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第十一話 波なき静寂と、冷たい透明 パート4

第十一話 波なき静寂と、冷たい透明


パート4




音を失っていた海に、砕け散る水晶のような響きが降り注いだ。


「ギ、ァァァァァァァァァッ……!」


『静寂の蓋』を失い、むき出しになったノクスが、悲痛な叫びを上げる。


それは、長い年月、海底の暗闇で押し殺されてきた無数の悲しみが、ようやく上げた泣き声だった。


顔のない巨像が大きく身を震わせる。


解き放たれた黒い泥水が津波のように膨れ上がり、泣き叫ぶように二人へ襲いかかった。


「まだ終わっていない……!」


レオンはエリアの前へ踏み出し、亀裂の広がった銀の音叉を掲げた。


――チィン……。


先ほどよりも弱く、それでも澄み切った一音が響く。


音叉から生まれた金色の波紋が、迫る濁流へ静かに広がっていった。


「もう、無理に感情を殺さなくていい」


レオンの温かな声が、荒れ狂う不協和音の中へまっすぐに届く。


「……悲しいときは、泣いていいんだ」


金色の波紋は、砕けた『静寂の蓋』の隙間を抜け、ノクスの奥深くへ染み込んでいった。


それは、傷口を無理やり塞ぐための『調律』ではない。


押し殺されてきた痛みに寄り添い、その悲しみが本来持っていた響きを取り戻すための、優しく深い音だった。


「ギ、ァァァ……!」


黒い泥の中から、幾筋もの鎖が浮かび上がる。


傷つくことへの恐怖。


誰かを失うことへの怯え。


二度と苦しみたくないという、切実な願い。


それらが黒い鎖となり、ノクスの感情を固く縛り付けていた。


「エリア! 僕が鎖の響きを浮かび上がらせる!」


「はい!」


エリアは水面へ投げ捨てた手袋を拾うことなく、白い石畳の上で素手を掲げた。


金色の波紋が、絡み合った鎖の一本を照らし出す。


エリアはその響きを見定め、両手へ『破壊』の魔力を集めた。


「壊すのは、悲しみじゃない」


指先から瑠璃色の光が放たれる。


「悲しみを閉じ込めている、この鎖だけ!」


――パキィンッ!


黒い鎖が一本、澄んだ音を立てて砕け散った。


続いて二本、三本。


レオンの『調律』が鎖を見つけ、エリアの『破壊』がそれだけを断ち切っていく。


鎖が砕けるたび、黒い泥の中から、淡い光があふれ出した。


『……かなしい……』


幼い声が響いた。


『……こわかった……』


その声へ重なるように、いくつもの嗚咽が海を満たしていく。


誰にも聞かれず、誰にも受け止められなかった、遠い昔の人々の涙。


「うん」


エリアは両手を下ろさず、小さく頷いた。


「悲しかったんだよね。怖かったんだよね」


最後の鎖が、金色の光の中に浮かび上がる。


「もう、無理に沈めなくていいんだよ」


エリアが手を伸ばす。


――パァンッ!


最後の鎖が砕けた。


その瞬間、暴れ狂っていた黒い泥水が、力を失ったように崩れ始めた。


漆黒の濁りが金色の波紋にほどかれ、淡い光の粒となって、さらさらと海へ還っていく。


巨像の輪郭も、少しずつ薄れていった。


『……あぁ……』


最後に、安堵の吐息にも似た小さな声が響いた。


エリアは、その声を確かに聞いた。


やがてノクスの影は完全に光へ溶け、瑠璃色の海へ還っていった。


静けさが戻る。


だが、それは先ほどまでの、息苦しい静寂ではなかった。


――ふわり。


エリアの頬にかかる後れ毛を、一筋の風が揺らした。


「えっ……」


ここへ来てからずっと、何も動かなかった世界。


その海に、初めて風が吹いた。


風は、ほんのりとした塩気と、新しい生命の気配を運んでくる。


「潮風……」


風が白い遺跡の間を駆け抜けた。


同時に、石畳の縁に触れていた水面へ、細かなさざ波が生まれる。


一つの波が、次の波を呼ぶ。


波は幾重にも連なり、やがて大きなうねりとなって、崩れた石柱へ打ち寄せた。


ザザァァァン……!


