第十二話 帰還と、解けた緊張 パート2
第十二話 帰還と、解けた緊張
パート2
レオンの背中の傷を丁寧に消毒し、新しい包帯を巻き終える頃には、荒かった呼吸もいくぶん穏やかになっていた。
極度の疲労と痛みに耐えかね、彼は浅い眠りに落ちている。
エリアは彼が寒がらないよう、厚手のブランケットを顎の下までしっかりとかけ直すと、そっとその場を離れた。
「さて……」
静寂に包まれたカウンターの奥、キッチンスペースへと足を踏み入れる。
ここはいつも、レオンの定位置だった。
彼が流れるような所作で茶葉を量り、湯を注げば、芳醇な香りが店いっぱいに広がる。その香りと一杯の紅茶が、訪れた迷い人たちの強張った心を、何度も優しく解きほぐしてきた。
エリア自身も、数え切れないほど彼の紅茶に救われてきた。
皿を割り、泣きそうになった時も。
自分の持つ『破壊の力』が怖くて、すべてから逃げ出したくなった時も。
それでも、レオンは怒らなかった。
「怪我はないかい?」
そう言って、ひだまりのように笑い、特製のハチミツレモンや甘いミルクティーを差し出してくれた。
(今度は、私がレオンさんに淹れる番だ)
エリアは、キッチンに並ぶアンティークのキャニスターを順番に見つめた。
レオンの身体が、芯まで冷え切っていたことを思い出す。
「冷え切ってたから……身体が温まるものがいいよね」
以前、レオンが教えてくれたことを思い出しながら、カモミールと生姜、それからハチミツを取り出す。
心を落ち着かせ、冷えた身体を内側から温めてくれる組み合わせだ。
コンロに火をつけ、アンティークのやかんを載せる。
シュンシュンと湯が沸く音を聞きながら、エリアは食器棚へ手を伸ばした。
レオン専用の、少し大きなマグカップ。
深い海を思わせる青色をした、彼のお気に入りだ。
それを手に取ろうとして――エリアの指先が、ぴたりと止まった。
今、その指を覆う布手袋はない。
ノクスと戦うために外したままの、むき出しの手だった。
いつもなら、この手で陶器に触れれば、感情のわずかな揺れに力が反応し、表面に細いひびを走らせてしまう。
力を抑えきれず、触れたカップやソーサーを何度割ったか、もう数えきれない。
(もし、また力が暴走して、レオンさんの大切なカップを壊してしまったら……)
古い恐怖が、胸の奥で鎌首をもたげた。
息が浅くなり、指先がかすかに震え始める。
それでもエリアは手を引かなかった。
そっと目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸う。
(大丈夫。怖くても、触れられる)
瑠璃色の海で、巨大なノクスを覆っていた『静寂の蓋』を真正面から打ち破った、あの感覚を思い出す。
この力は、ただ大切なものを傷つけるだけの呪いではない。
何を壊し、何を守るのか。
今なら、自分で選べる。
「お願い。私の力……一緒に、レオンさんを温めて」
祈るように呟き、エリアはゆっくりと指を伸ばした。
震えの止まった指先で、青いマグカップの取っ手を握る。
滑らかな陶器の感触が、肌へ直接伝わってきた。
――ピキッ、とも。
――パリン、とも。
音はしなかった。
青いカップは、何事もなかったようにエリアの手の中へ収まっている。
「……っ!」
エリアは小さく息を呑んだ。
胸の奥から込み上げてくるものをこらえながら、カップをそっとカウンターへ置く。
やがて湯が沸くと、エリアはティーポットへ注ぎ、カモミールと生姜を蒸らした。
さらさらと落ちていく砂時計の砂を見つめる時間さえ、今は愛おしく思える。
砂がすべて落ちきると、片手でポットを持ち、もう片方の手で蓋を押さえた。
慎重に傾け、紅茶をカップへ注いでいく。
トクトクトク……。
静かな店内に、心地よい水音が響く。
湯気とともに、カモミールの柔らかな香りが立ち上り、そこへ生姜の刺激がほのかに混じった。
最後にスプーン一杯のハチミツを加え、ゆっくりとかき混ぜる。
カチン、と。
銀色のスプーンが、カップの内側に触れた。
エリアの肩が、わずかに揺れる。
けれど、ひび割れる音はしなかった。
カップには、ひびひとつ入っていない。
琥珀色の水面だけが、銀のスプーンに揺らされて静かに波打っていた。
「できた……」
エリアは完成した紅茶を見下ろした。
視界が、ほんの少しだけ滲む。
強大な敵を倒したわけではない。
ただ、大切な人のために、ひとつのカップを壊さず紅茶を淹れただけだ。
はたから見れば、当たり前の日常のひと幕に過ぎない。
けれど、布手袋で世界と自分を隔ててきたエリアにとって、それは一つの奇跡だった。
「待っていてくださいね、レオンさん。目を覚ましたら、飲んでもらいますから」
エリアは両手でマグカップを包み込んだ。
素肌へ伝わる熱を確かめるように、レオンの眠るソファへと歩き出す。
その手はもう、震えていなかった。




