第十二話 帰還と、解けた緊張 パート3
第十二話 帰還と、解けた緊張
パート3
「……レオンさん。お茶、淹れましたよ」
エリアの声に、ブランケットの中で伏せられていた蜂蜜色の瞳が、ゆっくりと開いた。
レオンの呼吸はまだ浅かったが、頬にはわずかに血色が戻っている。
身体を起こそうとする彼の肩を、エリアは慌ててそっと押さえた。
「無理に動かないでください」
ソファの背もたれとの間にクッションをいくつか挟み、レオンが楽に寄りかかれる体勢を整える。
「……これ、熱いから気をつけてくださいね」
エリアが差し出したのは、深い海を思わせる青いマグカップだった。
レオンがいつも使っている、お気に入りのカップだ。
立ち上る湯気から、ハチミツの甘い香りが漂ってくる。そこへ生姜のほのかな刺激と、カモミールの柔らかな香りが混じっていた。
レオンは青いマグカップを見つめ、やがて、それを包むエリアの素手へ視線を落とした。
その指を覆う布手袋はない。
かつては、わずかな感情の揺れだけで陶器をひび割れさせていた手だ。
けれど今、その手は青いカップを傷つけることなく、彼のもとまで運んできた。
「……素手で、淹れてくれたんだね」
「あ……はい」
エリアは少し照れくさそうに、両手の中のカップへ目を落とした。
「わたし、一度も割らなかったんです。お湯を注いでも、スプーンが当たっても……ちゃんと、最後まで」
そう告げる琥珀色の瞳には、隠しきれない喜びが輝いていた。
その無邪気な笑顔を見ていると、レオンの胸に残っていた痛みまで、ふっと軽くなったように思えた。
「ありがとう、エリア」
レオンは囁くように礼を言い、両手でマグカップを受け取った。
そっと唇を寄せ、湯気を吹き払ってから一口含む。
カモミールの柔らかな香りに続いて、ハチミツのまろやかな甘みと、生姜の温かな刺激が広がった。
冷え切っていた身体の奥へ、じんわりと染みていく。
傷ついた背中の痛みさえ、湯気の向こうへ遠のいていくような心地よさだった。
「……すごく美味しいよ」
レオンはカップを両手で包みながら、穏やかに笑った。
「僕が淹れる紅茶より、ずっと温かい」
「本当ですか……!? よかった……!」
エリアはほっと胸に手を当て、花がほころぶように笑った。
その時だった。
レオンが体勢を整えようと、わずかに身じろぎする。
胸ポケットから銀色の何かが滑り落ちた。
カツン、と。
ソファの脇にある古木の床板へ、小さな金属音が響く。
「……あ」
二人の視線が、同時に床へ落ちた。
そこに転がっていたのは、レオンの相棒であり、『調律』を行使するための魔術具――古びた銀の音叉だった。
床に落ちた音叉は、痛々しい姿をさらしていた。
過去の傷を映すように付け根へ刻まれていたひびは、ノクスとの戦いと海の聖域での酷使によって、二股の根元まで深く広がっている。
あと一度でも弾けば、真っ二つに砕けてしまいそうだった。
「レオンさん、音叉が……」
エリアが息を呑み、手を伸ばしかけた、その時。
ふわり、と白い影が視界を横切った。
店の隅に立つキャットタワーの最上段から、一匹の猫が音もなく飛び降りてきたのだ。
ノルウェージャンフォレストキャットのセレスだった。
純白の豊かな長毛と、首元を飾る立派な毛並み。
セレスは太くふさふさとした尻尾を優雅に揺らしながら、すました顔で音叉へ歩み寄った。
「セレス……?」
普段なら、高い棚の上からエリアの失敗を冷ややかに見下ろしている白猫が、床に転がる音叉の前で静かに腰を下ろす。
セレスはレオンを一瞥すると、「まったく、世話の焼ける人間ね」とでも言いたげに、ゆっくりと瞬きをした。
その瞬間。
澄み切った両眼――『銀月』の瞳が、冴え渡る月光のような輝きを放ち始めた。
「ニャァー……」
セレスが、低く澄んだ声で鳴く。
ふさふさとした右前足をそっと伸ばし、ひび割れた銀の音叉に触れた。
ゴロゴロ……ゴロゴロ……。
