第十二話 帰還と、解けた緊張 パート1
第十二話 帰還と、解けた緊張
パート1
――からん、と。
見慣れた真鍮のベルが、どこか遠く懐かしい音色を店内に響かせた。
光の扉をくぐった瞬間、全身を包んでいた潮風と、果てしない瑠璃色の海の気配が、引き潮のようにすうっと遠ざかった。
代わりに鼻腔をくすぐったのは、古い木と乾いた茶葉の匂い。そして、ノクスの強襲に荒らされた、少し埃っぽい店の空気だった。
「……帰ってきたんだ」
エリアは小さく息を吐き、足元を見つめた。
そこにあるのは、もう底まで透き通った波なき水面ではない。踏みしめれば、いつものように微かな音を立てて軋む、馴染み深いオーク材の床板だ。
カウンターの奥へ目をやれば、柔らかそうな毛布の山がある。
そこでは、首元の鈴を失った黒猫のルナが、丸くなったまま規則正しい寝息を立てていた。
その温かな寝息を聞いた途端、エリアの胸を締め付けていた硬い結び目が、ほんの少しだけ解けた。
「よかった……ルナちゃん、ちゃんと無事だ……」
エリアが振り返り、安堵の笑みを浮かべかけた、まさにその時だった。
「……っ、う……!」
「レオンさん!?」
背後で、重いものが崩れ落ちるような音がした。
見ると、レオンが壁に片手を突き、苦しげに喉を鳴らしながら、その場に崩れ落ちようとしていた。
旅装のためにエプロンを外した彼の背中では、ノクスの爪に抉られた傷から血が滲み、薄手のシャツに新たな赤い斑点を作っていた。
「はぁっ、はぁっ……すまない、エリア。……少し、気を張りすぎていたみたいだ……」
レオンの顔からは完全に血の気が失われ、唇は紫がかって震えていた。
無理もない。
背中に深い傷を負ったまま、地下の聖域では己の心の傷と向き合い、『瑠璃色の海』では世界中の悲しみを受け止め、音叉を鳴らし続けた。
休む暇など、一度もなかったのだ。
帰るべき場所の空気に触れたことで、張り詰めていた糸が、ついに切れてしまったのだろう。
レオンの膝が完全に折れ、古木の床へ倒れ込もうとする。
(レオンさんが……倒れちゃう……!)
一瞬、エリアの脳裏に過去の恐怖がよぎった。
自分が触れれば、また力を暴走させ、弱っているレオンをさらに傷つけてしまうかもしれない――。
けれど、エリアの足は止まらなかった。
「レオンさんっ!!」
エリアは駆けた。
いつもなら布手袋に隠している手を、そのまま伸ばす。
そして、倒れかけたレオンの大きな身体を、真正面から抱き止めた。
ずしりと、青年の重みが肩にかかる。
抱き止めた身体は驚くほど冷たく、全身が細かく震えていた。
それでも、エリアは決して腕を緩めなかった。
「大丈夫です。今度は、私を頼ってください!」
エリアは歯を食いしばり、華奢な身体に全身の力を込めて、レオンの腕を自分の肩へ回した。
そのまま一歩ずつ、しっかりと床を踏みしめ、フロアの中央にある大きな革張りのソファへとレオンを運んでいく。
レオンをソファへ横たえると、エリアはすぐに彼の靴を脱がせ、近くにあった厚手のブランケットを優しくかけた。
「はぁっ……はぁ……」
レオンはソファの上で荒い息をつきながら、うっすらと蜂蜜色の瞳を開けた。
申し訳なさそうに眉を下げ、力なく苦笑する。
「かっこ悪いな……。店長なのに、君に……支えられてばかりだ……」
「何言ってるんですか! かっこ悪いなんてこと、絶対にありません!」
エリアはレオンのそばにしゃがみ込み、彼の額に浮いた冷や汗を自分の袖で丁寧に拭った。
「レオンさんは、ずっと私やお店を守ってくれたじゃないですか。砂漠でも、この店でも、あの海でも……ずっと、自分の身を削ってまで。今度は、私がレオンさんを支える番です!」
レオンを見つめる琥珀色の瞳は、もう揺れていなかった。
「な、にゃあ……」
二人のやり取りを見守るように、足元から小さな声が上がった。
三毛猫のニケと、茶トラのマロンだ。
二匹は心配そうに耳を伏せながらソファの脚に身体を擦り付け、それからレオンの足元へそっと飛び乗った。
彼の冷えた身体を温めるように、ぴたりと寄り添って丸くなる。
「ニケ、マロン……ありがとうね」
エリアが猫たちの頭を優しく撫でると、ふと視線を感じて頭上を見上げた。
店内の隅に立つ、高いキャットタワーの最上段。
そこに、一匹の猫が静かに佇んでいた。
純白の豊かな長毛と、首元を飾る見事な毛並み。太い尻尾をゆらりと揺らしているのは、ノルウェージャンフォレストキャットのセレスだった。
普段の彼女なら、エリアが皿を割るたびに、「まったく、ガサツな人間ね」とでも言いたげな顔で冷ややかに見下ろしてくる。
だが今、すました顔に輝く両眼――透き通るように冴えた『銀月』の瞳には、いつもと違う光が宿っていた。
その銀色の輝きは、静かな夜の海を照らす月光のように冷たく、それでいて深い慈愛を秘めている。
セレスの視線は、横たわるレオンから、彼の胸ポケットを覗く「二つに割れかけた銀の音叉」へと移った。
気高さを崩さないまま「フン」と小さく鼻を鳴らし、ゆっくりと瞬きをする。
その所作はまるで、『さっさと手当てをしなさい』とエリアを促しているかのようだった。
「うん……わかってるよ、セレス」
エリアはセレスの銀月の瞳を見つめ、頷き返した。
そして、勢いよく立ち上がる。
「レオンさん、動かないで待っていてくださいね。救急箱を持ってきて、傷を手当てし直しますから!」
「……ありがとう、エリア。頼むよ」
レオンの穏やかな返事を聞くと、エリアは力強い足取りでカウンターの奥へと走った。
かつては、壊すことしかできないと思っていた手。
その手が今、大切な人を助けるために動いている。
胸の奥に灯った温かさを抱きしめるように、エリアは救急箱へと手を伸ばした。




