「氷の聖域……。でも私たち、この格好じゃ凍えちゃいますよ?」
エリアは薄手のブラウスとエプロン姿の自分を見下ろし、身震いした。
するとレオンは、カフェの奥にあるスタッフ用の裏部屋を顎で示した。
「心配ないよ。あそこには、どんな土地から迷い人が来ても困らないように、季節ごとの衣類がそろえてあるんだ」
「そんなものまであったんですか!?」
「長く店を続けていると、いろいろ必要になるからね」
ほどなくして、二人は本格的な冬支度を整えていた。
レオンは厚手の黒いセーターに、風を通しにくい深緑の防寒コートを羽織っている。
エリアには、雪の中でも見失わないような深い赤色のダッフルコートと、耳まで覆う白いニット帽が用意されていた。
「これ、すごく暖かいです!」
「よく似合っているよ、エリア。……手袋も忘れないようにね」
レオンが差し出したのは、厚手で丈夫な革製の冬用グローブだった。
それを受け取ったエリアは、指先で革の感触を確かめる。
これまでの白い布手袋は、『破壊の力』を世界から遠ざけるための戒めだった。
けれど、この手袋は違う。
自分を閉ざすためではなく、凍てつく世界へ踏み出すためのものだ。
(私はもう、力を隠すために手袋をするんじゃない)
エリアは革の手袋をしっかりとはめ、両手を握った。
次いで、その拳をゆっくりと開く。
もう、その手は何かを恐れて隠すためだけのものではなかった。
一方のレオンも、コートのポケットへそっと手を入れていた。
指先に触れるのは、金と銀と瑠璃色の光の筋が残る銀の音叉だ。
傷は消えていない。
それでも、そこに宿る響きは、以前よりも確かなものに感じられた。
(僕も、もう逃げない。この傷も、君と一緒に連れていこう)
レオンは音叉を一度だけ握り、ポケットから手を抜いた。
そして、エリアの隣に立つ。
二人の足元では、コハクが「準備はいいか?」とでも言いたげに、尻尾をぴんと立てて待っていた。
キャットタワーの最上段からは、セレスが銀月の瞳で二人を見下ろしている。
その顔は「まったく、物好きね」と呆れているようでいて、どこか誇らしげでもあった。
「準備はいいかい、エリア」
「はい。いつでも行けます」
エリアはダッフルコートの胸元から、瑠璃色の光を宿した『月響の鈴』を取り出した。
深く息を吸い、澄んだ音を鳴らす。
――チリーン……。
波の余韻を含んだ鈴の音が、魔法の鍵となって古い木の扉の錠を外した。
扉の縁に刻まれた銀色の紋様が、淡く光り始める。
異界の空気が店内へ流れ込みすぎないよう、カフェを守る境界の魔法だ。
エリアは革手袋をはめた両手で、真鍮のドアノブをしっかりと握った。
「開けます!」
ガチャリ、と扉を押し開いた瞬間。
ゴォォォォォォォッ――!
「うわっ!」
「エリア、気をつけて!」
扉の隙間から、白い獣の咆哮にも似た風が吹き込んだ。
猛吹雪が雪煙を巻き上げ、カフェの温かな空気を一息に奪おうとする。
床の埃が舞い、カウンターの紙ナプキンが雪片とともに宙へ巻き上げられた。
だが、扉の縁を走る銀色の光が波紋のように広がると、吹き込んだ風は入り口の手前で押しとどめられた。
店の奥で休む猫たちへ、凍気が届くことはない。
扉の向こうに広がっていたのは、見慣れた銀葉の森ではなかった。
天地のすべてが、白と薄鈍色の吹雪に閉ざされている。
数歩先すら見通せない白い闇。
その奥では、巨大で鋭利な氷柱が幾重にもそびえ、刺すような凍気を放っていた。
「これが……氷の聖域……!」
吹きつける雪に目を細め、エリアはコートの襟元を握った。
一歩踏み外せば、白い闇に呑まれる。
そう思わせるほどの吹雪だった。
それでも、隣には同じ風に立ち向かうレオンがいる。
足元には、雪を踏みしめて先導しようとするコハクがいる。
そして背後には、必ず帰ってこられる温かな居場所がある。
「行こう、エリア」
レオンは吹雪の奥を見据えた。
「この白い闇の中で泣いているノクスを、僕たちで見つけよう」
「はい!」
轟音を上げる白い闇へ。
エリアとレオンは温かな居場所を背に、凍てつく『氷の聖域』へ最初の一歩を踏み出した。