ザザァン……!


心地よい潮騒が、瑠璃色の空の下へ広がっていく。


鏡だった水面が揺れ、太陽の光を細かく砕いた。


白い柱の間を、きらめく波が駆け抜けていく。


海は今、確かに息をしていた。


「すごい……」


エリアは石畳の縁へ駆け寄り、波打つ水面を見つめた。


「波の音がする……。海が、生きてる」


頬を撫でる風も、足元を濡らす飛沫も、すべてが新しかった。


エリアの胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。


「やったね、エリア」


レオンが、ふっと肩の力を抜いて微笑んだ。


「君が最初の波を起こしてくれたから、この海の時間が、もう一度動き始めたんだ」


その顔には深い疲労がにじみ、額には汗が浮かんでいる。


それでも蜂蜜色の瞳にはもう、海底の静寂へ沈もうとしていた危うい影はなかった。


レオン自身の心にも、ようやく小さな風が吹いたかのようだった。


そのとき。


波打つ海面の下から、ぽわぁっ……と柔らかな光が浮かび上がった。


「レオンさん、あれ!」


二人が見つめる先で、海底に眠る遺跡の奥深くから、数え切れないほどの光の粒が昇ってくる。


それはまるで、海の中を舞い上がる逆さまの雪だった。


光の粒は水面を抜けると、潮風に乗ってくるくると円を描き、一つの場所へ集まっていく。


やがて光が収まると、そこには小さな結晶片が浮かんでいた。


波のきらめきを閉じ込めたような、透き通る瑠璃色の欠片。


『月響の鈴』が失っていた最初の響き――『海の響き』だった。


結晶は吸い寄せられるように、エリアの胸元へ飛んできた。


エリアが両手でそっと受け止める。


すると結晶は柔らかな光へ姿を変え、彼女の首にかかる『月響の鈴』へ溶け込んでいった。


――カァァァン……。


鈴が、自ら小さく鳴った。


これまでよりも深く、潮騒の余韻を宿した、厚みのある音色。


失われていた世界律の一つ――『海の響き』が、確かに鈴へ戻った証だった。


「……ルナちゃんに、いい報告ができるね」


エリアは胸元の鈴をぎゅっと握りしめ、満面の笑みでレオンを振り返った。


レオンも、亀裂の広がった銀の音叉を大切そうに見つめる。


長く連れ添った相棒は、どうにか形を保っていた。


「そうだね」


レオンは音叉を上着の内ポケットへしまい、力強く頷いた。


「……くっ」


その拍子に、顔がわずかに歪む。


レオンは片手を背中へ回した。


旅装の上着の下には、ノクスの爪に深く抉られた傷が残っている。


極度の緊張が解けたことで、押し隠していた痛みが、再び意識の前面へ戻ってきたらしい。


「レオンさん!」


エリアは慌てて彼のそばへ駆け寄った。


「やっぱり無理してたんじゃないですか! 早く帰って、手当ての続きをしないと!」


「大丈夫」と答えようとしたレオンだったが、エリアの厳しい視線を受け、諦めたように苦笑する。


「……そうだね。今回は素直に従うよ」


「にゃあ」


二人のやり取りを見ていたコハクが、白い石柱の一つへ向かって歩き出した。


波が届かない石畳の上を進み、何もない柱の表面を前足でカリカリと引っかく。


すると、白い石の上に光の線が走った。


線は長方形の輪郭を描き、やがて見慣れた木の扉へ変わっていく。


真鍮のベルと、『LUNA』の看板。


見間違えるはずもない。


猫カフェの扉だった。


「まずは、一度お店へ帰ろう」


レオンは痛みを堪えながらも、穏やかに微笑んだ。


「どれほど遠い世界を巡ったとしても……僕たちが帰る場所は、あそこだからね」


「はいっ!」


エリアは大きく頷いた。


背後では、波の音が祝福するように響いている。


自分たちの力で、止まっていた世界を動かすことができた。


それはまだ、小さな一歩にすぎない。


けれど二人の胸には、確かな希望となって残っていた。


エリアとレオンはコハクの後に続き、日常へとつながる扉の取っ手へ手を伸ばした。


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