セレスの喉から、低く澄んだ振動が響き始める。
甘える時の喉鳴りとは違う。
床板を伝い、カップの水面を震わせ、聞く者の胸の奥まで静かに揺らす音だった。
白竜アルカディアの深い呼吸にも、夜の海を満ち引きさせる月の鼓動にも似た、澄み切った『月律』の響き。
「これって……セレスが、音叉を調律してる……?」
エリアが目を見張る。
すると、胸元に提げられた『月響の鈴』が、セレスの響きへ応えるように温かな光を放ち始めた。
海の聖域から持ち帰った最初の欠片――『海の響き』の瑠璃色の輝きだ。
月の銀と、海の瑠璃。
二つの光が空中で重なり、音のない旋律となって音叉へ降り注いだ。
ジュウゥ……。
冷たい水が熱い鉄へ触れたような、不思議な音が響く。
光は音叉の亀裂へ吸い込まれ、その奥までゆっくりと満ちていった。
割れた器を金で継ぐように、傷を隠すことなく、光の筋でつなぎ止めていく。
亀裂には、金と銀と瑠璃が溶け合った模様が刻まれていった。
「すごい……ひびが、つながっていく……」
傷跡が消えたわけではない。
光の模様となって、音叉の表面に残っている。
それでも、今にも砕けそうだった二本の枝は、再び一つの魔術具として確かにつなぎ止められていた。
以前と同じ音叉ではない。
傷を抱えたまま、以前よりも強く、しなやかな響きを宿した音叉だった。
レオンは息を呑んだ。
セレスがただの猫ではないことなど、とうに分かっていたはずだった。
それでも今、彼女が秘めていた力の深さを、改めて思い知らされる。
だが、響きはそこで止まらなかった。
セレスの喉鳴りと音叉の共鳴が、見えない波紋となって店内へ広がっていく。
ピシ……と。
窓辺から、細い音が返ってきた。
響きが向かった先にあったのは、ノクスの黒い霧に破られ、蜘蛛の巣のようなひびが残っていた大きな丸窓だった。
亀裂の隙間に、瑠璃色と銀色の光が走る。
離れかけていたガラスの破片が、響きに導かれるようにゆっくりと接合されていった。
完全に元の姿へ戻ったわけではない。
ガラスの表面には、波を思わせる光の筋が残されている。
まるで、初めから職人が意図して作り上げたかのような、淡く美しい模様だった。
窓から差し込む夕暮れの光が波模様を透過し、床板の上に瑠璃色の光を描き出す。
どこか遠くから、穏やかな潮騒が聞こえてくるようだった。
「店の結界まで……」
「あぁ」
レオンは静かに頷いた。
「セレスの『月律』と、君が持ち帰った『海の響き』。それに、このカフェに残っていた調律の力が重なったんだ」
音叉だけではない。
月響の鈴だけでも、セレスだけでも起こらなかった。
すべてがこの場所で重なったからこそ生まれた、一度限りの共鳴だった。
「この店も、僕たちと一緒に帰ってきたかったのかもしれないね」
レオンは深く息を吐き、胸の前にそっと手を置いた。
傷ついた音叉も、カフェも、自分たちの心も、何もなかった頃には戻れない。
それでも、残った傷は光を宿し、以前とは違う強さへと結び直されていく。
「フン」
仕事を終えたセレスは、誇らしげに喉を鳴らした。
前足を丁寧に毛づくろいすると、素知らぬ顔でくるりと背を向ける。
ふさふさの尻尾を一度だけ優雅に揺らし、何事もなかったかのようにキャットタワーの上へ戻っていった。
「ふふ……素直じゃないんだから」
エリアは遠ざかる白い背中へ微笑みかける。
「ありがとう、セレス」
足元には、いつの間にか三毛猫のニケと茶トラのマロン、そして目を覚ましたコハクが集まっていた。
猫たちはレオンのソファを囲むように思い思いの場所へ丸くなり、幸せそうに喉を鳴らし始める。
壊された居場所は、二人の手と猫たちの力によって、少しずつ新たな姿へ組み直されていた。
温かな紅茶の湯気。
重なり合う猫たちの喉鳴り。
そして、波模様の窓から差し込む柔らかな光。
そのすべてが、ようやく帰るべき場所へ戻った二人を、静かに包み込んでいた。




